第十一話 狐が運ぶもの
静が橋を去ったあと、藤継は一度も振り返らなかった。
振り返れば、あの人はまだそこにいる気がしてしまう。雨のなか、石欄へ何かを書きつけ、追ってくる影に向けて笑っていた。あの笑みは、藤継の知っている賀茂家の妹君のものではなかった。怖がっていないのではない。怖がったまま、何を失わせないかを選んだ人の顔だった。
薬師の老婆の家へ着くころには、東の空が白み始めていた。白夜は藤継の懐から出ず、濡れた毛を小さく震わせている。老婆は戸を開けるなり、二人の姿だけを見て目を細めた。
「静は来ないのかい」
藤継は答えられなかった。
老婆は問い直さなかった。火鉢のそばへ古い布を敷き、白夜のためにぬるい湯を置いた。それから藤継の掌に残る紙包みを見つけると、針仕事の手を止めた。
「これを海辺まで、と言われたんだね」
「読んではいけないそうです」
「なら、読まないことも仕事になる」
老婆の言葉は、静のものに少し似ていた。
包みの中の紙には、やはり文字がなかった。七つの輪だけが並んでいる。藤継には雨垂れの染みにしか見えないのに、火鉢の火が揺れるたび、輪の一つが薄く光った。白夜が紙へ鼻先を近づけ、かすかに鳴く。
「何か分かるのか」
白夜は首を振った。分かるのではない。匂いがするのだ、と言いたげだった。紙からは静の墨の匂い、定棟の書庫の乾いた木の匂い、そして人が名前を奪われる前に一度だけ抱く、冷たい不安の匂いがした。
老婆は台所の奥から、商人の印がついた油紙を二枚取り出した。
「川を下る荷船が、昼には伏見へ出る。米の帳面に紛れれば、役人は女の伝言より銭勘定を先に見る」
「けれど、途中で調べられたら」
「調べる者が皆、薄影の手先とは限らない。だから人のやり方を捨てるんじゃないよ。人のやり方で届くところまで、まず届ける」
それは静が何度も言っていたことだった。天目で見えたことを、天目の見えない者に押しつけない。証は、誰でも確かめられる形にして初めて証になる。
藤継は七つの輪の紙を、米問屋の帳面の最後の頁へ挟んだ。そこには荷の数、船頭の名、川止めの日取りがきちんと書かれている。誰が見てもただの帳面だ。けれど静の紙に触れた瞬間、帳面の余白に細い罫が走った。藤継は目をこすった。罫はもう消えている。
昼前、二人は荷船の船着き場へ向かった。
京の町は、昨夜の雨をなかったことにしようとしていた。魚屋は声を張り、寺の鐘はいつもどおり鳴り、御所の病も、狐の話も、買い物籠の前では遠い噂に見えた。だが辻ごとに、同じ顔の役人が立っているように藤継には感じられた。目が合うたび、胸の奥で誰かが囁く。
――紙を渡せ。これは危ないものだ。
藤継は足を止めた。
「どうしたの」
静の声だった。
声のした路地には、雨に濡れた女が立っていた。髪の結い方も、袖口のほつれも、静とよく似ている。けれど白夜が藤継の胸元で低く唸った。
女は笑みを崩さない。
「藤継。もういいの。紙をちょうだい」
藤継の手は帳面へ伸びかけた。静なら、たしかにそう言うかもしれない。危ない橋を渡らせず、自分が全部引き受ける人だからだ。
しかし白夜が、藤継の指へ小さな歯を立てた。痛みで我に返る。
静は命令しない。
「静さまなら、まず俺に聞く」
藤継は言った。「渡してもいいか、と」
女の顔から、ほんの一瞬だけ色が抜けた。瞳の奥に緑の光が浮かぶ。次の瞬間、女は通りかかった紙売りの姿になり、そのまた次には、荷車を引く老人の背中になっていた。
白夜が飛び出した。
狐の身体は小さい。相手を倒せるほどの爪もない。それでも白夜は、変わり続ける影の前へ立ち、尾を大きく膨らませた。影が藤継へ近づくたび、白夜は一歩も退かなかった。
「行け」
藤継は走った。
