犬を飼う
「……悪い、起こしちまったか」
狼狽ながら男が言う。
「いいえ大丈夫です。ずっと起きてましたから」
ベッドに座り込んだ赤い瞳の少女が、事も無げに答える。
「狸寝入りかよ」
じと目で睨み付ける男に、少女は笑いながら答える。
「タヌキじゃありません。私は犬です」
聞かれていた。
パピーは狼狽える。
否定した。ビーズは自分の子供ではないと。
はたしてビーズはどう思っただろうか。売り言葉に買い言葉であったと誤魔化すこともできるだろう。どうとでも丸め込めるはずだ。そう計算する一方で、パピーは己の心を覗き込み、本心を探す。
自分はこの少女のことをどう思っているのか。この一週間を思い返し、少女のことを考える。
答えは、すぐに見つかった。
「聞いていたなら話は早い」
はっきりと告げるべきだろう。それが自分の責任である。
「お前がサリスの娘だと言うことは認める。交尾がどうとかって話も信じよう」
ビーズは続く言葉を待つ。
話の流れから、既に予想は付いているに違いない。それでも目を逸らさず、しっかりとパピーの言葉を待つ。
だからパピーは右目でしっかりと見詰め返し、はっきりと告げた。
「だが、俺の娘だとは思えない。きっと、これからもそうだろう」
びくん、とビーズの体に震えが走った。
赤い両目が見開かれ、端に涙が浮かび上がる。
パピーは目を逸らさず、一部始終を見届けようとする。
赤い両目から頬へと、涙が伝った。薄く開いた口が小刻みに震え、吐息とも喘ぎともつかない微かな音が漏れ出す。
そして――
「パピー様ぁ……」
何かに縋り付く様な、弱々しい声で。
「すみません……漏らしちゃいました」
そう懺悔して、少女は力尽きた様に、ぽてっと前屈みに崩れ落ちた。
「………………」
真面目な表情のままで固まるパピー。
伏したビーズの股の下、洗い晒しのシーツには、何らかの液体がじわじわと染み込みながら広がっている。どうやら自己申告に虚偽は無いようだ。
「大丈夫ですわ」
硬直するパピーに、静観していたジョアンナが慰めの声を掛ける。
「今日はお天気が良いですから、きっとすぐに乾きますわ」
「ああ……そりゃ良かった」
パピーはぎこちない動きで天を仰ぐ。
残念ながら視界に広がるのは、青空ではなく薄汚れた天井だった。
◇◆◇
『仔犬が犬を飼い始めた』
平和で豊かなマグナの街では、そんな噂が流れている。
あれから数日、少女が男の元に現れてから十日が経った。
今日も今日とてパピーは薬を売り歩き、ビーズはその後ろを付いてくる。
色々と騒動はあったが、では何が変わったかと言えば、おそらく何も変わってはいない。
「ようパピー。今日も飼い犬の散歩かい?」
「犬じゃねえよ。家族だ」
軽口を叩いた男は目を丸くする。
反論されるのはいつものことだが、その内容がこれまでとは違うのだ。
「家族ってお前……妹なんていないよな?」
「知っての通り天涯孤独だよ」
「となると冗談だと思っていたが、やっぱりあの噂は本当の……」
「待て、どんな噂だ」
「パピーがロリ――」
「違げえよ!」
「幼妻にも限度ってものが……」
「下剤盛るぞてめえ!」
冗談だと笑う男をパピーは睨み付ける。街の人々とのこんなやりとりも、いつも通りのことだ。
笑いを収めた男は、幾分真面目な表情になって問い掛ける。
「で、本当の所はなんなんだ。娘ってわけでもないよな。ジョアンナさんが身重だったことなんてないし」
「なぜそこでジョアンナの名が出るのか知らねえが、娘でもねえよ」
ちょいちょいとビーズを招き寄せ、その頭をポンポンと叩きながらパピーは答える。
「知り合いの子で、俺からすりゃ姪っ子みたいなもんだ。それだって一緒に暮らしてりゃ家族だろ」
紹介されたビーズは、どこか拗ねたような顔で上目遣いにパピーを睨む。
「知り合いの子ねえ。まあいいや。よろしくな、ビーズちゃん」
「……がうっ!」
「うおっ!?」
