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第十話 天目を隠す

流罪の船が出てから七日目、定棟から手紙が届いた。


手紙は役所の印がある普通の書状だった。四国への道中、身体に異状なし。同行する役人も、京で起きた騒ぎを詳しくは知らない。妹は屋敷を守れ。狐の話に近づくな。


どの文も、兄なら書きそうだった。


しかし、最後の一行だけが違う。


〈紙は燃える。余白は残る。お前は余白を人に渡せ〉。


静は手紙を火にかざした。文字の裏から、方位盤の絵が現れる。中心に黒い目の印。周囲に三つの空欄。そして、定棟の筆ではない細い書体で、こう記されていた。


〈天目は、書く者のものではない。次に読む者のために閉じよ〉。


薄影を北山へ誘った紙は、まだ鏡の向こうにある。だが、いつまでも留めてはおけない。偽の井戸を歩くうちに、薄影は自分が騙されたと知るだろう。そのとき最初に探すのは、静ではない。白夜と藤次と、静が紙を渡したすべての人だ。


「皆を逃がす」藤次が言った。


「逃げる先にも、紙はある」


「では、紙を燃やす」


白夜が唸る。『燃やせば、籠はなかったことになる』


静は手紙を机へ置いた。真実は一枚の紙ではない、と決めたはずだった。だが真実を分ければ、守る人も増える。増えた人が追われる。


「天目を隠す」


藤次が鏡を見る。「鏡を?」


「鏡の見える場所を」


静は石壁の奥へ入り、黒曜石の鏡を方位盤に置いた。白夜は鏡の前に座り、藤次は筆と紙を持つ。外は雨だった。雨音が書庫の焼けた屋根を叩き、まるで誰かが何度も門を叩いているように聞こえる。