走りながら、なぜ静が自分たちを先に帰したのか、少しだけ分かった。守られることは、何もしないことではない。自分で選んだことを、誰かが勝手に消せないようにすることなのだ。
船着き場には、荷を積み終えた小舟が一艘残っていた。船頭は帳面を受け取り、面倒そうに頁をめくった。七つの輪に目を留めたときだけ、彼の眉がわずかに動いた。
「これは、どこの問屋だ」
藤継は息を整えた。
「名前のない問屋です。でも、届くべき人は分かるはずです」
船頭はしばらく藤継を見た。やがて帳面を荷の下へ押し込み、短く頷いた。
「海は遠い。だが川は、知っている」
小舟が離れる。白夜は、いつの間にか藤継の足元へ戻っていた。背中の毛には緑の火の焦げ跡が一本残っている。
藤継は狐を抱き上げた。
「静さまにも、届くかな」
白夜は答えなかった。ただ、遠ざかる船の白い帆を見ていた。その帆はまだ小さかったが、雨雲の切れ目から差した光を受け、まるで誰にも読めない紙片のように川の上を進んでいった。
二人が船着き場を離れようとしたとき、荷役の若者が藤継を呼び止めた。
「おい。おまえ、さっき変な女に追われていたろ」
藤継の肩が固くなる。
若者は声を潜めた。「同じ顔の役人が、船を二度見に来た。船頭は帳面を米俵の下へ隠したが、あれは一度渡せば終わりじゃない。途中の宿場にも、見張りはいるかもしれない」
「どうして、俺に教えるんです」
「知らないほうが眠れる。でも、知っていて黙るときの顔は、あんたよりよく知っている」
若者はそう言って、川岸の反対側を指した。そこには小さな渡し場があり、朝市へ向かう人々が魚籠や薪束を抱えていた。どの顔も、静のことも天目のことも知らない。だからこそ、薄影が差し出す恐怖に名前を与えなければ、いつか誰かの手で帳面を渡してしまうかもしれない。
藤継は白夜へ視線を落とした。
「追いかけるか」
白夜はすぐには頷かなかった。川を下る船を追えば、また捕まる危険がある。薬師の老婆のところへ戻れば、静の残した連絡網を守れる。どちらも、静が選んだ答えではない。白夜はしばらく川の匂いを嗅ぎ、やがて藤継の腕から飛び降りた。
小さな前脚で、石畳に一本の線を引く。
それから、川と反対の路地へ歩き出した。
「そっちは、帰る道だ」
藤継が言うと、白夜は振り返った。金色の瞳に、昨日までの怯えはなかった。
帰るために行くのだ、と藤継は理解した。
静は白夜に名を残した。名は鎖にもなるが、自分で選べば、戻る場所を示す灯にもなる。白夜は船を追わない。代わりに、老婆の家へ戻り、次に誰が紙を運ぶか、どの帳面なら検めを抜けるかを、自分の目で確かめるのだろう。
藤継は若者へ深く頭を下げた。
「助かりました」
「礼はいい。次に誰かが変な命令を持ってきたら、俺にも確かめさせろ」
その言葉を聞き、藤継は少しだけ笑った。静の余白は、もう紙を離れはじめている。
藤継は懐の筆を取り出し、自分の掌に小さな輪を一つ描いた。七つの印を真似るのではない。見知らぬ声に急かされたとき、誰のための命令かを問い返すための、忘れない印だった。白夜がそれを見て、鼻先で藤継の手に触れる。
「次は、私たちが選ぶ」
言葉ではなかったが、藤継にはそう聞こえた。
二人は急がず、けれど立ち止まらずに歩いた。静が残した道は、どこかへ連れ去るための一本道ではない。迷った者が、自分で戻れるように置かれた余白なのだと、藤継は朝の冷たい石畳を踏みながら覚えた。
白夜の後を追って歩き出すと、遠くで船の櫂が水を打つ音がした。七つの輪を挟んだ帳面は、川から海へ、海から流刑の船へ渡っていく。誰か一人の奇跡ではない。名もない人々が、それぞれに「渡してよいか」と問い直した、小さな選択の連なりだった。