握手をしようと差し出された手に噛み付こうとするビーズ。相手が慌てて手を引っ込めたから大事には至らなかったが、下手すれば食い千切らんばかりの勢いであった。
「何してるんだよてめえ!」
「きゃいんっ!」
間髪入れず拳骨を落とされ、ビーズは悲鳴を上げる。
「でも、でもでもパピー様、噛み付けば傷薬が売れるかと……」
「逆に治療費と慰謝料を巻き上げられるわ!」
もう一発振り下ろされる拳骨。再び情けない悲鳴が上がる。
「まあまあパピー、その辺にしておけよ」
被害者がそう言われては仕方ない。この機会にしっかりと躾けておきたかったが、軽く頭を叩くに留める。謝るパピーに対し「気にするな」と爽やかに去っていく男。今度飯でも奢ろうと心に決めた。
薬の売り歩きを再開したパピーだが、すぐに中断を余儀なくされた。すぐ後ろを付いてくるビーズは今にも泣き出しそうな顔をしている。これではお客が寄ってくるはずもない。
適当な軒先を借りて腰を下ろす。ビーズは立ったままだが、それでも目線の高さはさっきよりも近くなる。魔獣だのなんだの言っても、まだまだ子供なのだ。
「……怒ってますか?」
「別に怒っちゃいねえよ」
怯えを含んだ問い掛けに否定の答えを返す。とりあえずお前も座れと言うが、ビーズは俯いたまま動かない。
溜息を吐いたパピーが「お座りだ」と命じると、今度は渋々ながら従った。
「で、何で噛み付こうとした」
落ち着いたのを見計らって、パピーは先程の行為の真意を問う。
傷薬の販促などという言い訳は端から信じていない。答えの予想は付いてはいるが、直接本人の口から言わせることに意味がある。
「……家族ではなく、飼い犬だということをアピールしてみました」
「そういうのは狂犬って言うんだよ、この馬鹿犬が」
いつもなら「くねくねいやんいやん♪」をすること必至の馬鹿犬呼ばわりにも、ビーズは拗ねた顔を崩さない。
「家族じゃないのに。犬なのに……」
ビーズの呟きに、パピーは嘆息する。
そして青空を仰ぎ見ながら、あの日の顛末を思い返した。
『娘とは思えない』
パピーの非情な言葉を聞き、小便を漏らしながらベッドに突っ伏したビーズ。何が何だか分からぬまま狼狽えていると、ビーズは前触れもなく復活し、濡れたズボンをそのままにパピーにしがみついてきた。
てっきり詰られたり泣かれたりするのかと思いきや、胸元に顔を擦り付けたり、意味もなく「パピー様パピー様」と連呼したり。出逢った時を彷彿させるその様子は、むしろ喜びを抑えきれない犬そのものだった。
どうしていいか分からず呆然としていたパピーだったが、鼻先を舐められそうになってようやく我に返る。思わず出た『待て!』という言葉に、ビーズは『わふん♪』と嬉しそうに吠えて、大人しく「お座り」の体勢で待機した。
『お前……怒ってないのか?』
『なんでですか?』
怖々尋ねると、ビーズはお座りのまま小首を傾げる。
『いや、だって俺はお前のことを娘じゃねえって……』
『くぅ~ん♪ また漏らしちゃいそうです!』
薄々気付いてはいたが、この様子からすると先程の失禁も、どうやら「うれション」だったようだ。
しかし喜ぶ理由が分からない。パピーはビーズと同じように首を傾げた。
疑問符まみれのパピーにビーズは問う。
『私はパピー様の娘じゃないんですよね? そうですよね?』
『あ、ああ……うん……』
ビーズの勢いに気圧されて頷くパピー。
『ということは、家族でもないですよね!』
『え? や、まあ……うん?』
再び頷きそうになるが、途中から小首を傾げようとして、頭が不自然な方向に傾いた。
それでもビーズは肯定と受け取ったのだろう。命令を破ってパピーに飛び付く。
その動きは獣。あるいは猟犬。倍近い身長差を物ともせずに獲物をベッドに組み伏せ、目を輝かせながら言い放った。
『家族じゃないなら平気ですよね! しましょう! 交尾を!』
……今こいつ、なんて言った?
