5. ライオネルの牙
乾いた風は故郷の香り。アデレイド・クレアチュールは、巻き上がる砂の上に立っていた。ヒュージコヨーテの毛皮のマントがはためく。琥珀の混じる銅色が一人の男を思い起こさせた。
「アデレイド・クレアチュール!」
呼ぶ声と同時に巨大な戦斧が地面を震わせる。アデレイドは促されるまま、地に突き刺さった戦斧の柄を取る。
「これよりお前が牙だ」
前ライオネルの牙――母、シェンハ・ライオネルの言葉に深く頷き、戦斧を掲げた。新しい牙の咆哮が大気を揺らす。応える声が荒野に響き渡る。地に伏していた者たちも拳を突き上げ、歓迎の意を示す。
前任の牙が背を向ける。一瞬細められた氷青の瞳は母のものだった。溢れる涙をそのままに、アデレイドは再び咆哮を上げた。
最低限の家具と装飾品。質素にも見える部屋のいたるところに繊細なデザインが施されていた。洗練された王の部屋に、二人だけ。
「実物はすごい迫力だな」
巨大戦斧を持ち帰った妻への一言目はそれだった。
「フェニクス公爵は優雅だものね?」
フェニクスのマントを撫でれば琥珀が光る。黄金のマントから現れたのは、意匠を凝らした大剣だった。無意識に触れた剣が熱を発する。
「すごいわ……」
「んっ……男の剣に気安く触れるとは」
わざとらしく声を上げたエランドールの胸に拳を下ろし、大剣を放す。「冗談だ」と笑い、再び眼前に差し出された剣に目を奪われる。剣そのものが生きているようだった。
「これ……!」
「そうだ。フェニクスの焔で真価を発揮する」
誇らしげなエランドールが剣を腰へと戻す。背に担いだままだった戦斧にエランドールが触れた。艶かしい手つきで斧を撫で回しながら、アデレイドに囁く。
「声を上げてもいいんだぞ?」
「ただの戦斧よ」
回転の力を利用し、肩から下ろす。柄を突き立てた床にはヒビが入った。
「『力こそ全て』。ライオネルらしいでしょ?」
「はは! 見事だ」
エランドールは手を叩き、新しいライオネルの牙を讃える。
「おめでとう、アデラ」
「ありがとう」
戦斧を背に戻し、アデレイドはエランドールの胸に飛び込む。夫は戦斧の先端を抜かりなく躱した。
大きな掌が金の髪を撫でる。
「ライオネルの牙よ、今度は何を求めるんだ?」
色香を帯びる琥珀をいなし、鍛え抜かれた男の体を締める。熱すぎる抱擁ののち決意を込めて口にする。
「武闘会を開くわ」
「武闘会? こんなに早く?」
疑問を抱くのは当然だった。アデレイドは武闘会で勝利を収め、ライオネルの牙を勝ち取ったばかりなのだから。
「ええ。次の牙が楽しみだわ」
アデレイドはからからと笑った。「あなたも出てみる?」。いつもなら返ってくるはずの冗談の代わりに沈黙が降りる。エランドールは優しく微笑み、気遣わしげに視線を揺らした。
「いいのか? ずっと欲しかった称号だぞ」
「称号なら得たわ」
蜜蝋を詰めた瞳がアデレイドを包む。自然な動作で、髪を耳へとかけられた。
「理由を聞いてもいいか?」
そのまま肩に触れた武骨な手をそっと握る。
「……権力の集中は独裁に繋がるわ」
「アデラ」
柔らかい呼び掛けで、落ちた視線が上がる。
「批判は真に受けるものではなく吟味すべきものだ。相応しい者が地位に就くのであれば何の問題もない」
「そうね」
アデレイドは目の前の男を見つめる。エランドールは公爵でありながら宰相となり、王の夫でもあった。――この言葉を最後に並べたことを怒るだろうか。アデレイドの頬が緩む。
「でも私はそんなに器用じゃないの。それに――」
言葉を区切り、ひらりと距離を取る。戦斧を丁寧に壁へと立て掛けた。
「私は今『クレアチュール』よ」
「またそれか」
呆れるエランドールに満面の笑みを返す。
「そして、ただのアデレイドでもある」
夫の元へと駆け、ぽかんと開いた唇を奪う。頼もしい公爵であり、宰相であり、唯一の夫。応えるだけでなく求めてくる愛しい男が悪戯に微笑む。
「俺もフェニクスを譲ろうか」
「いいわよ、あなたはそのままで」
「後任は常に準備しているからな」
