「魂滅の光、その先で」
それは、どこにでもある朝だった。
――その瞬間が訪れるまでは。
商業会館の上空は、病的な紫色に染まっていた。
魔教は招待状を送らない。
死を送る。
アドリアンが資金提供した防衛陣――高位等級の防御行列。契約条項と、異常なまでに精密な違約罰則で固められたそれらは、黒く腐食するエネルギーの侵食によって崩壊していった。
侵略ではない。
完全な破壊だった。
「英雄がいる場所には……必ず混沌がある」
彼は低く呟く。
「奴らは疫病だ」
中庭の中央で、蘇美蘭は絶望的な優雅さで戦っていた。
一つ一つの動きは正確。
一撃一撃は致命的。
それでも――彼女は押されていた。
彼女の前で、影の大司教が手を掲げる。
魂滅光線が凝縮されていく。
「メイラン、避けろォォ!!」
遠方からヴァルモント老が怒鳴った。
三体の魔将に足止めされていた。
彼女は――動かなかった。
そして、世界が凍りついた。
【!ディン!】
【メインミッション発動!】
システムのインターフェースが、アドリアンの視界に爆発的に展開する。
戦場の混乱も、悲鳴も、死も――完全に無視して。
【システム:「ディン!ディン!」】
【目標:魔教に加入せよ】
【副目標:混乱の最中に英雄・葉辰を暗殺せよ】
【報酬:この世界からの脱出保証+運命リセット】
【失敗ペナルティ:完全消滅】
アドリアンは瞬きをした。
任務を見る。
それから――戦場を見る。
葉辰は遠方にいた。
下級魔族に囲まれながらも、生存している。
まだ――物語の中心にいる存在だ。
そして――蘇美蘭。
蘇美蘭は、まさに光線の正面に立っていた。
「ああ……」
アドリアンは小さく呟いた。
システムが満足げに震える。
【システム:「いいぞ。やっと理解したか、馬鹿が。さっさと英雄を――」】
アドリアンは、一歩踏み出した。
「――いやだ」
その言葉は柔らかく。
疲れきっていた。
システムが止まる。
【システム:「命令に逆らうな」】
光線が落ちる。
アドリアンは、インターフェースを見るのをやめた。
走る。
英雄的ではない。
速くもない。
遅かった。
だが――十分だった。
彼は、割って入った。
魂滅光線が、真正面から彼を貫く。
――ドォォン!!
痛みは炎でも光でもなかった。
空虚だった。
アドリアンは後ろへ倒れ込む。
そして今回は――確かに地面に触れた。
ほんの一瞬だけ。
次の瞬間、蘇美蘭の腕が彼を抱き止める。
「いや……! アドリアン!! 何をしたの!?」
彼女の声が崩れる。
彼は咳き込んだ。
血ではない。
存在そのものが、薄れていた。
「俺は……望んだことをした……」
彼は囁く。
「俺は……選ぶ自由がある」
システムが――叫んだ。
文字通りに。
【エラー! エラー!】
【論理不能な選択を検出】
【ストーリー完全逸脱】
【ヴィランは女性サブNPCのために自己犠牲してはならない】
「俺にとって……」
アドリアンは震える手を持ち上げ、美蘭の頬に触れる。
「……お前は、ずっと……大切だった」
彼女は嗚咽する。
理解したくないまま。
「黙って! 喋らないで! 生きて!! 命令よ!!」
「……さよなら」
彼は微笑んだ。
紫の空を見上げる。
【!ディン!】
【システム:……】
【システム:物語制御失敗】
インターフェースが歪みながら点滅する。
【システム:「……こんなの、脚本にない」】
【システム:「……もう、消えろ」】
沈黙。
【シャットダウン中……】
アドリアンの最後の鼓動が、蘇美蘭の腕の中で止まった。
システムは消えた。
そして――その世界で初めて。
誰も、運命を書いていなかった。
空気は無菌だった。
救急の匂いでも、公共病棟の匂いでもない。
高級で、管理され、他人と病室を共有しなくて済む者のために設計された空間。
静かに循環する空調が、医療用アルコールの香りを柔らかく拡散していた。
人間の痕跡がない。
音もない。
慌ただしさもない。
ただ、目を疲れさせないよう調整された間接的な白い光だけがある。
完璧すぎた。
アドリアンは、深い夢から浮上したかのように、勢いよく目を開いた。
右手が反射的に胸へ向かう。
