第二章
「よしっ、これで終わり!」
「こっちもしゅーりょー!」
ほぼ同時に声が上がってお二方が顔を上げます。その表情は寸前までの集中に強張ったそれではなく、戒めから抜け出したような開放感に満たされたものでした。
そんなお二人と、そしてご同席して一足先に目的を達せられたお嬢様に労いの意をを込めてお茶をお出しします。
「お疲れ様です、皆様」
「あ、ありがとうございます、ジネットさん」
「無事に課題終わってよかったぁ……」
課題。それが本日皆様がアルレシャ家に集まって取り組んでいた目的でございます。
時は夏。時を刻む慣わしではファードの名を冠した月の、末にあたる頃。学園が二学期の始まりを目前に控えたその日に、夏季休暇の追い込みとして特別会場を開くに至りました。
皆様計画的に取り組まれ、今し方全ての課題を終えたところでございます。
「初めてのことだからどうなるかと思ってたけど、どうにかなったな」
「計画的に終わったのはあたしが毎日こつこつやらせたからでしょ?」
「言われなくてもやってたっての」
「嘘吐き。最初の一週間ぜんぜん手を付けてなかった癖に」
「提出までに終わればいいんだよ!」
「どうだか……」
幼馴染だというシルヴィ・クラズ様とロベール・アリオン様。このお二方も、わたくしがお仕えするお嬢様とはまた別の距離感で仲がよくていらっしゃいますね。
「それじゃあ冬期休暇はあたし何も言わないから。一人で頑張ってよね」
「手伝ってほしいのはシルヴィの方だろ? 一体どれだけぼくが教えたと思ってるんだよ」
「別に。ロベールが直ぐそこにいたから試しただけだから」
「あぁいいよ。分かったよ。だったらぼくだって冬の時はシルヴィに教えたりしないからっ」
「勝手にすれば?」
あらあら、これはこれは……。初々しい事でございますね。
「ジネット」
「楽しそう」
「普段は無い賑やかさでございますからね。使用人として責務に喜びを感じているだけでございますよ」
「あ、その……うるさくてごめんなさい」
「いえ、どうぞお気になさらず。元気があるのは良いことですから」
にこりと微笑めば、お二方が纏っていた感情の矛をしまわれました。……極個人的な事を言えば、お二人のやり取りは傍から見ていて楽しいので大変結構ではございます。が、お二人も名のある家の御息子御息女。日頃から振る舞いには礼節をとご立派でございますから、声を大きくされた事を恥じているご様子です。
さて、ではどうすればよろしいかと愚考を致しました所で、お嬢様が口を開かれました。
「終わった」
「どうする?」
「……そうだね、どうしよっか」
「どこか遊びに行くか?」
鏡写しに見目麗しい双子のお嬢様。ここカリーナ共和国の王孫殿下の地位を持つ、アルレシャ家の御息女。彼女達がわたくし、ジネット・シンストラが使用人として仕えるピス・アルレシャ様とケス・アルレシャ様でございます。
常人とは隔絶された価値観を抱き、互いの世界で完結された双玉。何人もの理解を拒み、目の前以外の全てを排斥する。全てがただそこにあるがままに紡がれる平等の均一。人よりも人に非ず、しかし妖精でもない。
お嬢様は、ただお嬢様と言う世界でのみ生きる、不可侵の存在でございます。
そんなお方ですから、二人で一つを体現するように言動の隅から隅までを共有されます。髪の色、髪型、瞳の色、声音、呼吸、仕草。
まるで互いが鏡の中から出てきた自分のように振舞われる、一対の羽のような方。それがわたくしの敬愛するお嬢様でございます。
「とは言え真新しいものなんてもうないからなぁ……。どこ行ってもまた、だろ?」
「または嫌?」
「新しいのがいい?」
「嫌ってわけじゃないけど……あんまり気乗りしないって言うか、何て言うか…………」
「ロベールは短気って言うか、あまり一つの事に執着しないからね」
「やめたくてもやめられないものもあるけどな。幼馴染とか」
そんなお嬢様の提案に悩み憂う声は、お二人のご友人のもの。
学都カリーナの最高峰……世界の学び舎とも言われる中の五指に入る教育機関、テトラフィラ学園に通われる同級生。この春より一年を共に学び、中でも協力を学ぶ為の一環として用意されたクラスターと言う括りでお嬢様と仲良くされているお二人でございます。
二人で完結しているお嬢様にとっては、外の世界であり最も身近な他人。入学前には想像もつかなかったご学友の存在ですが、今ではお名前を覚えるほどに親しくなられた間柄の方々です。
クラスターとして、そしてご友人として時を過ごすようになって早五ヶ月ほど。常人とは異なる距離感のお嬢様の傍で、時に自由さに振り回されながら楽しい時間を紡いでくださっている事には感謝の言葉が幾らあっても足りないほどです。
「…………ないわけじゃないよ」
と、カップを置いたシルヴィ様がぽつりと零されました。
どうやら永遠に続きそうだったお話になにやら御意見をお持ちの様子です。
「ただ、ロベールの言う、またの延長線だけど。それでもいいなら一つ」
「……他に思いつかないしな。で、何?」
「…………うん」
小さく頷かれたシルヴィ様。それから何かを飲み込む様な間を空けて、夏の思い出をまた一つ鮮やかに彩る提案をなされました。
「海、行こう」
* * *
幼馴染の提案で海に行く事になったぼく達は、一度解散し水着を準備して浜辺近くに集合する事になった。
恐らく今年最後の思い出になるだろう、夏季休暇の浪費。本音を言えばもっと新鮮味のある事をしたかったが、これといった代案もなく幼馴染の声に頷いた。
夏も段々と終わりに近付くファードの末。けれどもフェルクレールトの大地で南に位置するここカリーナ共和国では、未だ日差しが眩しく燦々と大地を照りつける日々が続いている。
そんなお国柄、他国……特にカリーナでは味わえない海水浴に興じようとグリストの月を目前に控えた時期でも、見渡す海岸線には人足は衰える様子がない。
そんなに海が面白いだろうかと。普段から見渡せば目に入るそれの傍で暮らしている身からすれば、その年の一番最初以外これと言った面白味の感じないただの大量の水に過ぎない。
が、どうにも幼馴染のシルヴィにとってはそうではないようで。なにやら思惑がある様子。一体何を思って今更海に行きたいなどと言い出したのだろうか。
