ガラスの会議室
90階の会議室は、ガラスと鋼でできた聖域のようだった。
床から天井まで広がる窓から朝の光が差し込み、磨き上げられたテーブルの上に整然と並ぶホログラムを照らしている。そこに浮かぶのは――
ヴァレンハイム計画。
室内には十数名の役員がいたが、誰一人として口を開かない。
空気は張り詰め、沈黙そのものが重くのしかかっていた。
その中心に座っているのは、アドリアン・ヴァルモン。
テーブルの先端。
彼の指先がタッチパネルを静かに滑る。
ホログラムが止まり、拡大され、分解される。
その動きは冷静で、正確で――
怒鳴り声よりもはるかに恐ろしかった。
「北部セクターの冷却物流チェーンのミス」
彼は声を上げない。
だが、部屋の全員が息を止めた。
「修正は確認した。しかしバックアップシステムの起動に十二時間かかった」
一瞬、沈黙。
「十二時間、完全停止だ」
軽く指を叩く。
「原因分析のレポートを一時間以内に私のデスクへ」
岳張の肺から空気が抜けた。
心臓が激しく胸を打つ。
このプロジェクトの責任者は彼女だ。
彼女の未来。
両親の未来。
弟の未来。
すべてが、今この場にかかっている。
失敗は許されない。
絶対に。
アドリアンは別のデータを指した。
「アジア市場の吸収予測」
ホログラムが変化する。
「モデルが保守的すぎる。
説明してくれ。何を見落としている?」
岳は椅子から立ち上がった。
体が先に動いた。
思考よりも早く。
彼女はテーブルの先端へ歩き、ホログラムの前に立つ。
少し身を乗り出す。
気づかないうちに、アドリアンとの距離が近くなる。
「原材料価格の地域的ボラティリティです、ヴァルモン様」
声が少し速い。
少し大きい。
「直近三四半期の線形回帰モデルを使いましたが、先月の銅とリチウムの投機的急騰によって標準偏差が――」
説明が続く。
早口。
焦り。
アドリアンは黙って聞いている。
ただ、見ている。
その視線を感じ、岳はグラフを指そうと体を少し動かした。
その瞬間。
彼女の足が椅子の脚に引っかかった。
バランスが崩れる。
「っ…!」
小さな悲鳴。
次の瞬間。
――ドサッ。
岳張はそのまま、アドリアンの膝の上に落ちた。
世界が止まる。
音は何もない。
聞こえるのは、自分の心臓だけ。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
そして。
状況を理解した瞬間、血が頭に上った。
体温。
スーツのシルクの感触。
腰を支えるアドリアンの手。
アドリアンは動かなかった。
ほんの一瞬。
場違いで、完全に不適切な考えが頭をよぎる。
――柔らかい。
顔の距離は数センチ。
彼女の黒い瞳。
そこに浮かぶパニック。
屈辱。
震える唇。
ジャスミンの香り。
そして――
会議室のドアが静かに開いた。
張美蘭が入ってくる。
トレイを持って。
いつも通り優雅で落ち着いた姿。
だが、彼女の視線が止まる。
岳張。
青ざめた顔。
アドリアンの膝の上。
腰に置かれた手。
近すぎる距離。
トレイがわずかに震えた。
メイランは微笑む。
だが、その笑みは目に届いていない。
冷たい。
鋭い。
割れたガラスのような表情。
彼女の視線は岳へ。
そしてアドリアンへ。
そこにあるのは――
嫉妬ではない。
怒りでもない。
もっと恐ろしいもの。
約束。
宣告。
それは。
殺意の視線だった。