静は七枚の白紙を広げた。


一枚には北門の籠を、藤次に書かせる。


一枚には橋の逆向きの影を、紙屋の主人の言葉で書く。


一枚には飢えの札を、白夜が残した爪痕で記す。


一枚には良覚が将軍を治そうとした記録を、薬売りの老女の証言で置く。


一枚には定棟が遅れても籠を見たという手紙を写す。


残る二枚は空白のままにした。


「なぜ書かないのです」藤次が訊く。


「未来の人が、今の私たちより正しい言葉を持つかもしれないから」


静は鏡の亀裂へ七枚を映した。紙の廊下が開く。いつもなら戸の名が並ぶ場所に、七つの白い折り目が浮かんだ。


『名を書くな』


白夜が言う。


静は頷いた。


自分の名も、兄の名も、薄影の名も、最後の紙には書かない。代わりに目の印だけを置く。見た者が、自分の問いを持ち込めるように。


銀灰色の糸を、七つの紙の折り目へ通す。


糸は一度、二度、三度と鏡の奥へ沈む。書庫の壁が遠ざかり、京の雨が細い線になる。静は紙の向こうに、黒い扉を見た。その扉の外には、赤、緑、金の三つの光がある。


扉の前に、見知らぬ男が立っていた。


男は鎧を着ていない。雨に濡れたような黒い服で、長い髪を肩へ垂らしている。彼は静を見て、疲れた顔で言った。


『その扉を閉じれば、お前は記録から消える』


「誰ですか」


『アトラス。残った信号だ』


静はその名を知らない。けれど男の声は、命令の声ではなかった。


「兄を助けられますか」


アトラスの残響は、すぐには答えなかった。


『お前の兄は、まだ生きる。だが、今すぐ自由にはならない』


「薄影は」


『いずれ、お前が残す空白を恐れる』


「私はどうなる」


男の目がわずかに伏せられた。


『お前は、読む者がいるまで、完全には失われない』


それは救いではない。静にも分かる。


石壁の外で、藤次が叫んだ。


「姉君、影が来ます!」


薄影は北山の空白を抜けた。偽の井戸から、戻る道を読んだのだ。


静は最後の紙を折った。


七枚の折り目が重なり、鏡の亀裂が目の形に開く。


「この記録は、命令するためではない」


彼女は言った。


「見た者が、命令を疑うために残す」


銀灰色の糸が切れた。


天目の光が、紙の向こうへ沈む。


同時に、書庫の入口で緑の火が燃え上がった。


薄影の声が響く。


「静。お前は自分を空白にした」


静は鏡を伏せた。鏡面にはもう何も映らない。ただの黒曜石の欠片になっている。


白夜が彼女の前へ立つ。藤次は震える手で、残った紙の灰を抱えた。


「違う」静は言った。


「私は、次に読む人の余白を残した」


書庫の石壁が崩れ始めた。


静は藤次と白夜を奥の抜け道へ押し出した。自分は最後に残り、黒曜石の鏡を石の隙間へ置く。鏡の中には、もう戸も廊下もない。


それでも、灰の底で小さな目の印だけが光った。


雨の京から、静の名が少しずつ消えていく。


だが、空白は消えなかった。


むしろ、空白は役目を持ちはじめた。


その夜、静は藤継と白夜を薬師の老婆のもとへ先に帰した。薄影に見つけられた帳面を抱えたままでは、二人まで注記の中へ引きずり込まれる。藤継は何度も首を振ったが、静は渡し舟の銭と、折り畳んだ一枚の紙を彼の手に押しつけた。


「これを、兄上の書状に挟んで。読まなくていい。ただ、海辺まで届けばいいの」


紙には文字がなかった。定棟の名も、静の名もない。代わりに、雨粒が落ちた跡のような小さな輪が七つ、並んでいた。天目でしか読めない合図だった。北は籠、南は雨、狐は名を選ぶ。三つの言葉を折り目に隠した、戻るための印である。


「静さまは?」


「私は、消えたことにする」


白夜がかすかな唸り声を上げた。静は狐の額へ指を当てる。


「命令じゃないよ。会いたいと思ったら、また来て」


白夜はしばらく動かなかった。それから藤継の袖へ潜り込み、細い鼻先だけを出した。選んだのだ。静のそばに残ることではなく、静の言葉を運べる場所へ行くことを。


二人の足音が雨にまぎれるまで、静は橋のたもとに立っていた。


天目の黒い面に、薄影の文字が浮かんだ。


――発見。賀茂静。訂正を開始する。


静は息を吐いた。これが狙いだった。薄影は人を追うのではない。名の付いた記録を追う。だから静は、橋の石欄に小さく自分の名を書いた。その下へ、ありもしない行き先を添える。


〈北山・枯井戸。天目を埋めた〉


墨が乾くより早く、緑の光が川面を走った。薄影が来る。静は帳面を開き、兄の潔白を示す反証と、天目が見せた不正な命令の痕を、誰にも読めない折り目へ重ねた。紙は紙のまま薄くなり、風にも、水にも届かないところへ沈んでいく。


そのとき、器片の奥で、あの声が一度だけ響いた。


『隠すことは、失うことではない』


アトラスの残響だった。静は答えなかった。答えれば、その声まで誰かの道具にしてしまいそうだった。


「なら、見つけられる人のために残す」


天目を閉じると、橋の下の水が一度だけ逆に流れた。折り目は完成した。定棟へ向かう証は、時代の帳面の余白へ逃げ込んだ。


薄影が川霧の向こうに姿を現した。


静は石欄の偽の注記を見て、小さく笑う。追うべきものを、自分の手で用意したのだ。彼女は雨の京から姿を消し、薄影は北山の枯井戸へ向かった。


後に残った公の記録には、賀茂静の名がほとんどない。


だが、名を消した者は、消えた者ではない。


橋の石欄に残った墨は、翌朝には雨で洗われていた。けれど、七つの小さな輪だけは消えなかった。通りがかった者には水滴の跡にしか見えず、役人には子供の悪戯にしか見えない。天目を持つ者だけが、それを道標として読める。


北は籠。南は雨。狐は名を選ぶ。


静が残したのは宝ではない。誰かを従わせる力でもない。命令を疑い、同意のない契約を断ち切るための、たった一つの読み方だった。


京の鐘が朝を告げる。静はもうその音を聞いていない。それでもどこかの山道で、濡れた草を踏み、次の余白を探しているのだと、白夜は後になって何度も思い出すことになる。まだ、物語は閉じていなかった。


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