そんな事を考えていると少し遅れてシルヴィと、そしてピスとケスがやってきた。……シルヴィは別として、ピスとケスの二人と遊べるのは素直に嬉しい。そう言う意味では価値がある事かもしれない。
「遅いっての」
「ごめん。けど、女の子には色々準備が必要なのっ。それくらい分かってよ……」
素直に謝られるとは思わなかった。いつもより喧嘩腰に会話したり、海に行きたいと言い出したり。何だか今日のシルヴィは少し変だ。
怒っている、のとも少し違う。なんだろう……色々なシルヴィが混ざっている気がする。
「ほら、行こ」
足を出したシルヴィがぼくを置いていくように横を通り過ぎる。その刹那、彼女の胸元に光を反射する何かを見つけて思わず目で追った。
「あ……」
「……なに?」
「いや、それ…………」
声に出ていたらしい。振り返った彼女に、誤魔化すのも変かと思って指を差して曖昧に零す。
指し示した先には、彼女の首に掛けられ揺れる黒い羽のペンダント。それは、この前の誕生日にお祝いの贈り物として彼女にあげた物だ。
思い返してみるが、先ほどの勉強会の時には付けていなかった気がする。
「ぁ、うん……。折角だから身に付けないともったいないかと思って。似合ってる、かな?」
微かに微笑んで指先で優しく撫でたシルヴィ。その仕草が変に現実離れして見えた気がして、息が少し詰まる。
そんなぼくの心の内など知らない彼女が、人差し指にそれを引っ掛けて持ち上げ首を傾げた。陽光を受けて、また一つ光を反射する。
そこで遅ればせながら気付く。服装が勉強していた時と違う。さっきは確か……薄桃色の袖なしの上着に、膝丈のパンツだったと記憶している。が、今目の前にいる彼女は清楚な印象の水色のワンピースだ。海風に裾が揺れて白い足を覗かせ、胸元に黒い羽が踊る。まさに夏らしい装いだ。
これから泳ぐと言うのにどうしてわざわざ着替えてきたのか……。その理由は分からないが、長年付き合ってきた幼馴染としての経験が無視をしては駄目だと告げる。
「い、いいんじゃねぇか? 服も夏らしいし…………似合ってる、と、思う……」
「そっか。……ふふっ」
ふわりと緩んだ口元。色づいた頬が、まるで美少女然として笑みを浮かべる。
別に、いつものシルヴィと変わらないはずなのに。その胸元に自分が贈ったそれが揺れていると思うと落ち着かなくなる。
「……ほら、行こ?」
不意に伸びてきた手のひらがぼくのそれを引っ張る。言葉も、服も、場所だって。これまでと何も変わらないはずなのに。それでもどきりと跳ねた胸の奥がむず痒くて、されるがままに足を出した。
……そう言えば、手をつないだのはいつ以来だろうか。少なくとも学園に入ってからはしていない。
そう考えてしまった所為か、今触れ合うその感触を嫌に鮮明に意識して微かに汗が滲んだ。
「……暑いねっ」
「夏、だからな」
シルヴィの声に、逃げるような相槌を打つ。
夏。そうだ。胸の奥が無駄にうるさいのも。汗が勝手に浮かんでしまうのも。顔が熱いのも。
全部、夏の所為だ。
更衣室で着替え、照りつける夏の日差し仰ぎ見る。
この様子だとグリストの月に入ってもしばらくは夏の気候に晒されそうだと鬱陶しく思う。
個人的には夏の暑さの方が冬の寒さより耐えられるからいいけれども。それにしたってこうして待ちぼうけは十分に辛い物がある。早く三人とも来ないだろうか。そして直ぐにでも海に飛び込みたい。
気を紛らわせる為に準備運動をして時間を潰す。遊びだからこそ、安全に。数日後から始まる学園の授業にも万全の状態で参加する為に、怪我無く今日を乗り切ろう。
「お待たせっ」
「はぁ、やっと──」
この暑さから開放される。溜まった鬱憤に悪態でも吐いてやろうと、背中に掛けられた声に振り返る。
するとそこには想像通りの顔が並んでいた。が、顔以外は想定外の景色だった。
こちらを見つめる三つの視線。真ん中に幼馴染のシルヴィを。そして彼女を挟むように双子のピスとケスが無表情に立っていた。
そんな彼女達の、身に纏う水着姿に思わず言葉を飲み込む。
まずピスとケス。二人は双子だ。が、今回に限っては鏡合わせではなかった。
前の水練の授業の時とは別の形の水着。それぞれに異なる、非対称なその姿。
姉であるピスは上から下まで一枚の、要所にひらひらとしたフリルをあしらったワンピースの水着。妖精のような余す所のない肢体を綺麗な曲線で彩って、女の子らしく目の前に佇む。腰周りからふわりと広がるスカートのような布が、傍を撫でた海風に揺れた。
妹のケスは、ピスとは違う上下に分けられた水着。胸元には可愛らしいリボンが一つ付けられ、惜しげもなく白いお腹を夏に晒す。下腹部には下着のような一枚布。腰の横に一つずつ結ばれた蝶の先端が落とす影は、健康的で艶かしささえ宿した脚。人形のように精緻で無駄のない輪郭が、姉とは違う魅力を湛えて彼女を彩る。
いつも鏡合わせな二人。水練の時もそうだった彼女達が、今は異なる装いで目の前にいる。その事に混乱と、眩暈と、なにより言葉にならない感情が競りあがる。
それぞれがそれぞれの魅力を纏い、異なる姿でありながら比べられない妙味を描き出す。どう言葉にしても表現しきれないこの胸の内は、むしろ言葉など要らない衝動ばかりで埋め尽くされる。
けど────
「シルヴィ。それ……」
「……ん…………」
もちろん当然だ。ピスとケスのその姿が何よりも眩しい。それを見られたことが、この夏何よりの嬉しさだと思う。
しかし、そんな歓喜とは別角度の衝撃がぼくの視線を縫い留める。
その先にいるのは……幼馴染のシルヴィ・クラズ。そして彼女が纏う、その水着姿だ。
必要以上に肌を晒した、ともすれば下着姿だと間違えてもおかしくない……ビキニ。女性特有のその形状は、当然周りを見渡せば沢山目に付くし、隣のケスが似たような水着を身に着けている。
けれども、違うのだ。彼女のそれは──根底から異なるのだ。
シルヴィには、過去がある。ぼくと共に経験した、拭えない時間の記憶がある。彼女には────傷がある。
誘拐に巻き込まれ、その末に負った胸の傷。治療を経て残ってしまった、過去の証。ぼくが今もなお後悔に苛まれ、思い出すたびにあの瞬間をやり直したいと願う、その証明。
