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犬のしつけ

 犬は賢い動物だと言われる。

 主人である人間の教えに従い、言葉に従い、行動に従う。

 彼等にとって主人は絶対である。

 主人に従うことが、彼等の喜びである。


 なお主人に従わぬ犬は、俗に駄犬と呼ばれることもある。


   ◇◆◇


「ごめんなさい」

 目を開けた男の視界に最初に映ったのは、謝る女性の姿であった。

 男の傷痕を撫でながら、女は再び謝る。

「どうやら、全部私が悪かったようですわ。本当にごめんなさい、パピー」


 どうやら意識を刈り取られた後、ベッドに寝かされていたようだ。パピーは自分の置かれた状況を確認する。しかし分からない。なぜジョアンナが謝るのか。

 立ち上がろうとするパピーを、ジョアンナは片手で制する。

「ビーズさんが起きてしまいますわ」

 言われて顔を反対に向けると、脇で丸まって眠るビーズの姿があった。その手はしっかりとパピーのシャツを掴んでいる。

 パピーは苦笑し、ビーズを起こさぬよう、ゆっくりと身を起こす。ビーズは一瞬むずかる様に眉を顰めたが、すぐに弛んだ寝顔に戻った。眠りは深く、ちょっとやそっとで起きる様子はない。

 あれでいて、こいつも今まで無理をしていたのかもしれない。

 そっと灰色の髪を撫でるパピー。色合いこそ同じだが、ボサボサの髪の毛は、記憶にある柔らかな毛並みとは全く感触が異なる。どうしてビーズがサリスであると思い込んでいたのかと、今更ながら不思議になるくらいであった。

 穏やかな寝息を立てるビーズを見詰め、パピーは微笑む。

 色々と引っ掻き回してくる駄犬だが、どうしても憎みきれない。彼女をサリスだと思い込んでいたからだろうか? おそらく違う。この一週間ちょっとで、パピーはこの自由気ままなビーズという少女のことを好きになったのだろう。

