第一章
「足元、お気をつけください」
「ありがとう」
使用人のジネット・シンストラに手を引かれて馬車を降りる。踏みしめた石畳の通りから視線を上げれば、賑やかな人の往来を目にすることができた。
空から降り注ぐのは夏の日差し。暑さに負けない歩みが景色を彩って、城下の陽気さを五感に訴える。
「さて、それじゃあ行きましょうか」
久しぶりの家族の時間。ゆっくりと楽しむとしよう。
フェルクレールトの大地の南側。温暖な気候の中で栄えるここは、カリーナ共和国。中でも北を緑に、南を海原に挟まれたカリーナの中心地である城下町は、そのお膝元と言う事もあって数え切れない人と物と情報が混ざり合う土地だ。
一年を通して温かいこの国に、この場所にやって来てもう何年になるだろうか。家族を持って居を構えてからと言うのならば既に十五年以上の身。それなのにこの城下にまだ知らないところがあると言うのは立場故か、それとも日々発展する真新しさか。
その理由の一つとして私が思う私の意味。現カリーナ元首……大統領、グンター・コルヴァズの第二子であるルドガーを婿としてもらった、王族の系譜に名前を連ねる立場。そこに至るまでをふと思い出す。思い出したのは、久しぶりにこの景色を見たからだろうか。
結婚する前よりそれなりの家柄だった私は、家の用事でやってきたカリーナ城下町で彼と出会った。源生暦1254年の、まだ第二次妖精大戦終結前……英雄的妖精も現れていない頃の事だ。
その時の私は17歳で、家にいても暇だからと無理を言って親の用事に付いてきた癖に、着いたら着いたで子供だからといい子の仮面を被っていろといわれた私は退屈を持て余していたのだ。
だからつまらなくて……そして折角のカリーナくんだりまで来たと言う欲望が熱を持って、使用人の目を盗み一人外に遊びに出たのだ。
改めて見たカリーナと言う世界は、まずその色が新鮮だった。どこを見渡しても白を基調とした建物が並ぶ、山の斜面に栄えた町。山を見上げれば象徴のようなカリーナ城が聳え立ち、反対には遠く果ての無い陽光を受けて反射する深い色の海が広がる。行き交う人は忙しないけれども、それさえ除けば四大国で終わりの見えない争いをしているとは思えないほどにのんびりとしていた。
この頃は確かブランデンブルクが劣勢に立たされていて。カリーナは比較的矢面には立っていなかったためだろう。
季節は確か……春先で。町を出れば草花も風に揺れる景色を楽しめるかもしれないと足を向けたのを覚えている。
けれども慣れない土地に子供の情熱だけでは太刀打ちできず。どこかの路地で当然のように迷子になった。……まぁ途中色々な物に興味を惹かれてその都度寄り道をしていたからなのだろうけれども……。
さて、ならばどうしようかと。女と言えど泣き喚くのも悔しいと、育った環境ゆえの性格で意固地になって辺りを見回していたところ、不意に一人の男性と視線が交わった。
彼はこちらに気付くとそのままの足取りで近くにやって来て、優しく声を掛けてきた。
『お嬢さん、大丈夫か? 何か困った事でも?』
その第一声は、今でも鮮明に思い出せる。
腰に剣を下げた軽装の彼は、優しい笑顔で小さく首を傾げる。その事に、見知らぬ恐怖と、そしてそれ以上の安堵を覚えたのもよく覚えている。
それが私と彼の……ルドガーとの出会いだった。……いえ、馴れ初めと言うべきかしら? 思い出すと恥ずかしいことこの上ないのだけれども。
しかしながら私はまだ子供で。アルレシャ家の一人娘として将来的に家を背負うのだという自負と責任感があったためか、素直に弱みを見せたくなかった。有体に言えば、彼に対して失礼な態度を取ってしまったのだ。彼が何者かも知らず。
『いいえっ、ちょっと散歩をしていただけです。それよりも貴方、見たところ騎士のようだけれど……この辺りには詳しいの?』
『えぇ、生まれも育ちもここですから。庭みたいなものですよ』
『なら丁度いいわっ。暇をしてたの。案内してくれる?』
『…………えぇ、構いませんよ。淑女のお願いとあらば』
『一介の騎士の癖に礼儀はあるのね。カリーナだからかしら……』
『失礼ですが、他国から?』
『何か問題が?』
『いいえ。ではこちらへどうぞ』
……恐らく私にとって最大の汚点。叶う事ならあの時に戻って過去の自分に無理やりにでも頭を下げさせたいと思うほどの失態だ。
何せ相手はルドガー……ルドガー・コルヴァズ。スハイル帝国出身の私にとっては敵国に当たるカリーナ共和国の王族だったのだ。王族といっても先祖代々のと言うわけではないのだが、国を治める者の息子。身分で言えば彼の方が当然上だ。失礼にもほどがある振る舞いだろう。
けれども幾分か大人だった彼は嫌な顔一つせずに我が儘に振舞う私の相手をしてくれたのだ。その当時はただ、少し優しい騎士くらいにしか思わなかったけれども、このときの経験がその後に大きく影響を及ぼしたのは間違い無い。
それから数日。話し合いが長引いた裏でほぼ毎日ルドガーを捕まえて城下町を共に歩き回った。別れの日には時間がなく、彼に挨拶をする事が出来ずにカリーナを発つ事になった。
それから月日が流れて。彼と再会をしたのは四年後となる源生暦1258年。第二次妖精大戦が一応の終結をした後のことだった。
戦いが終わったと言っても直ぐに治安がよくなるわけではない。長い戦で互いに根付いた確執がふとした拍子に表面化して、度々燻りの中から弾けるような火花となって幾度となく散っていた。
それを無くす為に大人として、人として対話を用いて平定を結ぼうと。王族には及ばなくともそれなりの家柄だった私は流れた時の中で成人して、アルレシャ家の一人娘として名代の責を背負い様々な場所に赴いた。もちろん毎回上手く行くわけもなく……中には女と言うだけで聞く耳を持ってもらえなかった事もある。
けれどもアルレシャ家の跡継ぎは私しか居ないのだと。自分に言い聞かせて不屈を何度も奮い立たせては交渉の席へと赴いていた。
そんな折にカリーナに来る事になって。その時は別の家との話し合いの目的での訪問だった。
しかしカリーナは権威を……家柄を重んじる国。女の私が幾ら名代として正式な肩書きを持つのだと説明をしても、今以上に堅苦しい考え方が多かったあの時代は玄関を潜る事さえ難しかった。