彼女はずっと、それを隠してきた。ぼくがそれを目にするたびに、過去へ目を向けて彼女に同情と謝罪の感情を抱いてしまう事を知っているから。そんな事をされたくなくて、目を背ける為にいつも隠していた。それは、今年の水練のときも同じで、あの時シルヴィは今のピスと同じく肌を晒さない水着を身につけていたのだ。そうすれば、胸の傷は誰の目に触れる事も無かったから。
もちろんこれまでずっとだ。学園に入る前に、夏になるたびにこうして泳ぎに来た浜辺で。あの事件以来一度たりとも彼女は傷が目に付くような水着や私服を着た事はなかったのだ。
そんな幼馴染が、今、目の前で、その消えない傷を夏に晒している。
それがどういうことかなんて、考える以上に問わずにはいられない問題なのだ。
「どう、して……」
「……二人にね、話したんだ」
「え…………?」
「授業の着替えの時にこの傷を見られて……。二人は知りたがってたみたいだし、友達に隠し事もしたくなかったから」
訥々と語るシルヴィ。その海の深さにも似たエメラルドグリーンの瞳に、確かな物を揺らめかせて続ける。
「ずっとあたしとロベールだけの秘密にしてきた事を、二人に言ったの。そしたら、何だかちょっとだけ胸の中がすっとして、勇気が出たんだ」
「勇気?」
「整理がついた、って言う方が正しいかな。いつまでも逃げてちゃいけない。無かった事にはならないんだって。ロベールにも、悪いから」
そう言って彼女が笑う。寂しそうに、けれども優しく。
「ずっと気にしてくれてたのは知ってる。今も少し、怖い……。でも、あたしだって成長してる。それに、あれは過去の事だから」
「シルヴィ……」
「強要、するつもりはないんだ。ただ、もしよかったら、少しずつでいいから、一緒に向き合ってくれないかなって。ずっと後悔して、何でもないように振る舞うのも、何だか疲れちゃったから……。それよりも一緒に、隣を歩いて欲しいなって。二人なら、それがきっとできるから」
手のひらが、差し出される。そこでようやく気付く。
シルヴィがどうして今更海に行きたいと言い出したのか。どんな覚悟の下に、言葉にしたのか。
「ね、ロベール。終わりになんてしないよ。だからここから始めるの。過去に囚われるんじゃ無くて、これからの未来を見て進んでいくの。……ロベールにも、そうして欲しい……って言う、あたしの我が儘。…………駄目、かな?」
不安そうに瞳が揺れる。切なげに差し出された指先が震える。
それを見た瞬間────いや、きっと。この水着姿を見たときから、分かっていた。その胸の思いを、行動に移す。
手を取って、握って、引っ張って────抱きしめて。
ずっと隣で見てきて、隣を歩いてきて。それでも知らなかった女の子らしい華奢な体を強く腕に抱く。
「駄目なわけ、あるかっ。……シルヴィにこんな事させて、ごめん。分かってあげられなくてごめん。でも、ありがとう」
それがきっと、ぼくの中にある全て。
「大丈夫。今度こそぼくが守るから。だから──一緒に行こう」
「っ、うんっ……!」
耳元で頷いた幼馴染の頭を撫でる。すると彼女は、我慢していた何かを手放すように、静かに涙を零した。
彼女の涙なんて、一体何時以来だろうか。……もしかすると怪我をしたその時以来かもしれない。
それくらいにシルヴィにとって深く重い問題だったのだと改めて知れば、こうして下した決意に寄り添う覚悟も固まる。
あの過去は、二人の過去。だから一緒に乗り越えればいい。それでシルヴィが自信を持って振舞えるようになるのならば、ぼくは可能な限りの手伝いをしよう。
「二人」
「なかよし」
ピスとケスが、それでも無表情にこちらを見つめて零す。と、次いで現状を俯瞰した冷静な自分が脳裏を過ぎると、胸の奥から段々と羞恥がこみ上げてきた。
ここは浜辺で。周りに人が沢山いて。何より水着姿で、シルヴィと抱き合っている……。
触れ合う肌が慰めるように重なり、直ぐ耳元で幼馴染が微かに嗚咽を漏らす。
これは…………まずいのでは?
気付いてしまえば、耐え難い衝動が湧き上がってシルヴィを引き剥がそうと彼女の肩を持つ。その際に、手に収まるほどの丸く華奢な彼女の間接が変に艶かしく手のひらに張り付いて汗が滲む。
「し、シルヴィ……!」
「もう、ちょっと…………」
「ぅひっ!?」
幾ら幼馴染とは言え女の子の彼女を突き飛ばすわけには行かなくてやんわりと引き剥がそうと力を込める。が、まるで駄々を捏ねる子供のように濡れた声で体を引き戻された。
顔を見られたくないのだろう、と。理由には気付いたが次いで思考はそれどころでは無い事態に直面する。
縋るように背中へ回された腕が、感情と言う熱を伴ってぼくの体を抱きしめる。触れ合う肌が……そしてそれを自己主張する。
空気が抜ける隙間さえ奪うように密着した体。水着と言う布一枚を隔てて押し付けられる、胸。年相応の、慎ましやかながらそれでも女の子らしさを宿した柔らかさが、目で直接見なくとも分かるほどに形を変える。
直ぐ傍を一組の男女が通り過ぎて。横目でこちらを見た男性が冷やかすように口笛を吹いた。
「ち、違っ……!?」
「違う? 嘘、なの……?」
声は、直ぐ傍から。いつの間にか胸元に頭を預けたシルヴィが、潤んだ瞳でこちらを見上げて薄桃色の口を開く。
その言葉の意味に気付いて、慌てて否定する。
「へ? ぁ、いやっ。そうじゃなくて……!」
「うん。嬉しい……!」
「っ! あ……ちょっ、待ぁああぁぁあっ!?」
ふわりと微笑んだシルヴィ。色づいた頬と浮かべた甘えるような笑顔に、胸がどきりと跳ねる。次いで彼女は人目も憚らずに再びぼくの体に抱きつく。胸に胸が押し付けられる。
その感触が嫌に鮮明で。小さくも形を変える不思議な存在感に頭の中まで熱くなる。
小さな驚きの声が背後から。だから見世物じゃないんだって……!
駄目だ。これ以上は、駄目だ!
様々な警鐘を鳴らした思考が、最後に残った理性を総動員して幼馴染に告げる。
「シルヴィっ!」
「なに……?」
「ぅ……」
潤んだ瞳が真っ直ぐ射抜く。熱っぽい吐息がぼくの胸を撫でる。
思わず、幼馴染を女の子として意識し息が詰まる。いつも見てるはずなのに……なんでこんなに可愛いんだよ……! いつもそうじゃないじゃないかっ!
指先まで緊張して体が動かない。だからせめて……と、目を閉じて逃げるように顔を背けて、声を絞り出した。
「こ、こ……海…………だか、ら……」
「う、ん……?」
頼む、伝わってくれ!