「父親の目ですわね」

 どこか拗ねた様な声に我に返る。

 ジョアンナの存在をすっかり忘れていたパピーは、まるで浮気がばれた亭主の様に狼狽える。

「……言っておくが、俺はサリスと交尾なんてしてないからな」

「ええ、大丈夫ですわ。全部分かっておりますもの」

 ジョアンナは自嘲的な笑みを浮かべると、ベッドの端に腰を掛けた。先程までとは変わり、上背のあるパピーを見上げる形になる。

「貴方が寝ている間に、ビーズさんから必要なことは聞いておきました」

「そうか……それで、何でお前は謝ったんだ?」

 パピーは顔を引き締め、真っ直ぐに問う。

 右目に見詰められ、ジョアンナは瞳を伏せる。いつだって真っ直ぐな彼女らしからぬ、弱気な態度。揺れる視線は罪悪感の現れか。

「教えてくれ。一体なにがあったんだ」

 再度の問いにジョアンナは観念したように苦笑し、瞳を伏せたまま語り出した。

 ビーズから聞き出した、この騒動の発端。

 パピーが左目を失った理由、サリスが行方を眩ませた理由、ビーズが現れた理由。

 全ての原因となった、十年前に彼女がサリスと交わした会話を――

 ――――――

 ――――

 ――


『ねえサリス』

『どうしたのジョアンナ、そんな改まった顔をして』

『どうしましょう。パピーを襲いたい気持ちが抑えきれませんわ』


「待て待て待て!」

「何ですの? 話の腰を折る男は嫌われますわよ」

 始まったばかりの回想を、慌てて制止するパピー。

 一方、情感たっぷりに過去の会話を再現し始めたジョアンナは、開始十秒で止められて不満顔だ。

「いや初っ端からおかしいだろ、何を言ってるんだよてめえ!」

「ですから『パピーを襲いたい気持ちが……』」

「それがおかしいって言ってるんだよ!」

「うるさいですわね! いいから聞きなさい!」

 もはや先程までの殊勝な態度はどこへやら。パピーを強引に黙らせたジョアンナは、再び十年前の記憶へと潜る。

『パピーを襲いたい気持ちが抑えきれませんわ』

「そこから繰り返すのかよ」

 パピーは懲りずに横やりを入れるが、睨まれて黙り込む。

 何事もなかったかの様にジョアンナは続ける。

『襲うだなんて物騒ね。人間は同族を狩るものなの?』

『そういう意味ではございませんわ。そうですわね……強引に交尾をしたい、と言えば分かるかしら?』

『やめなさいよ、はしたない』

『分かっておりますわ。けれど昂ぶる気持ちは抑えきれません!』

『人間と獣の違いは理性の有無だと聞くわ。あなた獣に落ちるつもり?』

『……まさか獣に諭されるとは思いませんでしたわ』

『大体、交尾とは甘くて素敵なものだと教えてくれたのはあなたでしょう? 強引にだなんて、ちっとも甘くないわ』

『まさか過去の私にも諭されるとは不覚ですわね。けれど残念ながら、そういった交尾の形が存在するのも事実ですわ』

『知りたくなかったわ。けど襲って一時の満足を得たとして、その後はどうするのよ』

『……きっともう会わせる顔が無くなりますわね』

『それは本意ではないでしょう?』

『ええ、分かっておりますわよ! けれど……パピーが可愛すぎるのがいけないのですわ!』

『難儀なものね。確かに小さな主様は可愛いとは思うけど、我を忘れる程かしら?』

『貴女も恋をすれば分かりますわ』

『残酷なことを言うのね。私に相手がいないことは知ってるでしょ?』


 ここでジョアンナは一旦、間を開けた。

 大人しく聞き入っていたパピーが、ごくりと唾を飲み込む。

「それで私は言ってあげたのです。『心配ありませんわ。どんな境遇であろうとも、女と恋は切り離せません。きっとサリスにもそういう相手が現れますわ』と」

 緊迫した空気を打ち消すかの様に、ジョアンナはあっさりと結末を述べる。

「……とまあ、細部は異なるかもしれませんが、おおよそこの様な会話を致しましたわ。私もビーズさんから話を聞くまで忘れておりましたが……まあ、若気の至りですわね」

 しばらく黙って見つめ合う二人。やがて、パピーが疲れた様な溜息を吐いた。

「あー、言いたいことは山程あるが……」

 自分の与り知らぬところで、そんな会話がなされていたとは驚きだ。貞操を守ってくれたサリスには感謝をしてもし足りない。しかし……

「それのどこが問題なんだ? いや、確かに問題だらけの会話だったが」

 もっともな疑問だろう。

 はたしてこの会話が、どうして一連の騒動の原因になったのかパピーにはさっぱり分からない。

「現れてしまったのですわ。サリスに「そういう相手」……つまり、恋に落ちる相手が」

 パピーの困惑を他所に、ジョアンナは淡々と語る。

「サリスは気持ちが抑えきれなくなり、交尾をし、ビーズを産んだ。これはそういう話です」

 ジョアンナに見詰められ、パピーは彼女が言う「相手」が誰であったか理解する。

 困惑を深めるパピー。

「いや……確かにビーズが交尾がどうとかと言ってたが、俺はしてないからな?」

 隣で眠るビーズを一瞥し、それから己の過去を振り返る。

 しかしいくら振り返った所で、そのような事実はない。

 確かにサリスのことは好きだったが、それは恋愛感情とは別である。大体、サリスはずっと狼の姿のままだった。獣と交わるような異常な行為は、決して行っていないと断言できる。

 そんなパピーの狼狽え振りがおかしかったのか、ジョアンナは困った顔で笑う。

「だから言いましたでしょう。悪いのは私ですわ」

 腕が伸び、パピーの傷痕を優しく撫でる。

「私はサリスに教えていたのですわ。交尾とはいかなる行為かを」

 傷痕を撫でていた指先が曲がり、パピーの空っぽの眼窩に食い込んだ。

「ビーズにも伝わっていたようですわね。『交尾とは男の体を女の体に入れること』と。貴方も聞いたでしょう?」

 パピーはジョアンナの言葉を反芻する。

 しばらく悩んでいたが、どうやらその言葉の意味が、とても苦々しいものだと分かってしまったようだ。

「あー……つまり、あれか。サリスの奴は、お前の言葉を額面通りに捉えてしまったわけか」

 サリスは実行したのだ。

 「パピーの体」を「サリスの体」に入れるという行為を。

「目だったら二つあるから、一つくらいもらっても構わないと思ったそうですわ」

 ついでに言うと「どうせなら綺麗なモノを」という気持ちもあったそうです、などとパピーがどう反応していいのか困る言葉を付け加えるジョアンナ。


 それが十年前、サリスがパピーを襲った真相。

 彼に恋した彼女は、気持ちを抑えきれずに、パピーに対し「強引な交尾」を行った。

 恋した相手の左目を抉り取り、己の体の中へと……

 その結果、産まれたのがビーズである。


 長年の胸のつかえが取れて、喜ぶべきなのだろうか。

 逆に胸の中にモヤモヤと湧き上がる何とも言えない感情を吐き出す様に、パピーは言う。

「いや、我慢しろよ。死にかけたんだぞ俺……」

「人間ではなく獣だから、理性に縛られる必要はないと思ったそうですわ」

「せめて後からでも言ってくれれば……」

「はしたない行為をしたので、会わせる顔が無いそうですわ」

「……それで、サリスは俺の目玉を喰ったわけか?」

「いいえ、体に埋め込んだそうですわ」

「なんでそれで子供が出来るんだよ」

「魔獣だから、としか言いようがございませんわね」

「お前に教えられた通り、体に入れたわけか」

「そうですわね」

「なんでそんな曖昧な教え方をしたんだよ!」

「ならどうしろと。『交尾とは男の×××を、女の×××にぶちこむ行為である』と教えろとでも!」

「『×××』とか言うんじゃねえよ!」

「貴方が言わせたのでしょう、この変態鬼畜獣姦男!」

「俺は交尾なんてしてねえって!」

「子供まで作っておきながら、何をぬけぬけと!」

「だからビーズは俺の子じゃねえよ!」


「……ということらしいですわよ」

 感情任せの怒鳴り合いから一転して、冷めた声で告げるジョアンナ。

 その言葉はパピーに向けられたものではない。

 彼が視線を追って振り返った先には、赤い瞳を大きく見開いた少女の姿があった。

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