堕ちた聖女
その夜、林月は眠らなかった。
心が燃えていたからではない。
気が乱れていたわけでもない。
呼吸は完璧だった。修行も、寸分の穢れもない。
だが――安らぎを見つけられないものがあった。
名もない不確かさ。
いかなる経典にも記されていない空白。
夜明けとともに、彼女は聖女殿の内門弟子たちの前に姿を現した。
冠は身に着けていない。
権威を示す気配も纏っていない。
いつもの静謐さを保ちながら立っていたが……その佇まいには、わずかな違和感があった。
「一つ、疑問がある」
「最近の……ある交流についてだ」
四人の弟子たちは顔を見合わせた。
それだけで、すでに歴史的な出来事だった。
「お尋ねください、聖女様」
林月は胸の前で手を合わせた。
「男女が口づけを交わした場合……その後、何が起こるのだ?」
沈黙。
「ええええっ!?」
林月はわずかに眉を寄せる。
「儀礼的な接吻ではなかった。誓約もない。気の交換もない。しかし……長時間の唇の接触があった」
「聖女様……それは恋人同士しかしません」
「宗門に認められた伴侶か?」
「い、いえ。本当の恋人です」
「恋人とは何によって定義される?」
弟子たちは視線を交わす。
「キスして、また会いに来る人」
「あなたを考える人」
「あなたの前で緊張する人」
「そして……もっと求める人」
「もっと、とは?」
「もっと近づきたいという意味です。時には……舌を使うこともあります」
沈黙。
「舌……?」
林月はゆっくり頷いた。
理解はできなかった。
だが、記録はした。
「もし男が戻って来なかった場合……それは何を意味する?」
「怖がっている」
「馬鹿」
「どう接していいか分からない」
林月は動きを止めた。
「どう接していいか……分からない?」
「男性は、大切なものほど扱い方が分からなくなるものです」
林月はその情報を、宇宙法則のように処理した。
アドリアン・ヴァルモントは敗北した。
負傷した。
そして彼女に会いに来なかった。
結論。
逃げてはいない。
拒絶してもいない。
ただ――分からないだけ。
それは罪ではない。
技術的エラー。
その夜、アドリアンは宗門へ到着した。
敗北の記憶。
痛む肋骨。
そして義父からの“教育的制裁”。
修行は安定している。
体は違う。
石畳を進む途中――影が現れた。
「ついてきてください」
「忙しいんだが」
「聖女様がお待ちです」
システムがかすかに震えた。
アドリアンはため息をつき、進路を変えた。
庭園は異様に静かだった。
林月がそこにいた。
冠なし。
象徴なし。
ただ白い法衣のみ。
「……私を訪ねてこなかった」
責めはない。
純粋な疑問。
「“報酬”も受け取りに来なかった」
「報酬は丹薬だった。もう受け取った」
林月は近づく。
「もし、あなたが私の……恋人なら」
「なぜ、私に会いに来ないの?」
【!ディン!ディン!ディン!】
【システム:重大警告!】
【ヒロイン堕落進行中】
【運命が180度逸脱】
《拒絶しろ!
侮辱しろ!
逸脱すれば殺す!》
「資格を失った。大会に負けた」
林月は彼の頬に触れた。
「関係ない。あなたが私に口づけしたとき……道は何も言わなかった」
「皆が言っていた。キスした相手は戻ると」
「私は間違えていない。……なのに、なぜ来ない?」
「それが、私の初めてのキスだった」
「誰も、その後を教えてくれなかった」
「……私、間違えた?」
アドリアンは答えを持たなかった。
林月が踏み出す。
彼女は身を傾ける。
欲望ではない。
研究だった。
唇が触れる。
記憶した儀式を再現するように。
弟子たちの言葉を思い出しながら。
接触が深まる。
理解するため。
疑問を満たすため。
そして――どの説明にも存在しなかった現象が起こる。
舌。
乱れる呼吸。
微かな身体の震え。
【システム:緊急停止要求】
【そこに舌を入れるなと言っているだろう!!!】
すべてが未知。
アドリアンは瞬きをする。
もう一度。
システムが爆発した。
⚠️ 重大警告
⚠️ 感情変数が許容範囲外
⚠️ 分岐ツリー未登録イベント
⚠️ エラー:「算出不能な親密性」
メッセージが重なる。
矛盾する命令。
適用不能の罰。
世界が一瞬、自分を疑った。
林月はわずかに離れる。
瞳は燃えていない。
分析している。
「……これが、そうなのね」
彼女は満足するまで離さなかった。
体験は、説明と違う。
アドリアンは口を開く。
言い訳。
冗談。
戦略。
何も出ない。
そして最後に――
インターフェースが現れた。
赤くない。
命令でもない。
ただ一行。
【システム:】
……お前が嫌いだ。
罰はない。
任務もない。
修正もない。
ただ――沈黙。