そう強く念じて、煩い鼓動を意識の外へ必死に追いやる。
次いで流れた沈黙。一拍空けて、胸元で何かが蠢く気配。恐る恐る目を開いてそちらを見れば──そこには少しばかり冷静になってくれたらしいシルヴィがいた。
いつも通りが、戻ってきたようだ。それは、何より。だからこそ、別の問題が鎌首を擡げる。
真下の頭が、肩が、小さく震える。それは、まるで何かを我慢しているようで……。
「し、シルヴィ……?」
「……ゃ…………」
微かに漏れたその音は、悲鳴のように聞こえた、気がした。刹那────
「いやああぁああああぁぁっ!?」
「どぅへぁっ!?」
膨れ上がった感情と、それから妖精力が。手のひらと言う形を伴ってぼくの頬を綺麗に捉える。
それは、ぱちん。…………なんて言う生易しい音ではなくて。まるで鞭か何かで思い切り叩いたかのような苛烈な音を伴って────次の瞬間ぼくの体が宙に浮いていた。
人って、空が飛べたんだな……。
益体も無くそんな事が脳裏を過ぎった、この夏最後の海での始まりだった。
「ぼく、悪くないじゃん……」
まだひりひりと熱を持つ頬に手を当てて空の陽を眩しく見上げる。
漂う白い雲は羨ましいほどに自由で。体を半分浸す冷たい感覚に揺られて思う。
「なんだよ、これ…………」
愚痴くらい言わせて欲しい。その権利は、きっとある。
だってそうだろう。どう考えても最後のあれは必要なかったはずだ。確かに最初に抱き寄せたのはぼくの方だったかも知れない。次いで感じたあの感触を意識したかもしれない。けれどもそれらはあの時必要だった物で、事故だったはずだ。それはきっと、シルヴィだって分かってた筈だ。なのにその後で、妖精術で思い切り強化された平手打ちなんて…………どう考えてもあれは理不尽だ。
「……柔らかかった…………はっ!? だから違うって!」
「何が違うの?」
「どわっ!?」
なぞるように思い返した記憶でそれの感触が蘇る。女の子、だった……。そうとしか表現できないあれが、それで。
まだ少しだけ熱を持っている気がする触れ合った部分に意識が向けば、直ぐ傍から響いた声に慌てて浮いていた体が体勢を崩した。
水飛沫を上げて海に浮かび直す。すると先ほど声がした場所に、鬱陶しそうに飛沫から防御するシルヴィの姿があった。
「うぇっ、ちょっと入った……」
「あ、ごめんっ!」
「ったく……。で、何一人でぶつぶつ言ってたの?」
「…………何でもねぇよ」
改めて見た幼馴染の姿に息が詰まる。つい先ほどまで涙で濡れて密着していた体。今は殆ど海に浸かっているその体を脳裏に鮮明に思い出してつい視線を逸らす。
「シルヴィこそ何の用だよ……」
「……叩いたのは、少しやりすぎたなって思って…………。ごめんなさい……」
反省したように呟く彼女。その声に冗談の色は無い。
「けど恥ずかしかったのは本当だから……その、出来たら忘れて欲しくて……」
「ならそれでおあいこにしようぜ。シルヴィは謝って、ぼくは忘れる。これで終わりだ」
「うん、分かった」
数え切れないほど口喧嘩をしてきた。それと同じだけの仲直りを越えて来た。だから今更言動の端を論う様な事はしない。
ぼくも彼女も分かっているのだ。落とし所さえしっかりして、互いがそれを納得すれば過去になるのだと。今回もそれと同じ。
……ただ、言葉に嘘を込めたつもりは無いが、少し刺激が強すぎたのか直ぐに忘れる事は難しそうだ。特にその前提が前提なだけに、都合よく記憶をなくすことは出来ない。
「ピスとケスが浜で遊びたいって。行こう?」
「あぁ」
何事も無かったかのように。いつもの調子で言葉を交わし、波打ち際に向けて泳ぎ出す。と、隣を同じ調子で泳ぐシルヴィが慈しむように零した。
「それから、ありがと……」
「なにが?」
「嬉しかったよ。一緒に、って言ってくれて」
「……シルヴィが勇気出したんだ。当然だろっ」
真正面から突きつけられた感情にまた気恥ずかしさが込み上げてきて顔を逸らす。それに気付いているのかいないのか、隣の彼女は言葉を続ける。
「怖かったんだ。ロベールに拒絶されたらどうしようって……。あたしだけが勝手に一人で突っ走って迷惑掛けないかなって。……でもちょっと信じてもいたの。ロベールなら、大丈夫って」
彼女が何をきっかけに過去と向き合おうと思ったのかは分からない。けれどその覚悟は生半可なものでは無いと目を見て気付いたから。ならば逃げてはいけないとぼくも思ったのだ。
「だから安心した。……ありがとね、ロベール」
「…………あぁ」
一瞬。また悪態でも吐こうかと思ったけれども。どうにも言葉が湧いてこなくてそう答えるほか見つからなかった。
そんな返答にシルヴィが擽ったそうに微笑んで。やがて辿り着いた浜辺で濡れた髪を絞る彼女を見つめ……遅ればせながら気付く。そう言えば…………。
「シルヴィ」
「ん、何?」
「その水着、可愛いな。よく似合ってる」
「…………ふふっ。遅いよ、もぅっ!」
白い肌と、消えない傷を同居させた幼馴染の水着姿。改めて見たシルヴィに、言い忘れていた感想を真っ直ぐに告げる。
それから彼女は、その日一番の笑顔を浮かべて柔らかく微笑んだ。
* * *
人。人。人。視界を埋め尽くすその群れを見渡して、その中に潜む楽しさに酔い痴れる。
あぁ、全く。どうしてこんなに面白いのだろうか。見渡す限りのそれぞれが、唯一無二の宝箱。
だと言うのに一体どうしてこんなにも窮屈なのだろうか。それが不満で不満でならないっ。
世界はこんなに広く、そして深いのに。まだ誰もその底を見たことがない。それがたまらなく愛おしい。
いつまでも、いつまでも。眠るように溺れていられたらどれだけ楽しいことか。そんな泡沫な願いに、今日もまた波のように揺れる。
夏はいいっ。人が遊びに来てくれる! だったらやっぱり、お誘いするのはこの身の礼儀。
「あらぁ……?」
さて、ならば。一体今日は誰と遊ぼうかと自由に揺蕩っていると、波打ち際の冷たい熱気さえ孕んだ景色の中に興味深い姿を見つける。
あれは、前に数度見かけたことがある。見間違えようのはずがない、ワタシ達の親愛なるお友達。
「もし、合わせ鏡ちゃん」
「ん」
「なに?」
彼方の果てを眺めていた二つの魂に声を掛ける。するとその瞳がくるりとこちらを向いて、真っ直ぐな視線でワタシを捉えた。
「お二人さんは何をしているのぉ?」
「友達」
「待ってる」
「あららぁ、待ち惚けなんて切ないわねぇ」
再び向けられた視線は、直ぐそこに広がる深い青色の海原。誰も彼もが熱に浮かされた思考を溶かすように誘われる、大いなる揺り篭。
そんな、寄せては返す波の中に、彼女達が見つめる少年と少女を見つける。
「あれがお友達かしらぁ?」
「シルヴィ」
「ロベール」
「へえぇ、少年はワタシと同じみたいねぇ」
遠く離れた場所から思わず覗いた胸の中。どうやらあの少年とは気が合いそうだ。
と、隣の彼女達がちらりとこちらを一瞥して零す。
「一緒」
「遊ぶ?」
「嬉しいお誘いねぇ。でもいいのぉ? お友達との楽しい時間、邪魔しちゃうわよぉ?」
問い掛けには、返答は無い。その掴み所のなさが、二人の中にワタシに似た物を感じて少し興味が湧く。
静かなる雄弁。それはまるで漣のように小さく、けれども確かな存在感。
前に見かけた時に思った通りっ。彼女達はやっぱりワタシ達の良き理解者だ。
これは数多の子が骨抜きになるのも仕方がない。こんな心地よさ、これまで一度だって味わった事がない。卑怯なほどの魅力。
あぁ、抗い難い! このまま流れに任せてどこまでも漂って行きたい!