それでもどうにかしなければと。私にはその責務があるのだと。家のため……そして何より、私個人の尊厳のため。せめて何かしらの譲歩や条件を引き出さなければ家には戻れないと考えながら城下を歩いていた時だった。
ふと目に入ったのは、見覚えのある路地の景色。行き交う人の流れの中立ち止まって、懐かしさと共に知らずそちらに足が向く。
そこは昔私が迷子になって困り果てていたその場所。四年経って、既に涙を湛えてそれを我慢するような恥ずかしい姿は見せないけれども。それても心が小さな弱気を揺らめかせて私をその場に縫い止めた。
……昔は、ただ道が分からなくて。今はもっと複雑に答えが分からなくて。大人になったというのにあの頃なままの気がする自分に情けなさと、自嘲が湧いてくる。
…………丁度いい。少し疲れたし、宿に戻る前にここで休憩していくとしよう。戻って一人頭を悩ませるくらいなら、まだ私に関心の無い世界の流れを外から見ている方が気が紛れるというものだ。
そんな風に言い訳染みた何かを胸の中に落として座り込んで。重く蟠った息を吐いて顔を上げれば、辺りを見渡してうろ覚えな記憶を重ねた。
あの時はそんな余裕が無くて記憶も朧気だけれども。何となく、あの時と何も変わっていない気がして、落ち着いたのを覚えている。
虚空を何気なしにじっと見つめれば、そこに過去の記憶が蘇る。
今にも泣き出しそうなほどに心細い少女の姿。できることなら私が手を引いて助けてあげたい衝動的な過去。そこにやってくる、彼の姿。声に優しさと心配が重なって、まるで物語の王子様のように私を助けてくれた、あの人。
そこでようやく、自分が何を求めてここに腰を下ろしたのか気付き、胸の奥が苦しくなる。
……そんなこと、あるわけない。あれから四年も経っている。彼だって私のことなど忘れている。そう、だから────顔を上げたって目の前に彼は居ない。そう言うものだ。
後から知った、彼の素性。後悔と感謝を綯い交ぜにした感情で、もしかしてを望んで縋りたかった、押し付けがましい希望。
しかしそれは子供が描く幻想なのだ。大人の私が夢見る物では無い。……けれども少しだけ、元気は出たかもしれないと。過去の自分に勇気を貰って立ち上がり、人波に再び溶け込んでいく。
空を見上げれば少し早いが夕食時。こうして家の名代で責務を任されたときの、ちょっとした贅沢。いつもは味わえない、市井の、異国の味。今日は存分に楽しんで、気分転換をして。また明日頑張ろう。
そんな事を考えながら店を探す。と、視界の端にちらりと見えた看板。その名前に覚えがある事に記憶を遡れば、それは四年前に彼と共に町中を散策した時に一緒に入った店だと思い出す。四年も経ったのに、まだ続けているらしい。
これも何かの縁だろうか。そう思った時には既に足が向いていて、店の扉に手を伸ばしていた。店が続いているのならば、あの時食べたレジェをもう一度……。
どこにでもあるようなレジェのはずなのに、何故か忘れられない味を思い出しながら。そうして掴みかけた扉の取っ手が、私が手を掛けるよりも数瞬早く動いて、こちらに向けて開かれる。
『え……?』
気付いた時には目の前に。避ける事も出来ずに外向きに動いた扉が、そのまま緩慢な動きで視界を覆い、額に小さな衝撃を鈍く広げた。
『ぁたっ』
『おっと、すみません。お怪我はありませんか?』
来客を知らせる鈴の音が頭の上からうるさく響く。それに重ねて謝罪するような男の声。いつの間にかその場に座り込んでいた私は、片手で額を押さえながら視界に差し出された手のひらを取って顔を上げる。
『え、えぇ。こちらこそぼぅっとしててごめ────』
ごめんなさい。そう告げようとした口が、そのまま半開きになって声を喉の奥に押し留める。
借りた手と共に見上げた視界。その中心でこちらを見つめる顔に、胸の奥が意識とは乖離して大きく跳ねる。
それはきっと、どこにでもいる男の人で。けれども私にとっては何となく特別な────四年越しの思わぬ再会で。
『ぁ…………』
『え……。……あれ、君……もしかして…………』
『おう、どうしたルドガー』
思わず見つめ合った視線の中で、互いに何かを探すように目が離せなくなる。
と、次いで耳に届いた別の声。彼の後ろから聞こえたその名前に……最後の欠片が嵌ったようにうわ言のような声が口から漏れた。
『ルドガー……コル、ヴァズ…………』
『ジャスミーヌ、だったか……?』
返ったのは、正真正銘私の名前。四年前に彼に教えた、その響き。他人に呼ばれることの方が格段に多い音の羅列が、聞き覚えのある声と共に紡がれて。
同時、私は私でも分からないくらいに、何故か涙を流してしまっていた。
『なん…………なんで……』
『それはこっちの台詞で……。いや、それよりもっ。どうした、やっぱりどこか怪我でも……!』
『え…………? ぁ、ちがっ、これは違うの……! 違うから……!』
『おいルドガー。こんな町中で淑女泣かせるとはどういう了見だ、おら?』
『誤解だ! ……この子は、その……知り合いで。っ、いいからお前は先に帰ってろ、ジュストッ』
『へいへいっとぉ。それじゃあお嬢さん、失礼を』
必死に涙を隠そうと拭うが、止め処なく溢れて涙腺が元に戻る気配は無い。……だと言うのに、目の前にルドガーがいるというだけで嫌に安心してしまう自分がいるのも確かで、本当にわけが分からなくなる。
『とりあえず、立てるか? ここじゃなんだから店の中へ……』
『ん…………』
繋いだままの手を引かれて店の中へ。何事かを店員と話していたルドガーに従い、知らぬ内に静かな部屋へと辿り着いていた。
『飲み物貰ってくるから少し待っててくれ』
『……うん…………』
まだ顔は上げられなくて。声も涙に濡れて。見られるのも恥ずかしいのに、今だけは傍にいて欲しいと鬩ぎ合うまとまりのつかない感情が頭と胸の中をぐるぐると巡る。
……駄目だ。泣き止まなくては。彼は気を利かせてくれたのだ。戻ってくるまでに、いつもの、私に────
そうは思うのに、涙は止まらず肩は震えるばかりだった。
