ガラスと涙
宿屋は湿った木の匂いと、安い香辛料、そして疲労の匂いが混ざっていた。
豪華ではない。
だが壁はしっかりしているし、屋根も落ちそうにない。
ここ数週間の生活を考えれば――
それだけで贅沢だった。
宿主はカウンターの上に鍵を二つ置いた。
「部屋は二つ。頼まれた通りだ」
アドリアンが手を伸ばす。
しかし、その前に別の手が素早く鍵を掴んだ。
「ダメ」
ナラだった。
宿主は瞬きをした。
アドリアンはため息をつく。
「ナラ……」
「一人の部屋は嫌」
アドリアンはゆっくり彼女を見る。
「休む必要がある。俺もだ」
「一緒に休める」
宿主は咳払いをした。
必要もない帳簿を整理するふりをする。
アドリアンは声を落とした。
「自分がどんな危険を負ってるか分かってるのか?」
「分かってる」
ナラは即答した。
「だから、あなたといる方が安全」
アドリアンは首を振る。
「俺が言ってる危険は……それじゃない」
ナラは彼の顔を数秒見つめた。
そして小さく笑った。
「分かってる」
アドリアンは眉をひそめる。
「何が?」
彼女は首を傾けた。
野生の自然さを残した仕草。
「会った時から、私の体が欲しかったでしょ」
少し間を置いて、
「ケダモノ」
沈黙が落ちた。
宿主は何も分からないながらも察した。
これは――
恋人の喧嘩だ。
彼はグラス磨きに全神経を集中させた。
アドリアンは目を閉じ、心の中で十まで数えた。
何も言わず、鍵を一つ取る。
そのまま階段へ向かった。
ナラはついて行った。
部屋は小さかった。
ベッドが二つ。
低いテーブル。
細い窓。
ランプの光が揺れ、壁に影を踊らせる。
扉が閉まると、沈黙が重くなった。
ナラは立ったまま。
顔は赤い。
鼓動が速い。
手は服の端をいじっている。
アドリアンはコートを椅子に置いた。
彼女を見ないように。
「そっちで寝ろ」
窓側のベッドを指す。
ナラはうなずいた。
ランプはすぐ消えた。
夜は重く流れた。
抑えた呼吸。
時折鳴る木のきしみ。
アドリアンは――
一度も近づかなかった。
夜明け。
扉が勢いよく開く。
ナラは眉を寄せ、怒った顔で部屋を出た。
なぜ怒っているのか。
自分でも分からない。
安心するべきだ。
正しいことだった。
彼は境界線を守った。
それでも――
胸の奥で何かが燃えていた。
傷ついた誇り。
苛立ち。
そして、
認めたくない失望。
その後数日、アドリアンはあまり話さなかった。
街を歩き続けた。
市場。
交易路。
価格。
表情。
沈黙。
エルドリアは遅れた世界ではない。
ただ――
違う方向へ進化した世界。
だから危険だ。
そして、可能性に満ちている。
ナラは彼の後ろを歩いた。
最初は惰性で。
そして怒りで。
腕を組み、半歩後ろ。
彼が立ち止まれば、彼女は別のものを見るふりをする。
布。
果物。
安物の護符。
ある日、アドリアンが言った。
「ついてこなくていい」
「ついてない」
「三時間ずっとだ」
ナラは鼻を鳴らした。
「誰かが見張らないと、臓器売りそう」
アドリアンは短く笑った。
その後――
アイデアが生まれた。
だが全部、同じ場所で止まる。
金。
その瞬間、彼は笑った。
ナラはそれを見た。
そして悟った。
それは――
モンスターより危険な笑みだと。