「お待たせ、ピス、ケス!」
「ん」
「大丈夫」
いっそのことこのまま彼女達と…………。そんな事を考えた直後、彼女達の友人だという少年と少女が戻ってきた。
……残念。お誘いはまた今度っ。
「あれ、その子は?」
同じ魂の持ち主だからだろうか。少年の方がワタシに気付いて問い掛ける。
その声に乗った微かな波長に、少しだけ魂が揺さぶられる。
「一緒に遊ぶ」
「いい?」
「また声を掛けられたのか……? ったく…………」
呆れたような声。この子達はどうやらワタシのような存在になれているらしい。まだ若く浅いのに、面白い。
それから視線を交わした少年と少女が微かに笑顔を浮かべて、楽しそうに告げる。
「ぼくはロベール」
「シルヴィ」
「ピス」
「ケス」
紡がれるは人の名前。その響きに少し新鮮に思う。
ワタシのような妖精…………特に自然に生きる者は人の名前に頓着しない。人の側もそれを分かっているから、一々名乗ったりする事は少ないのだ。
彼女達はまだ子供。その辺りが、ワタシ達と遊ぶ事に警戒し抵抗のない大人と違って純粋だ。だからこそ、少しばかり忌避すべき物もあるのだが……。
「君の名前は?」
少年──ロベールが問う。
名前。それだ。
妖精は余程の物好きでない限り名を明かさない。自ら名を明かす時と言うのは、基本的に契約をする時だけだ。
名前は自由を縛る。自由を愛するワタシ達妖精にとって、それは信頼の証なのだ。だから基本的に行きずりの関係で個を明かしたりはしない。出会って直ぐにそれをするのは、人くらいのものだ。
例外として、契約を交わした後のワタシ達はそれを隠さない。既に交わした契りの繋がりで、他に自由を害されないと知っているから。もしくはその相手に既に隣を歩むはんぶんがいるから。
殆どは名乗るのではなく半ば強制的に契約相手……妖精従きに勝手に紹介されるのだが、それはいいとして。
そんなこんなで普通こういう場で妖精の名は尋ねない。そして妖精も言ったりしない。ましてや魂の名前なんて以っての外だ。
その暗黙の了解をこうして踏み越えるのが、彼女達が子供である由縁だろう。
さて、どう答えようか。見たところまだ契約前の様子。……ならばここは、今後の為に一つ柄にもないお節介でも焼くとしようか。
「ロベール」
「駄目」
考えて、口を開きかけた直後。鏡合わせな少女が遮るように告げる。
「へ?」
「名前は駄目」
「この子は自由」
……あぁ、この子達は分かっているのか。それが、何より嬉しく思う。
少女──シルヴィが疑問を口にする。
「駄目って、どう言う事?」
「嬉しくない」
「楽しくない」
「ふふっ、ありがとぉ」
嬉しい。けれどもどうにもこの二人は言葉足らずに過ぎる。ワタシ達が相手なら別にいいけれども、人はそれでは理解できない。現に目の前の二人も疑問ばかりを浮かべている。
ここは彼女達の思いやりに免じて、慣れない事を試みよう。
「ねぇ?」
「何?」
「人はぁ、知らない人から名前を呼ばれるとどうなのかしらぁ?」
「それは……いい気はしないっつうか、警戒するだろ、普通」
「そうよねぇ。だったらそれはぁ、妖精も同じだと思わない~?」
あまりこういうのは得意ではないのだけれども。可能な限りの知恵を絞ってできるだけ優しく……少しだけ悪戯な音を込めて告げる。
「もちろん仲良くなれたならその限りじゃないけれどぉ。今日のところはまだだぁめ」
「……分かった。ごめん」
「分かってくれたなら何よりよぉ。さぁ、それじゃあ気を取り直して遊びましょぉ」
物分りのいい子達でよかった。これからはきっと同じ間違いを犯すこともないだろう。
「何する?」
「何がいい?」
「そうだね……。とりあえず海に来たんだから泳がないとね」
「それじゃあいきましょぉ?」
少女、シルヴィの声に頷いて翅を震わせる。すると子供らしく直ぐに顔を上げた二人が付いてきた。双子の彼女達も同じ足取りでやってくる。
素直で可愛い子供達。今日は彼女達と心行くまで遊ぶとしよう。
「へぇ? それじゃあ四人は一緒に学んでるのねぇ」
「あぁ。休みももう終わりだからな。最後の思い出にって遊びに来たんだ」
他愛ない話と共に海の魅力に溺れる。これも何かの縁と、少しだけ気になって尋ねた疑問が意外と長く続いて様々な情報を得る事が出来た。
どうやら四人は随分と仲がいいらしい。特に今隣にいるロベールと、波打ち際で双子と一緒に遊んでいる少女、シルヴィとは幼馴染との事だ。
妖精は自由の象徴とも言われるほどに衝動的で感情的な生き物。だから人のように一度何かで繋がった縁を強迫観念のように大事にしたりはあまりしない。大半は己の自由を縛る行為として好まない。
その為再び巡り合っても互いが互いの事を忘れているなんてよくある話だ。ワタシも、そんなに長く記憶している方ではない。無駄に覚えているよりは、ただ自分の魂に従って欲望を満たしている方が建設的だから。
その点が、何より人と妖精の大きな違いだろうか。
「学ぶのって楽しいのぉ?」
「どうだろ。楽しい事もある。けど、宿題とかは面倒だな。妖精はそういうのないのか?」
「ワタシ達妖精は自由こそが生き甲斐よぉ。胸の奥の自分に従ってやりたい事をするのぉ。それを経てぇ……人が言う所の学ぶって事になるのかしらねぇ」
「別に学校とかがあるわけじゃないんだな」
「あったところで人みたいに律儀に同じ事ばかりは繰り返さないわよぉ」
「そういうところは羨ましいな」
「人には人のいいところがあるわよぉ」
無いもの強請り。だからこそ今この世界は手を取り合えているのだろう。
「でもぉ、お陰でワタシ達は人と共に歩めてるのよぉ? こうして名前も明かさない相手の事を知ってぇ、慣れない力を使って一緒にいてくれるのぉ。きっと妖精は皆感謝してるわよぉ」