結局ルドガーが戻ってくるまで涙が止まる事は泣く。彼が持ってきた温かいスープをゆっくりと飲んでいるとようやく心が落ち着いた。今になって思えば、それは飲み物の温かさに安心したのではなく、彼が直ぐ傍にいてくれたからなのだろう。それくらいには、その頃既に私の中で彼の存在が大きくなっていたのだ。
何も訊かず、静かに傍にいてくれたルドガー。そんな彼に、カップを空にしてしばらくしてからようやく声を返す事が出来た。
『……ありがとう』
『目の前で泣き出されたのを放ってはおけないからな』
『うん』
あぁ、変わってない。彼の優しさは、四年前から、何も……。その事に嬉しくなって小さく微笑みを浮かべる。
不意にルドガーが微かに肩を揺らした気がして彼の方を見れば、彼は慌てたように視線を逸らした。
『まさか再会できるとは思わなかったが……しかし、君はどうしてここに? 家はスハイルだろう?』
『お父様の名代で来てるのよ。こんなご時勢でしょう。王族の貴方なら痛いほど分かると思うけれども』
少しだけあった鬱憤。見知った顔に出会ったからか、それとも温かい飲み物で心が緩んだか。気付けば口にしていた当たりの強い言葉に、それから遅れて訂正する。
『……あ、違うの。別に嫌味を言いたかったわけじゃ…………』
『うまくいかなかったのか、交渉』
『………………』
『ま、そういうときもあるさ』
けれども彼は怒る事もなく、困ったように笑って続ける。
『しかし名代か。前に会ったときはまだお転婆な女の子だったのにな』
『あれは……! 昔の事だから…………』
今度は私が顔を逸らす。すると彼は笑って『ごめん』と呟いた。
次いで流れた沈黙に、それから二人して吹き出す。一体何を言い争っているのかと。そう小さく息を吐けば、改めて彼と視線を交わし挨拶をする。
『……久しぶりね、ルドガー』
『あぁ、あれからもう四年か。時が経つのは早いな』
過去を憂うように零せば、まるで会えなかった時間を尊ぶように昔の事を口にして笑う。
その中で知った彼の今。肩書き上王族と言う事になる彼は、四年前は軍属を。そして今は騎士となって個人的な兵を率いて城下の治安維持をしているらしい。先ほど店の入り口で出会ったのは学び舎時代からの友人らしく、今日は二人で食事を食べにきていたとの事。ここは彼の行き付けなのだとか。
あれから四年。想像の中にしかいなかった彼は更に大人びて精悍な顔つきの美男子に。けれども恋人はおらず、そろそろ遅い結婚を……と親兄弟からせっつかれているらしい。
『今幾つ?』
『22』
一応の王族として……そして名のある家柄として跡取りを。そう考えれば相手がいないのは遅いと言われても仕方のない年かもしれない。私も一人娘として似たような境遇であるのは確かだ。
『自由な恋愛が羨ましいよ』
『全くね』
二人して傷を舐め合う。直ぐそこにあるはずの何かには、気付かない振りをしたまま。
そんな風に他愛ない時間を過ごして、気付けば夜の帳が窓の外を彩る頃合。と、時間を意識した体が唐突に空腹を訴えて恥ずかしい音を漏らした。
『まだ食べて……あぁそうか。店の前で会ったんだもんな』
『……忘れて…………』
『ふむ、どうするか……。ここで食べていくか? 折角だ、今日は再会を祝して驕ってもいいが』
『それは私が許せないから嫌』
『そうか。……しかしここでお別れと言うのも味気ないしな。………………よし』
何かを考えるような間。次いでルドガーは部屋の窓を閉じてこちらに振り向く。
『積もる話もまだあるだろう。よかったら家に来ないか? どうせなら泊まって行ってもいい』
『……ふふっ、もう少し王子様らしく誘えないの?』
『飾った所で君には無意味だろう?』
『そうね』
差し出された手を取って立ち上がる。
見つけた理由を振りかざして、私達は店を後にした。
それから彼の好意で話し合いの場を用意してもらったりしながら時間を過ごして。やがて私がカリーナに帰る日には、何気ない様子で想いを告げられたりもした。
そうかもしれない。言うべきではない。そんな躊躇いを跳ね除けての言葉に、私も飾る事に疲れて素直に頷いたのを覚えている。
だからと言って色々なものを投げ捨ててカリーナに留まるわけにはいかなくて。後ろ髪を引かれつつ別れを告げれば、そこから約一年国境を跨いだ恋をして。色々な準備を終えて私はカリーナにやってきたのだ。
特別な事があったかと言われれば曖昧で。邂逅から再会を思い返せばそれ以外に無い特別で。
物語のように鮮烈な時間を紡いだ記憶は無いけれど。だからこそどこにでもありそうな、少し普通では無い間柄の婚姻が成立したのだ。
一人娘としてアルレシャ家を途絶えさせるわけにいかなかった私は、次男である彼を婿としてもらって。それから更に二年後に、ピスとケスを生んだのだ。
そんな二人も今年で15歳。まだ誕生日が来ていないから14ではあるが、健やかに育ってくれて何よりだ。
世界中に溢れる普通とは少し違う立場の私たち。けれども双子だからこそ普通の二倍は注いだ愛情で、彼女達は今も元気に前を歩く。
周りとは少し違う感性の愛娘。今年より、世界最高峰とも言われるテトラフィラ学園に通う彼女達は、自慢の娘だ。
「お母様」
「早く」
「はいはい」
こちらを振り返った双子に招かれて小さく笑みを零す。
結婚は終わりであり、始まり。今こうして楽しいのは、きっと彼のお陰なのだろう。だから私は、こんなにも幸せなのだ。
* * *
奥様、お嬢様との外出。久しぶりの家族水入らずの時間に、必要最低限のお供として同行する身。一応辺りに気を配りつつ、人の中を歩いて進みます。
本日は町にやってきた知り合いの行商人に、久しぶりの挨拶を兼ねての訪問でございます。
わたくしが知る今日会う予定の商人様は、わたくしよりも旦那様や奥様とお付き合いの深い旧知の間柄の御仁。これまでも贔屓にしていただいて、世界を巡るあの方に遠方の珍しい品物のお取り寄せもお願いして来ました。
今回は前回の時にお願いしておりました品物の受け取りも目的の一つでございます。
……さて、そろそろあの方がこちらにお寄りの際に行商の店を構える場所ではございますが…………。
「見つけた」
「あそこ」