エランドールは剣を下ろし、マントを脱いだ。
「本気だったの?」
「あぁ。俺は嘘はつかない」
非の打ち所のない真っ直ぐな瞳だった。不意に訂正だらけの求婚書を思い出し、アデレイドは声を上げて笑った。
ライオネルの武闘会はすぐに行われることとなった。異例の開催に上がった動揺の声を、ライオネルの牙は一笑に付する。
「『ライオネルは誰にでも門戸を開いている』。早いか遅いかだけの違いでしょう。欲しいと思う者だけ、来ればいい。――勝った者がライオネルだ!」
咆哮は地を揺らし、戦士たちを奮い立たせた。
手渡した戦斧の重みを永遠に忘れない。
そしてまた、フェニクスにも大きな変革が起きる。
長年公爵位に就いていたエランドール・フェニクスがその地位を退いたのだ。後任はドラコニー出身者だった。
「変革とはかくあるべし。そう思わないか?」
エランドールはしたり顔でアデレイドを迎えた。
――相応しい者。能力のみでなく、政治的な条件までも満たす逸材を既に見つけていたに違いない。アデレイドは笑った。
「リュニーが喜ぶわね」
「そう上手く行くかは新しい公爵次第だがな」
条約の原案はできていた。国交回復を宣言する日は近い。
フェニクスのマントを脱いだ男がソファに腰掛ける。グラスにシャンパンが注がれた。アデレイドは隣に座り、グラスを近づける。
琥珀色の瞳は遠くを見据えていた。
「神話の時代は終わった」
開け放したバルコニーから心地いい風が吹く。フェニクスを象徴する瞳がグラスの水面を反射して揺らめく。
「そうかしら。私たち自身が神話みたいなものでしょう?」
妖精王の話を蒸し返せば、エランドールは笑い飛ばす。
「いくら残っていると言っても、もう不死の力はない。つまり残り滓だろ?」
「あなた、灼かれるわよ」
組んだ足先を長い脚へぶつけると、膝をぴたりと寄せてくる。
「そんな気概ももうない」
「不死鳥が泣いてるわ」
「ははっ!」
エランドールはグラスを煽り、再び満たした。
「竜もいない。獅子は大地に眠ってる。――なら、これからは人の時代だ」
掲げられたグラスに自分のものを合わせる。響いた静かな音が、二人の始まりをよみがえらせる。
――覚悟しろ。
――受けて立つわ。
交わし合った好戦的な視線は、今や燃え盛る炎のようだった。いや、彼はずっと――。
「ありがとう、エラン」
「何の話だ?」
「……私を王でいさせてくれて」
エランドールは必ずアデレイドに選ばせてくれた。急かすこともなく。公爵として、宰相として、夫として。これ以上ないほど尽くしてくれた。
「君が王でいるだけだ」
「それでも、ありがとう」
額を合わせ、感謝の意を心から表する。視界の端で寄り添うグラスが月光に輝く。顔を上げると、見慣れた琥珀色が甘い色香を帯びていくのが分かる。
「なら、君をもらおうか」
返事も待たずに体が浮く。こんなに軽々とベッドに運ばれる王が存在するだろうか。押し倒されながら、笑みを噛み殺す。見上げたエランドールは、じっとアデレイドを見つめたまま動かなかった。挑発するように、指先で胸元をなぞる。
「どうするつもり?」
「人の営みをしよう」
眼前の瞳が燃え上がるのを見て、悪戯心が湧く。
「神も営むようだけど?」
「はは! 最近忙しかったろ。そろそろ褒美があってもいいと思わないか?」
――褒美。それが何を示すか分からないような少女ではない。
「私にとってもご褒美ね」
ぽろりと零れたアデレイドの言葉に、エランドールが静止する。脳内で繰り返し、一気に顔が熱くなる。
「忘れてちょうだい」
隠した顔はすぐに暴かれる。喜びに満ちた男の顔を見れば逆らう気も起きなかった。
「いや、忘れない。永遠に」
「重いわよ」
「知らなかったか?」
体重をかけてくる余裕綽々の夫に脚をかけ、くるりと体勢を逆転させる。
「これから教えてくれるんでしょ?」
見下ろした男が歓喜を浮かべ、喉を下げる。――この従順さはきっと今だけ。アデレイドは笑みを深めた。
そして、好戦的で魅力的な夫に、ご褒美のキスを落としていった。
(END)