傷はない。
痛みもない。
あるのは――上質な綿の病衣の柔らかさと、許可も求めず動き続ける、規則正しい心臓の鼓動だけ。
体は軽かった。
空虚ではない。
弱くもない。
ただ――重荷が消えたような感覚。
「落ち着いてください、ヴァルモント様。お目覚めですね」
その声は焦っていない。
温かくもない。
ただ――確信に満ちていた。
アドリアンは顔を向ける。
部屋は広い。
個室。ほとんどスイートルームのようだった。
自動カーテンに覆われた大きな窓。
控えめな革張りのソファ。
医療用タブレットが置かれたサイドテーブル。
誰も頼んでいない生花。
完璧すぎる。
静かすぎる。
ベッドの傍に座っていた。
膝の上にカルテを置いて。
白衣は完璧。
外国式のカット。
偶然とは思えないほど整っている。
黒髪はきっちりとまとめられ。
姿勢は真っ直ぐ。
何一つ、乱れていない。
――ただ一つを除いて。
その瞳。
深い茶色。
注意深い。
落ち着かない。
何かを探し続け……
そして今、見つけたかのようだった。
「……メイラン?」
アドリアンの口から、無意識に漏れる。
名前が――勝手に出た。
彼女は一度だけ瞬きをした。
しかし、カルテがわずかに震えた。
「私の名前は蘇美蘭です」
彼女は答える。
「回復期間中、専属看護師として担当しております」
カルテを脇に置き、立ち上がる。
動きは専門的。
計算された正確さ。
まるで、入室前にすべての仕草を練習してきたかのように。
額に触れて体温を測る。
短い接触。
だが――アドリアンの背筋に、寒気が走った。
触れられたからではない。
――この接触を、以前にも経験したという確信のせいだった。
「三十六時間、昏睡状態でした」
彼女は続ける。
「交通事故。側面衝突です。身体の回復は予想以上でした」
彼を、ほんの一秒だけ長く見る。
「……運が良かったですね」
アドリアンは視線を外さない。
「そうは思わない」
彼女はわずかに眉を寄せる。
「……どういう意味ですか?」
「これが幸運なら……不運が何か、想像したくない」
美蘭は視線を心電モニターへ逸らした。
正常範囲内の数値を、わざわざ調整する。
「よくある反応です」
彼女は言う。
「重度の外傷後、多くの患者が鮮明な夢を見ます。終わりの感覚……閉幕の感覚を」
間が長すぎた。
「……中には、自分が死んだと語る方もいます」
再び彼を見る。
今度は、完全に職務的な仮面を保てていなかった。
「誰かの夢を見ましたか?」
質問が、壊れやすい物のように落ちる。
アドリアンは変化に気付いた。
「君の夢を見た」
彼は答える。
まるで、二人が共有した時間を、彼女だけが夢としてしか覚えていないかのように。
理由もなく、鼓動が早まる。
沈黙が落ちる。
短いが――鋭い。
美蘭は視線を下げた。
「……どんな夢でした?」
彼女は言う。
「純粋に好奇心と、神経学的影響の評価です」
「そうか」
アドリアンは小さく笑う。
「座れ。二人がどうやって恋に落ちたか、話してやる」
彼女は毛布を整えるふりをする。
指がわずかに震えた。
彼の話を、静かに聞いた。
だが――語られるほどに、映像が彼女の心に浮かび上がる。
まるで魂に刻まれていたかのように。
話が終わると、彼女は立ち上がる。
「お休みください」
彼女は言う。
「国際病棟の特別室です。許可なしに誰も入りません」
必要以上に少しだけ身を屈める。
声のトーンが半音下がる。
「本来、言うべきではありませんが……入院記録であなたの名前を見たとき……」
止まる。
深く息を吸う。
「……妙な感覚がしました」
アドリアンは目を逸らさない。
「それは運命だ」
その瞬間――彼女は、ほんの一秒だけ崩れた。
仮面に亀裂が入る。
すぐに姿勢を正す。
「……別の理由でしょう」
早すぎる口調で言う。
一歩下がる。
「後ほど、バイタルを確認に参ります」
扉の枠に手をかけたまま、立ち止まる。
振り向かない。
「ヴァルモント様……」
声は硬く。
冷たく。
防御的だった。
「もしまた夢を見るなら――」
小さな間。
「……不適切なことは、なさらないでください」
扉は、音もなく閉じた。