少しだけ辺りを見渡すのと同時、先に発見されたお嬢様が足を止めて道の脇の建物に視線を注がれます。つられてそちらを見れば、目的の人物が忙しなく品物の入った箱を運んでいる最中でございました。
「ジュスト」
「ん…………おぉ! ジャスミーヌっ。わざわざ来てくれたのかっ?」
「折角の休日だったものだから、散歩も兼ねてね。元気そうで何よりよ」
「あぁ、おかげさまでこの通りだ! 今年も戻ってきたぜっ」
ジュスト・リーン。旦那様、ルドガー・アルレシャ様の学び舎時代からの仲で、旦那様とのご結婚の際に様々な力を貸していただいたと、随分前に奥様からお聞きしたご友人でございます。現在は行商人として世界を渡りながら様々な品物を取り扱っておられます。
一年に一度、夏のこの時期に母国であるここカリーナ共和国に戻ってくる事が多く、今回もその例外に漏れずこうして行商に合わせて帰郷なされた様子です。
「ピスちゃんにケスちゃんも元気か? また少し大きくなったな!」
「うん」
「久しぶり」
「おう。相変わらず見分けがつかない鏡写しだな」
朗らかに笑みを浮かべるジュスト様。それから彼は、わたくしを見つけると使用人であるにも拘らず分け隔てなくお声を掛けてくださいます。
「ジネットさんも、変わりないようで」
「はい。ジュスト様もご健勝で何よりです」
「その堅苦しさももう慣れたよ。……そう言えば今日はルドガーは?」
「旦那様はお仕事のご都合で城下町を離れております。ジュスト様がいらっしゃる事はお伝えしておりますので、またお時間がある時にでも」
「あぁ。スハイルでいい酒が手に入ったんだ。期待しててくれって伝えてくれ」
「承りました」
「お手伝い」
「する?」
「お? やるかぁ? ならそっちの箱を店の奥へ運んでくれっ」
「ん」
「がんばる」
この様子ですと、旦那様がお戻りになられたその日に再会を祝しての宴が開かれる事でしょう。毎年の事ですからそれももう慣れました。今年もまたお屋敷にお招きするようであれば、腕を奮ってご歓待すると致しましょう。
そんな事を考えていますと、わたくしが止める間もなくお嬢様がジュスト様のお手伝いを始めます。
お邪魔になってはと思いお声掛けしようとしましたところ、奥様からそれを制されてしまいました。社会勉強の一貫、と言うことでございましょう。
奥様が仰るのならばそれ以上はありません。心配よりも信じる事と致しましょう。
しかしながらお嬢様ばかりに押し付けるわけにも参りません。中には貴重な品物もある事でしょう。そちらはわたくしが責任を持ってお運びするとことに致します。
そんな風にジュスト様のお手伝いをする中で、いつもの無表情ながらどこか楽しげな様子のお嬢様を見られたのは僥倖でした。
学園に入学されて以降、お嬢様は少なからず外の世界に触れる事が増えました。その影響か、以前より積極的な言動が目立つようになった事は、きっとよいことなのでしょう。
その大きな要因と言えば、やはり学園で仲良くなったあのお二方でございましょう。
アリオン家のご子息、ロベール様。クラズ家のご息女、シルヴィ様。お嬢様ほど秀でた物はございませんが、それでも同学年の方々と比べると頭一つ抜けた方々であるのは確かでございます。
お二方のお陰もあって、特別な立場や閉鎖的なお嬢様が学園で孤立なさっていない事には、深く感謝の意を表しております。今後とも仲良くしていただきたいですね。
「終わり」
「疲れた」
「ははっ、流石に重かったか。そうだな……休憩に食うか?」
「立派なアンラね」
アンラとはこの夏の時期に旬を迎える丸い果物でございます。特にここカリーナで栽培される物が甘く美味しいと評判で、この時期になると店先に幾つも並ぶ光景を目にすることができます。陽光を受け育った見た目は、空に浮かぶそれと同じように鮮やかな赤で。皮をむけば中からは瑞々しい果実が現れます。滑らかな舌触りは独特の物で、よくお菓子の材料などに使われているでしょうか。ただ、少し癖のある香りがあり、それが苦手と言う方もいらっしゃいます。お嬢様は特に気にしていらっしゃらないようですが。
「大きい」
「いいの?」
「手伝ってくれた礼だ。っと、剥かないとな……」
「わたくしにお任せください」
そこは使用人としての矜持。取り出したるは果物用の刃物。いつ如何なる時でもお嬢様のご用命にお答え出来るように、必要な物は全て持ち歩いております。使用人の嗜みでございますね。
受け取ったアンラを手早く剥いて一口大に切り分ければ、お嬢様は一つを摘まんでお口に運ばれました。
「美味しい」
「甘い」
「そりゃあよかったっ。ルーナサのお陰だな!」
短くも簡素な感想を落として、お嬢様はまた一口。どうやら随分時と気に入ったご様子です。
「ジュスト様、よろしければ幾つか見繕っていただけますでしょうか。旦那様にもご賞味いただこうと思います」
「あぁ、もちろんだとも」
そう言って幾つか吟味し始めるジュスト様。
もちろん言葉にしたのも本心ですが、それ以上にお嬢様がお気に入りになられたご様子。また今度、ケーキなど美味しい召し上がり方でご提供すると致しましょう。
「折角だから他に気になった物があったら遠慮なく言ってくれ。元々届けないといけないものもあったし、それと一緒に改めて家の方に持っていくよ」
「ありがとうございます。それでは────」
一応台所を預かる身として、食材の調達はわたくしの仕事でもございます。ジュスト様の扱う商品ならば間違いはないと思いますが、しっかりと見て選ぶと致しましょう。
「シルヴィ」
「ロベール」
と、唐突にお嬢様の声。直ぐに顔を上げて後ろを振り返れば、そこにはお嬢様のお言葉通り二人のご学友がそこにいらっしゃいました。
どうやら偶然のご様子です。
「あれ、ピスにケス……。それにジネットさんと────」
「ふふ、そういえばはじめましてになるかしらね。いつも二人と仲良くしてくれてありがとう。ピスとケスの母の、ジャスミーヌよ」
「お、おかあさ──ぶへっ」
「はじめまして。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。シルヴィ・クラズです」
「ロ、ロベール・アリオンです」
