終わらぬ守護
曲がり角の先は、それまでの通路よりひと回り広い空間になっていた。
三人が足を止めたのは、そこへ踏み込む直前だった。
灯りを向けると、まず石床を埋めるように転がった魔物の死骸が浮かび上がる。裂かれたもの、頭を潰されたもの、壁際まで吹き飛ばされたもの。その間には、ここへ来る途中でも見た折れた槍や刃こぼれした剣がいくつも散っていた。
そして、その中心に一人の男が立っていた。
アラタより頭一つ以上は大きい巨漢だった。傷みきった僧衣は肩から腕にかけて裂け、乾いた血と新しい血が混じっている。
男は長い薙刀を両手に構え、正面から飛び込んできた獣型の魔物へ振り下ろした。
――ガァン!
刃が頭を叩き割り、その勢いのまま石床へ食い込む。切ったというより、武器の重さごと叩き潰したような一撃だった。
圭介が曲がり角の陰から顔だけを出す。
「……あれ、切ってるっていうより潰してません?」
「そう見えるのう」
アラタは男から目を離さなかった。
薙刀の刃には大きな欠けがあり、柄にもひびが走っている。男もそれに気づいたらしく、倒れた魔物から武器を引き抜いたところで一度だけ刃を見た。
「ぬう……これも持たぬか」
次の魔物が壁際を回り込んでくる。
男は迷わず薙刀を捨て、腰から太い鉄棒を抜いた。
「まだ持ってるんですか」
圭介の声に、志乃がすぐ指を口元へ当てる。
「静かに」
鉄棒が横薙ぎに走った。
壁際から飛びかかった魔物は空中でまともに受け、そのまま石壁へ叩きつけられる。鈍い衝撃と一緒に細かな石片が落ち、獣は壁の根元へ崩れた。
だが、男がそちらへ身体を向けたことで背中が空いた。
別の一頭が飛び出し、肩へ牙を食い込ませる。
「っ!」
志乃が反射的に弓を上げた。
アラタは腕を伸ばして制する。
男は顔をしかめたものの、噛みつかれた側へ身体を引かなかった。むしろ獣の首を左腕で抱え込み、そのまま自分ごと床へ倒すように叩きつける。
石床へ背を打った魔物が暴れたところへ、鉄棒が落ちた。
一撃で頭が沈む。
それでも動いたため、もう一度。
今度こそ獣の四肢から力が抜けた。
圭介の顔が引きつる。
「痛くないんですか、あの人」
「痛くないわけではなさそうじゃが」
肩からは血が流れている。それでも男は傷を確かめるより先に、空間の奥へ目を向けた。
残っていた魔物が一斉に低く身構えている。
男は血のついた鉄棒を握り直した。
「退け!」
低い怒声が石壁に響いた。
「拙僧の邪魔をするな!」
それを合図にしたように、魔物たちが別々の方向から飛びかかった。
正面から迫った一頭へ鉄棒を振り下ろした瞬間、鈍い破裂音がして棒が途中から折れる。
男は舌打ちすると、足元に転がっていた槍を拾った。
横から来た一頭の胸を突き、その身体を押し返して後続へぶつける。魔物同士がもつれた隙に槍を引き抜き、今度は反対から迫った獣の脇腹へ柄ごと叩きつけた。
穂先が大きく曲がる。
それを見るなり槍も捨て、すぐ近くの死骸のそばに落ちていた短い斧を拾い上げた。
圭介が呆然とする。
「武器、現地調達してません?」
「さっきまで落ちておった残骸も、ほとんどこやつのものかもしれんのう」
ここへ来る途中で見た傷が、ようやく一つにつながった。
切断。
打撃。
刺突。
ばらばらだった傷は、複数の戦士が残したものではない。
目の前の男が、武器を壊すたびに持ち替えながら一人で進んできたのだ。
やがて最後の魔物が石床へ倒れた。