呆然とするパピーに追い打ちを掛けるように、腹の上に跨って「くねくねいやんいやん♪」をするビーズ。漏らしたばかりで蒸れたズボンは、パピーの腹にじんわりと温かさを伝えてくる。
興奮で早まる呼気。血走っていつも以上に赤く染まった瞳。ビーズの口の端から、たらりと涎が垂れ落ち、パピーの胸元に小さな染みを作る。
『交尾しましょう!』
再度の誘いに、ようやくパピーは状況を把握して、顔を真っ赤に染め上げ叫んだ。
『するわけねえだろ! こっ…の、馬鹿犬っ!!』
『くぅ~ん♪ 馬鹿犬ちょうだいしました! これはもう双方合意とみて構いませんね!』
『構うわ! なんで俺がお前と交尾しなきゃならねえんだよ!』
『だってお母様ったら、いつもパピー様との惚気話ばかりしてたんですもの。私だってしたくなっちゃいます!』
『娘に何を語ってるんだよ、あの馬鹿狼っ!』
『ね、パピー様、右目をちょっとだけ! 犬に噛まれたと思って!』
『しかも目かよ! あと一つしか残ってねえんだぞ! つうか犬に噛まれたとか洒落になってねえだろ!』
『あ、大丈夫です。流石に噛み取るのは大変そうですから、指で抉り取りますよ?』
『そんな心配はしてねえよ!』
『きゃう~ん♪』
今にも指を伸ばしてきそうなビーズを振り落とし、パピーはベッドの外へと避難する。
ビーズはベッドに転がったまま、くねくねと不気味に動き、時折『くぅ~ん♪』と謎の喘ぎ声を上げている。なんというかもう、色々と駄目駄目だった。
パピーは助けを求めてジョアンナを見るが、返ってきた言葉は非情なもの。
『よろしいのでは?』
『お前っ、俺の目が無くなりそうなんだぞ!?』
『あら、いっそ両目を失ってしまえば、私がパピーを囲う大義名分が立ちますもの』
絶句するパピーに、ジョアンナは艶然と微笑みながら語り掛ける。
『大丈夫ですわ。目が見えずとも、パピーの世話は全て私が致します。食事も、お風呂も、排泄も、他も全部、どのようなことでも、私がして差し上げますわ』
ビーズの毒気に当てられたのか、あるいは素なのか、こちらも色々と駄目である。
『往生際が悪いですわよパピー。犬に噛まれたと思って、私に飼われてしまいなさい!』
『だから洒落にならねえって!』
その後、騒動は昼過ぎまで続いたが、どうにかパピーの右目は守られたまま収束を迎えた。
解決ではなく先送りではあったが、致し方在るまい。
「なあビーズ」
男は空を仰ぎ見たまま、傍らの少女に語りかけた。
「別に姪っ子扱いが嫌なら飼い犬でも構わねえよ。けど、それだって家族には違いない」
ぴくり、と俯いたビーズの肩が震えた。
「サリスは狼だ。俺が飼っていた狼だ」
パピーの中に、サリスと過ごした少年時代の様々な思い出が甦る。
「『飼う』って何だろうな。所有するわけじゃねえし、主従関係なんて大層なもんじゃねえ。じゃあ何だって言ったら、家族になるってことなんじゃねえか?」
言いながら今まで曖昧にしてきた想いに、カタチを与えていく。
「サリスは俺の家族だった。いや、今でもそうだ。あいつは俺の家族だ。ちょっと家出してるようだが、戻ってきたら説教して、それから飯を食わせてやる」
何が「会わせる顔が無い」だ。
とっとと面を見せて「ごめんなさい」と謝るのが筋ってもんだろう。