礼儀正しくご挨拶をされるお二方。今日も元気でございますね。
「どうしたの?」
「偶然?」
「あ、うん。暇してたからロベールと一緒に何かないかと思って歩いてたんだ」
「さっき買いたい物があるって……」
「何?」
「……なんでもない」
可愛らしいですね。……こういう事を言葉にはしませんけれども、お二方の関係も個人的に気になっている一つでございます。
「二人は……家族でお出掛け?」
「うん」
「ひさしぶり」
「そっか。邪魔しちゃ悪いかな」
「いいよ」
「楽しい」
「……いいのか?」
「ロベール」
「構いませんよ。二人もその方が嬉しいでしょうし。ね?」
奥様のお言葉に頷かれるお嬢様。そこまで言われると強情は逆に失礼に当たると気付かれたシルヴィ様が小さく息を吐かれました。
「……分かりました。それでは少しだけ」
「話は纏まったかい?」
声はジュスト様のもの。幼いやり取りを微笑ましげに眺めていた彼は、やってきた新しいお客さんに商売のお誘い。
「二人の友人なら大歓迎だ。あちこち回って色々なものを取り扱ってるから、気に入ったものがあったら言ってくれ」
「ありがとうございます」
「へー、いろいろあるんだな」
ご学友と共に商品を眺め始めるお嬢様。そのお姿を見守っていると、隣の奥様が童女のように楽しげに零されました。
「ジネット、私たちも行きましょうか」
「畏まりました」
是非もございません。掘り出し物が見つかるとよいですね。
* * *
「ここってジュストさんのお店なんですか?」
「そうだったら嬉しいんだがな。ここは商会が管理してる店なんだ」
「商会?」
ジュスト・リーンと言う商人に気になった事を尋ねる。すると返ったのは少し不思議な答えだった。
「僕は行商人でね。世界中を巡って様々な商品を商ってるんだ。そんな根無し草な商人の夢と言えばやっぱり自分の店を持つ事なんだがな。……って、僕の話はいいか」
「いいや。なんか面白そうだっ」
「なら続けさせてもらうよ。……行商をしていると一所に留まれないからな。旅はそれなりに危険だし、所帯も持てないってんで家族には色々言われるのさ。けど自由なのも魅力の一つ。それに商売は好きだからな。今の生活にもそれなりに満足してる。満足してる、が……高望みが尽きないのががめつい商人の性ってものかね」
自分のことながら呆れたように笑うジュスト。それでもそこに後悔の色は見えない。ただそれが自分の生き様だと認めて覚悟している風にも見える。
「そんなこんなで自分の店を持つのが今のところの夢だ。……この年になって夢ってのも恥ずかしい話だがな」
「お幾つなんですか?」
「38だよ。ピスちゃんとケスちゃんのお父さん……ルドガーの同窓生さね」
「いいじゃねぇか。夢がないよりはよっぽど充実してると思うぜ?」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
大人になっても夢は潰えないものらしい。まだ学生で、将来なんてぼんやりとしか考えていないけれども、彼のように何か一つ信じられる物があれば楽しく生きられるのだろうかと。
「で、そんな夢の為に行商を続けてるんだが、同じような夢を持つ奴は他にも沢山いる。そいつらと助け合う為の組織が行商商会って奴でな。僕はそこに属してるんだ。んで、この建物はその商会の持ち物。商会に入ってる商人がやってきた時にこうして貸し出しで一時的な店として使えるんだ」
「……そう言えば前は別の人がいた気がします。時々人が変わっていたのでそんなに入れ替わりが激しいのかと思ってました」
「知らなけりゃそう思うのも無理は無いなぁ。ま、その土地毎の活動拠点……子供っぽく言えば秘密基地って事だっ」
目を輝かせる声に重ねて気付く。彼の声音が、口調が、言動が。時折見せる幼馴染の子供っぽいそれとよく似ている。
女のあたしにはよく分からない……男の浪漫と言うやつなのだろう。
立派な大人なのに親しみ易く。楽しげな声にどこか呆れを感じてしまうのはその所為なのかもしれない。
「へぇ……面白い仕組みだな」
「お? 興味があるか?」
「楽しそうな感じはする。けど、そう言うのはいいかな。家も継がないとだし」
「おや、どっかのお坊ちゃんだったか? 悪いね。母国といってもそんなに長く滞在してるわけじゃないんだ。取引相手でもない家のことまで覚えてられないのさ。だったらまだ財布の中の貨幣と顔を付き合わせてた方が楽しい」
「いや、別にピスやケスみたいに有名な家って訳じゃないからな」
男同士の波長でロベールとジュストが同調する。特にジュストが子供っぽく感じるから、ロベールも話しやすいのだろう。
何だかロベールが二人いるみたいで少し疲れる。
「そっちのお嬢さん……確かシルヴィちゃんって言ったかな。君もどこかのご令嬢かい?」
「一応は。あたしとロベールは幼馴染なんです」
「なぁるほど。行商をしてて思うが信用よりも人の縁の方が余程大切に思えるときがある。折角の繋がりだ。離さないようにな」
「切っても切れない腐れ縁ですから」
「んだよ、その言い方。ぼくの事嫌いなのか?」
「……嫌いと言えば嫌いかな」
それ以上に好きだけれども。そこまで言ってやる義理は無い。言う勇気もない。そんな自分が恨めしい。
逃げるように顔を逸らせば、ジュストが楽しそうに笑う。
「仲が良さそうで何よりだ」
「……ジュストさんはいつまでここにいるんですか?」
「僕かい? そうさねぇ……ブランデンブルクからの積み荷がまだ届いてないからいつになるか……」
「積み荷?」
「馬車じゃ運べないでかい買い付けをしてね。海路で運搬してもらうように頼んでるのさ。だからそれがこっちについて、それから方々に売り捌いて……って事になるから、多分結構な間いるんじゃないかね。久しぶりの帰郷で色々挨拶回りもしないとだから。これでも意外と忙しい身なのさ」
「それじゃあまた今度遊びに来てもいいですか?」
「遊びにって……冷やかしはやめてくれよ?」
言葉ではそう言いつつも、声や表情に本気の色は無い。この様子なら仕事を邪魔しない限りは大丈夫だろうか。
「そこは弁えてます。……それに、商売相手が増えるのは悪くない話だとは思いませんか?」