空間に残ったのは、男の荒い呼吸と、どこかで滴る血の音だけだった。
三人はまだ入口側の曲がり角から動いていない。
男は肩で息をしながら周囲を見回し、やがてこちらを向いた。
志乃がすぐ弓を構え、圭介も槍先を前へ出す。
アラタだけは剣を下げたまま、男を見る。
鋭い視線がまずアラタの腰の剣へ落ち、次に圭介の槍、志乃の弓へ移った。
疲労に沈んでいたはずの顔から、別の色が浮かぶ。
敵意だった。
「……追いついたか」
アラタが眉を寄せる。
「何の話じゃ?」
返事はなかった。
男は先ほど捨てた薙刀まで戻ると、ひびの入った柄を拾い上げる。背後には魔物の死骸と石壁しかない。それでも男は、その何もない場所を庇うように立った。
「まだ来るか、頼朝の犬ども」
圭介の目が見開く。
志乃も息を止めた。
「頼朝……?」
次の瞬間、男が間合いを詰めた。
巨体から想像するより速い。
入口側にいた三人のうち、最前に立つアラタへ薙刀が振り下ろされる。アラタは鉄剣で受けたが、金属音と同時に腕へ重い衝撃が走った。
「ぬっ!」
ただ力任せに落としているのではない。
刃筋が通り、踏み込みから腰の回転まで、長い戦場を生きてきた者の動きだった。
アラタは正面から押し返さず、刃を外へ流す。
薙刀が石床を掠め、その横を抜ける。
「待て。わしらは――」
男は聞かない。
流された薙刀をそのまま返し、今度は横薙ぎに振るった。
アラタが身を沈めると、頭上を抜けた刃が後ろの石壁へぶつかり、火花が散った。
「志乃、圭介。下がれ」
二人は曲がり角側まで距離を取る。
「アラタさん!」
「手を出さんでよい!」
男は二人を追わなかった。
狙いはあくまで、自分と奥の壁との間に入ろうとするアラタだけらしい。
薙刀の長い間合いを生かし、男は一歩ずつ前へ出る。突きが胸元へ伸びるたび、アラタは半身でかわして柄を剣の腹で外へ流した。
空いた懐へ踏み込もうとしたところで、男の膝が跳ね上がる。
アラタは胸元へ受ける前に飛び退いた。
「ほう」
思わず声が漏れる。
男の眉が吊り上がった。
「何がおかしい」
「いや。見た目より器用じゃと思ってのう」
「愚弄するな!」
「褒めたんじゃが」
男がさらに踏み込み、今度は薙刀の石突まで使って間合いを潰してくる。
圭介が後ろで呟いた。
「会話できてるのか、これ……」
志乃は答えない。
弓は下げず、アラタと男の間に射線が開く瞬間だけを見ていた。
アラタは数合、受け流しながら男の足運びを見た。
重い。
速い。
今の身体で真正面から力比べを続けるのは得策ではない。
だが、それ以上に気になることがあった。
男は攻撃の合間に、何度も背後を確認している。
後ろにあるのは石壁と魔物の死骸だけだ。
それでもアラタが少しでも横へ回ろうとすると、男はすぐ身体をずらし、必ず自分がその間へ入る。
まるで、その先に誰かがいるように。
「そこを退け!」
男が吠えた。
「御曹司には指一本触れさせぬ!」
アラタの目が細くなる。
圭介が小声で言った。
「御曹司……って」
志乃も男を見る。
「もしかして……」
その声が届いたのか、男がさらに深く踏み込んだ。
傷んだ柄が大きく軋む。
アラタは振り下ろされた刃を外へ流し、そのまま男の手首を剣の柄で打った。
薙刀の先がわずかに落ちる。
そこで初めて懐へ入り、鉄剣の切っ先を喉元へ突きつけた。
「話を聞け。わしらはお主の敵では――」
ほんの一瞬、男の動きが止まる。
だが次に大きく開いた目には、降参する気配などなかった。