「それが契約だもんな……」
不意に、ロベールが遠くを見るように呟く。声に宿った感情に、妖精として人に興味が揺さぶられる。
「契約に何か思うところがあるのかしらぁ?」
「……なんかな、想像出来ないんだよ。その時が来たらきっと気の合う奴と契約するんだろうなって思うけど……。まだぼくは学園に入ったばかりで遠い未来の話。だから現実味がないんだ。……多分シルヴィも同じだと思うぞ」
「人は要らない事で悩むのねぇ。その時が来れば分かる事を、今から気を揉むなんて疲れるでしょぉ?」
「それだけ大事なことなんだよ。契約は、一生に一度ってのが普通だからな」
真っ直ぐに熱の篭った言葉。足踏みしながらも、しっかりと前を見据える彼の声に、少しだけ気持ちが擽られた。
「大丈夫よぉ、きっとぉ。ワタシ達はロベールみたいな純粋なのが好きなのよぉ。だからぁ、大丈夫ぅ」
「妖精にそう言って貰えるのなら、少しくらい気が楽かもな」
「もし……」
「え?」
「もしぃ、ロベールが契約する時までワタシが誰にも巡り合えなかったらぁ、その時は声を掛けてもいいかしらぁ? あなたの事、少し気に入ったわぁ」
「……もし、そうなったらな」
「妖精を疑うのは感心しないわよぉ? 妖精は嘘を吐かないんだからぁ」
「本当のことだって言わないだろ?」
これもきっと、戯れ。ただ、何となく彼の隣は楽しそうだと、こうして話していて思ったのだ。
これが契約を決意する第一衝動なのだとしたら、ちょっとばかり巡り合わせが悪すぎる。
ワタシは妖精。感情のままに揺蕩う魂は、未来を約束を出来ない。……しかし、もし本当に、そんなことがあるのなら。それはきっと契約に足る縁だから。
……ちょっとだけ、頑張って覚えててみようかしらぁ?
からかうようなロベールの言葉に、肯定も否定もしない意地悪な笑顔で返して。次いで話は終わりだと告げるように妖精術を一つ行使。彼の周囲の水に干渉して渦を巻き起こす。
「ちょっ、これ……!」
「生意気言った罰よぉ」
あぁ、楽しい。こんなに楽しいのだから、仕方ないっ。
* * *
「うへぇ……酷い目にあった…………」
ピスとケスと一緒に水際で遊んでいると、少し苦しそうに咳をしたロベールが波打ち際まで戻ってきた。
「おかえり。どうしたの?」
「悪戯された」
「遊んでただけよぉ」
ロベールの隣で楽しそうに笑うのは、先ほど出会って一緒に海を謳歌している野良の妖精。どうやら水に縁のある魂の持ち主らしく、珍しく双子よりも彼に興味がある様子だ。
「どうせロベールが配慮のない事言ったんでしょ」
「言ったつもりはねぇよ!」
もちろん、ロベールが意味もなく誰かの気分を害するような事を言うような心の持ち主でないことくらい十分に分かっている。けれども八つ当たりくらいさせて欲しい。
水着を褒めてくれたのは素直に嬉しかった。その前の、あたしの覚悟を受け止めてくれた事もこれ以上ないくらいに幸せだった。しかしそれからこちら、あたしに見向きなんてしていないのが気に食わないのだ。
ピスとケスの水着を褒めた事は……まぁいつものロベールだからいいとして。一緒に遊ぼうと言ったのに一人で海に入って行くし、剰え気が合ったらしい妖精と仲良く水遊びまでして帰ってきた。
あたしはただ、ロベールと…………もちろんピスやケス達も含めてだけれども、思い出を作りたかったのに。なんで彼はこんな事も分かってくれないのだろうか。
……可愛いって言ってくれたのだから、もうちょっと傍に居て守ってくれてもいいと思う。そんなあわよくばも含めて、傷の事を話題に出し、勇気と共に肌を晒しているのだから。もっと……もっと欲しい。
それとも、これはやっぱりあたしの独り善がりなのだろうか。好きな人に傍に居て欲しいと思うのは、間違っているだろうか。
「そちらは何をしてたのぉ?」
考えていると、自由を身に纏って妖精の彼女が疑問を向けてくる。
「特には。……強いて言えばロベールがいなかったから待ってたかな」
「じゃあ遊ぼうぜ。何する?」
調子のいいことだ。あたしの気も知らないで。
「海」
「歩く」
「え?」
短い声の提案は直ぐ傍から。見れば、ピスとケスが目の前に広がる海原を見つめていた。
「う、海を歩くって……水上を?」
「うん」
「したい」
「む、難しいんじゃないかなぁ……」
一応妖精術を使えば似たような事は出来るだろうが、それには随分な集中力が必要だ。
例えばあたしの風の力で足場を作ってその上を歩く。けれどもこれは体を支えるだけの空気とその持続が必要だ。人一人を風の妖精術で浮かべようと思うと結構な規模の妖精術が必要となる。
それに二人の事だ。まるで物語の中のように、水面を歩きたいのだろう。あたしの力では、出来ても海の上に作った随分と分厚い空気の板の上を歩くだけ。それはただの空中歩行だ。
「ロベール、出来る?」
「水得意」
「流石にロベールでもそれは……」
「ちょっとだけなら、多分」
「嘘っ?」
次いで返った言葉に素直に驚く。
「あ、あたし達まだ妖精憑きだよっ? そんな大規模な妖精術使えるわけが……」
「そりゃあ簡単じゃないし、ピスとケスが望んでるそれじゃあないかもだけど、水の上に立つくらいならできると思う」
妖精術は想像を形にする力。だから思い描いてしっかり手順を踏めば、その限りは再現できる。けれど幾らなんでも人が水の上を歩くのは方法が……。
「とりあえず、水の上に立ってみないか?」
「立つ」
「だけ?」
「今のぼくだとそれが限界。けど、立つだけならできるのは確認済みだから」
「確認って……」
「夏の課題」
「あ……!」
夏の課題。そう言われて思い出す。