「ほう。中々どうして強かなお嬢さんだ。期待してるよ」
まだどうなるかなんて分からないけれども。今日帰ったら親に少し話をしてみよう。新たな取引先の開拓は、クラズ家にとっても得になるはずだ。
「ロベール君もよかったら話だけでもどうだい? 誠心誠意の信用が商人にとって何よりの売り物さね。損をさせるつもりは無いよ」
「分かった。……その代わり、何か欲しい物があったらぼくもお願いしていいか?」
「もちろんっ。カリーナにいる間で手に入るものならできるだけ迅速に。もし僕が捕まらなければ商会に言伝でも残しておいてくれればいい」
「あぁっ」
こう言うところ、育った環境故かあたしもロベールも抜け目ない。ただの社会勉強だけでは終わらない。全ては自分の将来のため。目の前の彼も先ほど言っていたが、人の輪は大切だと親からも常々言われている。築ける関係はいつでも構わない。学生だからこその自由を振りかざす。
「これ」
「なに?」
そんな話の腰を折るようにいつもの如く外からの声はピスとケス。彼女達にとって人の面倒な繋がりは不必要なようで、いつだって自分本位に自由な言動を貫き通す。
今回も耳さえ傾けずに陳列された商品を見て回っていた彼女。興味が引かれたらしい一つの前に立って尋ねる。
彼女達の目の前にあったのは木製の小箱だった。
「あぁ、それはスハイルで見つけた一点物の箱でね。様々な木々を組み合わせて作ってあるんだ」
「ただの箱?」
「少し仕掛けがしてあってね。特定の順番でしか開けられないつくりなのさ。しかも木しか使ってないんだ」
「……どういうことですか?」
「簡単に言えば手順を知らなければ開けられない秘密箱。しかも金属や接着剤を一つも使ってない不思議な製法なんだ」
「それどうやってくっついてるんだよ」
「詳しい事にはぼくにも。ただ見た目も面白い柄だし、機密性も高い。欲しがる人はいると思ってね。試しに幾つか仕入れてみたんだ。値が付いて需要があれば先方と取引の契約を結べる約束になってる」
説明を横に聞きながらその小箱を眺める。大きさは両の手のひらに乗るほど。不思議な柄は、よく見れば違う種類の木を組み合わせて一つの図形のようにしているようで不思議な魅力がある。
「……面白いですね。何だか可愛いです」
「お、気に入ったかい?」
「因みにお幾らですか?」
「まだ決めては無いんだが……そうだなぁ…………。銀貨で20か30ってところじゃないか?」
「ただの箱がそんな値段すんのかよっ」
「一点物って言っただろう? これ一つ作るのに一月以上は掛かるんだ。数も少ないし、何より世界に二つとして同じ物は無い。ピスちゃんとケスちゃんの友人価格って事でこれでも少し安く見積もってるつもりなんだがなぁ……」
フェルクレールトの大地での通貨は三つ。下から順に銅貨、銀貨、金貨だ。銅貨100枚で銀貨1枚。銀貨1000枚で金貨1枚の価値がある。
物価の例として、四人家族で一月過不足無く暮らそうと思うと金貨が2枚から3枚といった所だろうか。日に換算すれば一日銀貨10枚もあれば、時折贅沢をしつつ暮らせる。一人当たりだと一日銀貨2枚に銅貨50枚と言った具合だ。
それと比べれば、目の前の小箱がいかに値の張る品か分かる。単純計算で実に十日分。しかも割引と言う好意に甘えてその値段だ。
「流石にお嬢様と言えどお小遣いじゃちょいと厳しいか?」
「むぅぅ……」
普通の家庭と比べたら随分と裕福な暮らしをしているだろうあたしだが、ジュストの言う通り簡単に手が出ない値段なのは確かだ。買えない事は無い……が、それだと今月は後半月、色々なものを我慢しないといけない。
「そんなに欲しいのかよ」
「絶対にって言うわけじゃないけど……あったらいいなって思うし、買えるなら買いたい」
ロベールの声に返して、悩む。世界に一つだけの秘密の小箱。その誘惑は、後何か一つきっかけがあれば手を伸ばしてしまうくらいにあたしの心を揺らしている。言ってしまえば、その一点物に一目惚れをしたのだ。
「……あの」
「なんだい?」
「ら、来月……月の初めまで置いてもらう事って、出来ませんか……?」
「んー……。そりゃあちょいと難しい相談だな。こっちとしても出来れば高く売りたい。そうしないと儲けが出ないからな。もし他の客に倍の額出すって言われたらそっちに売るのが本音だ。商人ってのはそういう生き物だからな」
「うぅぅ……」
「そこまで言ってくれるのはありがたいが、これも商売だ。特価はこの場限りにさせてくれ」
「…………わかり、ました……」
小箱をじっと見つめて、思う。きっと次カリーナに来る時にあたしの分を用意して欲しいと言ったらしてくれるだろう。けれどもそれはこの小箱ではなくて、今感じているときめきと同じ物は多分味わえない。世界に一つと言うのは、そういうものだ。
……どうしても。そうは言い切れないが、手に入れられるなら欲しい。しかしその勇気が、まだ────
「シルヴィ」
葛藤に揺れていると、隣から幼馴染の声が耳朶を打つ。思わず驚いて距離を取れば、彼は少し訝しげにしながら続けた。
「な、何……?」
「足りないなら少しくらい出そうか?」
「え…………」
一瞬、彼の言っている言葉の意味が分からなくて訊き返す。けれども直ぐに巡った思考が納得を導き出して……気付けば口にしていた。
「…………それは、だめ……」
そう、駄目なのだ。貸しがどうとか、そう言う事ではなくて。単純にあたしが嫌なのだ。
彼からの純粋な贈り物なら悪態を吐きつつ素直に喜べたかもしれない。けれども情けのように手を差し伸べられるのは、嫌なのだ。
もちろん分かっている。彼はそんな事を思ってなどいないのだと。分かってはいるが、それでもどうにもならない感情があるのだ。
「……そうか。分かった」
「…………ごめん」
「何でシルヴィが謝るんだよ」
「だって────」
だって。……その先に、あたしは何と言おうとしたのだろうか。
自分さえも分からない感情に振り回されて発しかけた言葉。けれどもそれは音になる前に更なる衝撃で上塗りされて消えてしまった。
「買う」
「いい?」
それは、全く同じ異なる二人の声。反射的に声のした方へと視線を向ければ、そこにはよく知る双子の少女がいた。