薄情者の家族を想って、パピーは森の方へと視線をやる。ここからは見えないが、あの深いマグナの森にサリスは居る。それが分かったのだから、今のところは許しておいてやろう。
それからパピーは傍らの少女に向き直った。
ビーズは視線を避けるかのように、軒下に生えたホールの葉をプチプチと毟っている。頭に手を乗せてやると、一瞬、体が強張った。だがすぐに意味のない除草作業を再開する。その強情な態度に、パピーの顔が綻んだ。
「お前が人だろうが犬だろうが狼だろうが、そんなことは関係ねえよ」
ボサボサの灰色髪を撫でながらパピーは言う。
「お前がサリスの子なら……いや、俺と一緒に暮らしていくのなら、お前は俺の家族だよ」
「……でも、それだと……家族だと、パピー様と交尾が出来ません」
葉を毟る手は止まった。だが俯いたまま、ビーズは呟くように漏らす。
パピーは苦笑すると、ビーズの髪を乱暴に掻き回す。
初めは無視を決め込んでいたビーズだったが、やがて耐えきれなくなったのだろう。嫌がるような言葉を発しながらも、喜びが隠しきれずに笑い出す。じゃれ合う内に、視線が交わる。僅かに潤んだ赤い瞳は、どこか期待に満ちていた。
「交尾しなきゃ駄目か? 家族としてやっていくのだって、それなりに楽しかっただろう?」
「でも私は馬鹿ですから、きっと迷惑を掛けます。とっとと交尾を済ませて、森に帰るべきです」
「お前の言う交尾をする方がよっぽど迷惑だよ。で、どうなんだ?」
ビーズはもはや喜びを隠そうともせず、けれど代わりに恥ずかしさも滲ませながら口元を緩める。
「パピー様の作って下さる料理が好きです。温かくて美味しくて……もっと食べたいです」
「色気より食い気かよ。やっぱりガキだな。で、どうなんだ?」
「お風呂に入れてもらうと気持ちいいです。髪の毛をわしゃわしゃしてもらうと漏らしちゃいそうです」
「風呂で漏らしたら叩き出すからな。で、どうなんだ?」
「一緒のお布団で寝ると、すごくふわふわした気持ちになるんです」
「勝手に入ってくるなって、いつも言ってるよな。で、どうなんだ」
「パピー様とお話しをしてると、すごく楽しいんです。一緒に居ると、すごく嬉しいんです」
「そうかよ。そいつは結構だ。で、どうなんだビーズ。お前はどうしたい?」
少女は男の胸元に抱き付き、鼻先を押し付ける。
「私、パピー様の家族になりたいです。私を飼ってくれますか?」
「ばーか。十日ばかり言うのが遅せえよ」
男が頭を撫でてやると、少女は「くぅん」と小さく鳴いた。
「さて、サボってねえで、もう一仕事するか。飼い犬の餌代も稼がねえといけねえしな」
立ち上がり、尻の汚れを払うパピー。
改めて家族となった少女に、優しく声を掛ける。
「お前も一緒に来るか?」
「わふん♪」
ビーズは喜びの声を上げたが、「あ、ですが……」と急に口籠もる。
どうしたのかと訝しむ男に、少女はもじもじと答える。
「その、ちょっと立てなくて……」
「あ? なんでだ?」
「えっと……その…………」
視線を彷徨わせる少女。
男が嫌な予感に襲われ、視線を少女の股へと移すと……
「……漏らしちゃいました。わふん♪」
「『わふん♪』じゃねえよ、この馬鹿犬がっっ!」
「きゃうんっ♪」