テトラフィラの休み中の課題として、休み明けまでに何か一つ自力で妖精術を作ってくるというものがあった。もちろん出来なくてもいい。挑む事にこそ意味がある課題で、妖精術として落としこんでくるのはきっと教室でも片手の指の数いれば多い方だ。
あたしも一応完成はさせた。目標に自動追尾を組み込む術式だ。色々事前準備が必要でまだ実用には向かないけれども、頑張った方だと思う。
その課題にロベールも取り組んだらしい。
「本当は水の上を自由に歩いたり滑ったりできるのが理想だったんだけど、それは難しかったから」
普段は大雑把な幼馴染だが、集中すると器用なことが出来るのはあたしも知っている。きっと言葉に嘘は無いだろう。
「それ」
「やる」
「よし来た! けど一人ずつなっ」
ピスとケスが興味を見せる。
水に入ったロベールが、波に揺られながら両手を前に翳し、目を閉じて集中する。
微かな妖精力の発露。次いで彼の腕の先の水が一部分だけ濁った。
「…………よし。そこに乗ってみて」
声に頷いてピスが波打ち際から軽い跳躍を見せる。着地点は違う事無くロベールが妖精術を行使した地点へ。そこをじっと見つめて羽でも落ちるかのように優しく着地したピスが────そのまま水の上に立っていた。
「ちょっと沖まで移動しようか」
「お願い」
また集中してロベールが後ろ向きに泳ぎ始める。その表情は一所懸命で、場違いにも少しだけ格好いいと思ってしまった。
ロベールが段々と遠ざかっていくのに合わせて、水の上に立ったピスがそのまま海面を滑るように移動し始める。
「あれ、どうなってるの……?」
「へぇ、面白い事考えるわねぇ」
声に答えるように隣の妖精が零す。
「あれはねぇ、氷みたいに一部の水を固めてるのよぉ。もっと言うとぉ、一箇所に集中して閉じ込めてぇ、水の形が変わらないように保ってるのぉ」
彼女の言葉を脳裏に思い浮かべて理解を導く。
水に人が沈んでしまうのは、体が水を押し退けてしまうから。水が人の重さに耐えられないからだ。
流動的な液体は少しの事で形を変える。だからこそ人は海で泳ぎ、楽しむ。
ならば水が形を変えないように……力を込められても逃げたりしないように壊れない箱で囲ってやればいい。その上に立って、その重さに箱が耐えられれば人は箱に立てる事になる。
その箱が、妖精術で作った見えない形をしているから、傍目には水に立っているように見えるのだ。理屈は人が乗れる水の箱を足の裏に作り出しているだけ。
けれど理屈とそれを実際になすことには大きな隔たりがある。
「非効率的だけどぉ、頑張ってるわねぇ」
もし少しでも綻べば海の中へ落ちる。辺りは波という物量が押し寄せる海の中。その衝撃に、毎度異なる揺らぎに合わせて箱が壊れないように随時調節し、更には移動させている。
あれは、並の集中力では実現しない術式だ。
あんな妖精術をロベールが作っていたなんて……。妖精術の行使に関してはあたしの方が上だと思っていたのだが、これは今一度認識を改めなければいけないだろうか。
そもそもロベールは元がいいのだ。それほど熱心に勉強しなくても試験の点数はいいし、初めてのことでも器用にこなしてしまう。要領や核心を捉えるのが上手なのだ。そんな彼が真っ直ぐに取り組めばどうなるか……少し考えれば分かったはずなのに。
何だか幼馴染に突き放されたような気がして悔しくなる。彼の隣にいるには……もっと努力をしないと。
「あらぁ?」
自分の非力さを噛み締めていると、隣の妖精が少し困ったような声音で声を零す。いつの間にか伏せていた顔を上げてロベールの方を見れば、そこにあった光景に思わず言葉が詰まった。
まるで壁のように押し寄せる衝動。一拍の間を空けて冷静になった頭が突然の事に拡大解釈をしていたのだと知る。
壁のように見えたそれ。段々と近付いてくる存在に、それが泳いでいる人ならば簡単に飲み込む高波だと気付く。
なにあれ……。一体どこから……! ううん、それよりも────
「ロベール! 後ろっ!!」
「えっ……?」
思いっきり叫んで駆け出そうとする。刹那、波打ち際から地を這うようにして伸びてきた一条の水が、そのままあたしの体を縛り付けてその場へと留めた。
想定外に次ぐ想定外に思考が混乱する。その困惑に、囁くような声が耳元で響く。
「あなたはだぁめ。行っても飲み込まれるだけよぅ。ここで大人しくしてなさぁい」
「っ……! でもロベールが……!!」
「えぇそうねぇ。だからあの子を助けるのはあなたの役目よぉ。その為にぃ、今はワタシが守ってあげるわぁ」
ロベールに……辺り一帯に危険が迫っている。だと言うのにのんびりした口調を崩さないまま……その上口元に楽しそうな笑みさえ浮かべ、動くなと確かな熱を込めて呟く。
「でもっ!」
「あの子を死なせたいのぉ?」
「っ……!!」
せめてロベールだけでもあたしの妖精術で。そう抗議しようとした言葉が、けれども遮るように突きつけられた、真に迫る音に上書きされる。
死ぬ。ぞくりと背筋を撫でた、海の温度よりも尚冷たい悪寒に肩を震わせる。
「大丈夫よぉ。あの子もできるだけ守ってあげるからぁ」
「…………分かった」
妖精は、嘘を吐かない。そんな言葉が脳裏を過ぎって、彼女を信じる事にする。
覚悟を決めて向き直る。それとほぼ同時、こちらに迫っていた大きな波がロベールとピスを呑み込んだのが見えた。
白い波と飛沫が辺りに散り、ある種幻想的に景色を彩る。と、次いであたしにまで及ぼうとしていたその衝動が、波打ち際に到着する寸前で見えない壁に阻まれるように不自然に止まった。
跳ね返った勢いがあたしの背丈を優に越す。それを見上げて思う。
けれど一体何故……。様々な疑問が脳内を埋め尽くす。あの高波はどこから? どうして波はここまで来なかったの? ロベールとピスは……?