「……僕は別にいいけど。いいの?」
「え…………ぁ……」
声に、二人の視線がこちらを向く。
いつもと変わらない、天色の感情を宿さない瞳。覗き込むとこちらが不安になるような真っ直ぐな視線に、喉の奥が詰まったような感覚を覚える。
「シルヴィ」
「どうする?」
「……………………」
二人に問われてようやく頭が回り始める。それと同時に、面倒臭く嫌な自分が顔を覗かせたのがわかった。
「……いいよ。二人が、欲しいなら」
あぁ…………。やっぱりあたしは最低だ。二人が買いたいなら、なんて理由に……安堵してる。言い訳が見つかった事に、ほっとしてる。
だからこそ、気付いてしまう。あたしが買わなくてよかったのだ、と……。
「分かった」
「ジネット、お金」
「はい」
後悔。そしてそれ以上の安心。
誰よりもそんな自分が嫌になって拳を握れば、ロベールが心配そうに声を掛けてきた。
「……大丈夫?」
「…………なにが?」
「……………………」
……駄目だ。ロベールにまでそんな顔をさせてしまった。
ほんと、駄目だ。
* * *
ピスとケスが小箱を買うのを傍から見ていることしか出来なかった。それ以上に、隣で俯く幼馴染が心配で仕方なかった。
あんなに熱を持って欲しそうに見つめていたのに。どうして諦めてしまったのか。その理由が分からなくてぼくまで落ち込んでしまう。
ぼくはただ……シルヴィの為にと思ったのに。いつも迷惑を掛けている幼馴染に、一年に一回の偶然を重ねて御礼を言おうと思っただけなのに。
……やっぱり便乗しようとしたのがいけなかったのだろうか。一応……と言うか必要な物は用意しているけれども。
「外にいる」
「……分かった」
弱々しく告げてシルヴィが店の外へ。一瞬付いて行こうかとも思ったが、変に気を回して気分悪くさせても仕方ないとやめた。
久しぶりにあそこまで落ち込んだシルヴィの姿を見た。いつも面倒なほどに突っかかってくる幼馴染だが、ふとした拍子にああして沈み込んでしまうのだ。前は確か、怪我をしていた小鳥の世話をして、その甲斐あって自由に飛べるようになったその子とお別れをしたときだったか。
経験上、共通しているのは何かしらの自己嫌悪に陥る時。周りにではなく、自分が嫌になった時。だからきっと今回もそれなのだろうが、どこにそのきっかけがあったのか分からない。欲しい小箱が手に入らなかっただけなら、きっとあそこまで落ち込んだりはしないはずだから……。
「ロベールは?」
「何か買う?」
「え、あ……」
思考を引き裂くような外からの声は直ぐ目の前より。シルヴィの背を追うように向けていた視線を元に戻せば、直ぐそこに鏡写しな少女がじっとこちらを見つめていた。
「……そう、だな。…………いや、今日はいいや。また今度にする」
「そう」
「分かった」
そこまで購買意欲は湧かない。それに散財もあまりしたくない。ジュストもしばらくはここにいるみたいだし機会はまだある。日が変われば気分も変わるだろう。
それよりも今はシルヴィの事が気になる。あぁなった彼女は何かきっかけがあるまで落ち込み続ける。そうでなくとも今日は彼女にとって────
「ロベール」
「この後は?」
「へ?」
「予定」
「どうするの?」
と、向けられた言葉に思わず間の抜けた声を返す。続いた二人の声に、それから追いついた頭がどうにか返答を紡いだ。
「あ、あぁ。予定は入ってるけど……」
「ジネット」
「いい?」
また話題が跳ぶ。この二人と会話をしているとよくある事でもう慣れてしまったが、慣れたからと言ってそれについていけるかは別問題。どうしてそこで彼女の名前が出るのかが分からない。
「構いませんが、あまりお帰りが遅くならないようにご注意くださいね。奥様もそれでよろしいですか?」
「えぇ。二人共、気をつけてね」
「うん」
「ありがと」
家族の絆ゆえか、主語などなく交わされた会話からピスとケスがこちらを向き直る。
「一緒に行く」
「いい?」
「一緒って……この後か?」
問えばこくりと頷いた双子。
相変わらず突飛押しもない事だと驚くのと同時、個人的に二人といられる偶然に嬉しくなる。
「二人がいいならぼくは別に」
「何だ、もう行くのか? 引きとめるつもりはないが、時間があればまた遊びに来てくれ」
「ありがと。それじゃあまたっ」
つい先ほど会ってまだそれほど時間は経っていないが、それなりに仲良くなれた行商人ジュスト。どこか自分と似た空気にやり易さを感じていたのは確かで、社交辞令ではなくまた来たいと素直に思える相手だった。
別れの挨拶をしている間にいつもの調子でピスとケスが足を出す。そんな二人の背中を追って店の外に出れば、シルヴィが双子に挟まれていた。
「シルヴィ、元気ない」
「大丈夫?」
「……うん。心配かけてごめんね」
「二人も一緒だってさ」
「あ、そうなんだ……。どこ行こっか?」
声にいつもの元気は無い。普段しっかりしているから余計に顕著だ。
幼馴染の元気がないとこちらまで感化される。どうにかして立ち直ってもらいたいが…………このまま当初の予定を推し進めてもいいものか。
そんな事を考えた直後、ピスとケスが彼女の目の前に何かを差し出す。それが先ほど買った小箱だと気付いた瞬間、同時に疑問が湧いた。
「え……何?」
「贈り物」
「誕生日」
「……ぁは。知ってたんだ」
拍子抜けしたように面食らって。それからシルヴィは少し疲れたように笑みを零した。
遅ればせながら二人の言葉にのっかって口を開く。
「ぼくが教えたんだ。少し前に」
「変なことには頭が回るんだね」
「一緒に祝った方が楽しいだろ? 最初は家族の予定があるって聞いてたから殆ど諦めてたんだけど……こうなったらもうなるようになれだ!」
言って、それ以上の不必要な悪態を吐かれる前に言葉を重ねる。
「『胡蝶の縁側』のあの部屋を特別に貸し切りにして貰ってる。会場はそこだっ。ほら、行こう、シルヴィ!」
「お祝い」
「早く」
「もうっ、押さないでってば!」
心なしかいつもより楽しそうなピスとケスがシルヴィの背中をぐいぐいと押す。悪いがこのまま強行させて貰うとしよう。
今日は落ち込む暇もないくらいに楽しい事で塗り潰してやる!