「黙れ!」
喉元に刃があるまま、自分から前へ出た。
アラタは反射的に剣を引く。
「なっ」
直後に男の肩が胸へぶつかり、体格差そのままの圧が押し寄せる。アラタは石床を数歩滑るように下がって距離を作った。
男の喉元には、薄く血が滲んでいる。
あと少し剣を引くのが遅ければ、自分から刃へ飛び込んでいた。
圭介の顔が青ざめた。
「今、自分から……」
「うむ」
普通なら止まる。
命を惜しむ者なら。
だが男は、自分が傷つくことより、その背後へ誰かを通すことを恐れている。
再び薙刀を構え、石壁の前へ立ちはだかった。
「ここは通さぬ」
肩から流れた血が僧衣を濡らし、喉にも浅い傷がある。
それでも退かない。
「御曹司は……拙僧が守る」
アラタは男の肩越しに奥を見る。
やはり、誰もいない。
「御曹司とやらは、どこにおる?」
その問いに、男の顔が歪んだ。
「しらばくれるか!」
「いや、本当に見えんのじゃ」
「貴様らが追ってきたのであろう!」
「だから何の話じゃ」
「鎌倉殿の命で!」
圭介が志乃を見る。
志乃も同じ顔をしていた。
歴史を詳しく知らなくても、そこまで聞けば思い当たる。
頼朝。
御曹司。
巨大な僧兵。
圭介が恐る恐る口を開いた。
「もしかして……弁慶?」
男の動きが、今度こそはっきり止まった。
「……なぜ」
圭介が一歩下がる。
「え」
「なぜ拙僧の名を知っている」
低い声が石壁へ響く。
圭介は答えに詰まった。
その沈黙が、男には肯定に見えたらしい。
殺気が一段強くなる。
「やはり追手か!」
「違いますって!」
「名まで調べておる者が何を言う!」
「いや、日本人なら結構知ってるっていうか!」
「にほんじん?」
話が通じない。
アラタはため息をついた。
「圭介。今は黙っておいた方がよさそうじゃ」
「ですよね!」
男――弁慶が薙刀を振り上げる。
アラタも剣を構え直した。
「武蔵坊弁慶、で合っておるか?」
「そうだ!」
「では弁慶。まず話を――」
「問答無用!」
「そうなるかのう……」
薙刀が落ちる。
アラタは今度は受けず、横へかわした。
刃が石床を砕く。
弁慶は止まらない。割れた床から薙刀を引き抜き、すぐ次の一撃へつなげる。
傷ついている。
疲れてもいる。
それでも戦い方は崩れず、長い得物の間合いを保ちながら、アラタを奥へ回り込ませない。
強い。
だが、アラタが見ていたのは武の巧さだけではなかった。
弁慶の視線。
足の向き。
身体の置き方。
どれだけ攻め込んでも、必ず三人と背後の石壁との間へ戻っていく。
いない者を守っている。
アラタは薙刀を受け流しながら、ようやく理解した。
「……そういうことか」
「何がだ!」
薙刀が唸る。
アラタは刃をかわし、懐へ潜り込んだ。
拳を腹へ叩き込むと、弁慶の巨体が初めて一歩下がる。
それでも、背後へは退かない。
踏ん張った場所は、先ほどから守り続けている石壁の前だった。
「アラタさん!」
圭介が叫ぶ。
アラタは弁慶から目を離さない。
「こやつは、わしらを見て戦っておらん」
志乃が眉を寄せる。
「どういう意味ですか?」
弁慶はもう一度立ち直り、誰もいない背後を庇うように薙刀を構えた。
「御曹司……お下がりくだされ」
その声だけが、不思議なほど穏やかだった。
魔物の血と壊れた武器に埋まった地下の空間で、弁慶だけが別の戦場を見ている。
アラタは剣を下げず、静かにその姿を見た。
弁慶の中では今も、あの戦が終わっていない。