どこから答えを見つければいいのか分からなくて呆然と立ち尽くす。慌てて高波から逃げてきた他の人たちも驚いたように波打ち際で高々と跳ね返る飛沫を見つめる。
やがて段々と収まった自然の猛威。まだ少し荒れている波を眺めて、それから遅れて体の拘束が解けている事に気付けば、二人の姿を探す。
「ピスっ! ロベールッ!」
「シルヴィ」
二人はどこに……。微かに嫌な予感が巡った直後、ケスの声が耳に届く。声の方を見れば、彼女は腕を上げて一点を指差していた。そこには、波打つ海面で不自然に浮かぶ水の球体。その中に、二人の姿を見つけてすぐさま助けに行く。
「二人共、無事っ!?」
「一体何が…………」
「大丈夫」
混乱するロベールと、こんな時でさえ自分を見失わないいつも通りなピス。返った声に安堵の息を零す。
「今出すわね」
いつの間にか傍に来ていた妖精が手のひらを翳す。すると二人を覆っていた水の球が途端に支えでも失ったかのように水に戻って海に溶けた。と、球の中で転がっていた二人が体勢を崩して海に放り出される。
「どわっ!?」
「ロベールっ!」
咄嗟に幼馴染が伸ばした手のひら。声にか反応した彼の腕が、それからあたしの目の前で中空を掻く。突然のことで掴めなかった……けど。
「っ……!」
すぐさま大きく息を吸い込み海中へ。波の影響か濁った視界で水の世界を見渡し、その中に気泡に包まれるロベールを見つけて抱え、海面まで上昇する。
「ぶはっ!?」
「ロベール、大丈夫っ?」
「げほっ! ぇほっ! ……あ、ありがと、シルヴィ…………」
「よかったぁ…………」
交わした意思疎通。礼を言うくらいにはっきりとしているロベールの姿に再び安堵した。
「平気」
「うん」
隣ではピスとケスが離れていた時間を取り戻すように互いを確認し合う。ピスも無事なようだ。
……と、不意に二人に視線がこちらに向く。微かに間を空けて、二人があたしを見つめて告げる。
「シルヴィ」
「ない」
「え、何が……?」
相変わらず大切な事を省く二人の会話。けれども今回は理解が出来なくて疑問を浮かべる。
「ぁれ…………なんだ、これ……」
「ロベール、どうしたの?」
次いで直ぐ傍のロベールが荒い息を整えながら手に握った何かを海中から取り出す。つられてそちらに動いた視線が、ロベールがなにやら何処かで見覚えのある物を手に持っているのを捉えた。
それはどこからか流れ着いた、布の切れ端のようなもの。心許ない紐で輪を描くように繋がった……あれは、着衣だろうか。けれどそれにしては守るべき部分が局所的で衣服にしては小さい。
「ロベール、ちょっと見せ────」
一体なんだろうか。興味が疑問に変わり彼の手から取ろうと体を寄せる。
その刹那────密着したロベールの腕の感触が、何だかいつもより生々しく感じて動きが止まる。
「え…………?」
何か……え…………?
不思議な感触に、その接している部分……密着したロベールの腕と、あたしの胸を見て────そこにあるはずの物がない事に、気がついた。代わりとばかりに、ロベールの腕があたしの胸に押し付けられている。
次いで勢いよく顔が動き、ロベールが手にするそれを改めて見る。
小さい、布。局部を隠す、着衣。そしてそれは────あたしの記憶に確かにある、それと同じ色をしていた。
顔が、体がかっと熱くなる。次いで自分でも気付かぬうちに、感情の限りに妖精術を行使してた。その寸前、小さく呟くロベールの声が聞こえた、気がした。
「あれ、これ……水────」
「ぃやぁあああっあああああぁぁ!?」
そこに、先ほどの波よりも高い水柱が天へ向かって伸びた。
* * *
「まさか被害が……!」
上がった水柱に気付いてすぐに方向転換。駆る水竜で水面を裂くように現場に到着する。
「君達、大丈夫か?」
「は、はい。……え? アランさん?」
四つほど見えた人影に寄って声を掛ければ、その響きに覚えを感じる。
「君は……確か、テトラフィラの…………」
「シルヴィ・クラズです」
「久しぶり」
「何してる?」
そうだ。思い出した。前に見学に来た学園の生徒。
と、そこまで記憶が蘇った所でこれまた聞き馴染みのある声を耳が捉える。見ればそこには良く知る顔が並んでいた。
「ピス、ケス。……という事は皆で海に?」
「うん」
「思い出」
「そうか」
ならば邪魔をしてしまったかと。それから先ほどの事を尋ねる。
「波からは可能な限り守ったつもりだったが水柱が見えたのでな。何かあったのか? 怪我とかは?」
「えっ!? あ、いやっ、大丈夫ですっ! あれは、その……遊んでてちょっと…………」
「まぁ無事なら構わない。怪我だけはしないようにな」
「は、はい……」
反省しているのか、顔の下半分を海に沈めてぶくぶくと泡を作り出す彼女。何にせよ、心配が杞憂でよかった。
彼女達の安全を確認して、それからピスとケスに向き直る。まだ彼女達の疑問に答えていない。
「怪我がないなら、とりあえず浜に上がってもらえるか? またいつ問題が起きるか分からないんだ」
「問題?」
「……話は陸に退避してからだ。まずはここを離れよう」
彼女達は賢い。不用意な事を言いすぎたか。ピスとケスの前だからと油断していた自分を引き締めなおし、波打ち際まで移動する。するとそこには眠るように仰向けに倒れる少年……確かロベールと言う名の彼がいた。
直ぐに呼吸を確認するが、どうやら気絶しているだけのようだ。しばらくすれば目を覚ますだろう。
とりあえず安全な場所まで退避して、海水浴場の管理人と話をつけ封鎖区域に。双子達の下へと戻れば、彼女達は真実を求めて待っていた。
……どうせ彼女達も後から知る話だ。怒られるとしよう。
「それで、その……問題ってなんですか?」
「つい先ほど、この浜辺は警戒封鎖区域に指定された」
「え……」
「危険?」
「事件?」
「沖の方で少しな。先ほどの波もその余波だ」
ここに来たのも、あの波の被害を抑えるため。もし何かあれば直ぐに対処に当たるためだった。そしてそもそも、調査の名目で沖に行っていたのだ。そこで想定外のことが起きて、被害を食い止める為にやってきた所で先程の水柱を目撃したのが事のあらましだ。
とは言え、詳しい所までをも話すわけには行かない。
「悪いが、水遊びはここまでだ。今日はこれで帰ってくれ」
「…………分かり、ました」
物分りのいい少女で助かった。まぁだからこそ、抱いた疑念は燻るのだろうと思いつつ。
やがて目を覚ましたロベールを連れて四人はここを去った。最後の客を見送って、海原を振り返る。
「……これは、今日は家には戻れそうに無いな」
髪を撫でた潮風に紛れて、微かに唸るような叫びが聞こえた気がした。