『胡蝶の縁側』に着くとそのまま店主であるジル・モサラーに店の奥へと通される。
予め頼んでいた特別室の貸切。今回の主賓、シルヴィにとってはもう何度も訪れたあまり新鮮味のない空間だ。
いつもは国の重鎮が話し合いの場に使ったりする緑溢れるその部屋で。昔馴染みの特権で融通してもらったのだ。
部屋に入って最初に視界に飛び込んできたのはむせ返るような自然。建物の中、人が往来し様々な軒を連ねるカリーナ城下町中腹の商業地区にある、緑の空間。人工的に手入れされたその部屋は変わらず天窓から差し込む日差しで室内を明るく照らし──そして次いで飛び込んでくる光景にいつも以上の特別を演出していた。
「うわぁ、なにこれ……!」
「お祝い」
「準備」
「シルヴィに内緒で用意したいって言われて手伝ったんだよ。昨日ここに遊びに来た時にばれないかひやひやしたもんさ」
共犯者であるジルが安堵したように笑って紡ぐ。
特別な部屋を特別な日に飾り付けして特別な時間へ。彼にこの提案をしたのはぼくだ。折角の誕生日。できることなら少しでも盛大にしたいとしばらく前から時間を掛けて準備を重ねていたのだ。いつも一緒にいる幼馴染に露見しないようにするのは気を遣ったが、楽しくもあった。
「どうだ? 驚いたか?」
「……うん、素直に驚いた。と言うか二人も手伝ったの?」
「ピスとケスは用事があるって言ってただろ? だからここには来れないって思って、せめて気持ちだけでもって思って協力してもらったんだ」
「そうだったんだ……。ありがとっ」
「準備楽しかった」
「お祝いも一緒」
「そうだね!」
当初の予定ではここにいなかった双子。けれども偶然で彼女達も同席する事になった。きっとこれ以上に嬉しい事は無いだろう。
「ってことで二人の食事も追加してもらっていいか?」
「あぁ、もちろんだとも。とりあえず用意してる分は持ってくるから待っててくれ」
「運ぶ」
「手伝う」
「ん、ならお願いしようかな」
今日の彼女達はなんだか積極的な気がする。そんな事を思いつつ背中を見送れば、飾り付けで彩られた緑の部屋に幼馴染と二人だけになる。
まだ少し現実味がないのか、部屋の中を軽い足取りで見渡すシルヴィ。ようやく元気になってくれた気がする幼馴染に、一つ咳払いをして声を掛ける。
「んんっ。……シルヴィ」
「あ、何?」
「これ。お祝い」
差し出したのは小さな箱。綺麗に包装されたそれを少し気恥ずかしく思いながら彼女に渡す。
「……開けていい?」
「うん。けど、気に入らなかったらごめん」
「………………あ、ペンダント……」
シルヴィの為に用意した贈り物は、硝子細工の羽飾りを付けたペンダントだ。
「これ、黒い羽……?」
「家名だろ。あと妖精っぽいかと思って」
「そっか……」
家の名前にはそれぞれ由来がある。ぼくの家名、アリオンは有名な詩人から。親に聞いた限りだと、アリオン家の創始者の名前らしい。シルヴィのクラズはコールヴァスと言う黒い鳥に因んだものだ。
コールヴァスは知能の高い鳥で、上手く躾ければ伝令役にもなる鳥だ。中には世界を股に掛ける種類もいて、空を渡るコールヴァスは犀利と自由の象徴でもある。
「なんだか隠し事してるなと思ってたけど、これだったんだ」
「気付いてたのかっ?」
「ここまでは分からなかったけどね。幼馴染だもんっ」
驚かせる事には成功したが、少し意趣返しを食らった気分だ。こういうところ、流石はシルヴィと言うか何と言うかだ。
「……でも、ありがとっ。大切にするね!」
「お、おうっ……!」
ふわりと微笑んだシルヴィ。その頬が薄く桃色に色づいて口元が綻んだ事に胸の奥が知らず高鳴る。
……とりあえず、喜んでもらえたようで何よりだ。
「お待たせ」
「お祝い」
「始める」
「……そうだなっ」
「うん!」
大皿に乗った料理が運ばれてくる。それを更に並べ、それぞれに飲み物を注いで手に持ったところで深呼吸。視線で呼吸を合わせて、それから今日一番の想いを込めて高々と掲げる。
「シルヴィ、誕生日おめでとう!」
小さく響いたコップのぶつかる音。その合図を始まりに、特別な時間が楽しさと共に幕を開けた。




