テンプレ批判をする人 ②
次に、平均レベルの話
Q.テンプレと非テンプレで、テンプレの方が平均レベルが低いと感じるのですが
A.残酷なことを言うと、錯覚だと思います。
何故このようなことを言うかというと、作品の上手さとはとても多様性があるからというのが一つ。そしてもう一つに、人はランキングで作品群を見ているので、ランキングにのる数が多いと一部の傑作以外も目立つ可能性が高い、ということがあげられる。
おそらく、こういう事をおっしゃる人の言うところの上手さとは「日本語が正確か」「物語の中で整合性がとれているか」「設定が緻密でオリジナリティーがあるか」などではないだろうか。とりあえずはこのあたりを説明するけど、他にもあれば是非感想欄にお気軽にどうぞ。
さて、日本語が正確であることのメリットとは、「物語の内容が正確に伝わる」「読んでいて違和感がない」ということだと思っている。そしてテンプレと言われる作品群が、「日本語が多少不自然なものも人気になりやすい」とされているのは「似た要素を持つ物語が多いので、理解が早い」からだ。
つまり、
・人気がないだけで、非テンプレで日本語が無茶苦茶な作品もたくさんなろうには投稿されている。
・わかりやすい文章、理屈、構造や展開などを使う分には、日本語の正確さはテンプレと非テンプレを隔てる致命的な壁ではない。
と言いたい。
加えて、残酷なことに
・日本語が正確であることが、物語が面白いと感じる前提条件や必須条件ではない
ということでもある。
もちろん、「知っていて崩す」のと「知らずに崩れる」は印象が変わるし、正確に言葉を扱えるにこしたことはない。
次に、物語の中で整合性がとれているか。
これは二つ
「多くの人は細かいことは物語が面白ければ気にならない」
「長ければ長いほど矛盾しやすいけど、なろうは長い方が有利」
さて、面白ければ気にならない、というのは「テンプレのレベルが低い」と思っている方は最初から「投稿作品の技術を評価していこう」と思って読んでいる訳では無いだろう。いくつか読んでみて「うわ。面白くない」ってなって「ここもダメ、あれはミス」って気になっているのではないか。好きなものと嫌いなものでは嫌いなものの悪い所の方が目につくものだ。
次に長い方が整合性をとれなくなる、というのはそこまで違和感はないだろう。
短い方が細部の見直しはしやすいし、詰め込める設定や展開に限界がある。そして長い方が有利、も累計ランキングも見ていただければわかりやすい。なろうのランキングは「期間内のポイント」と「累計ポイント」なので、新着に載って読まれる機会が多いほど有利である。
あと、やっぱりランキングにのぼりにくいだけで、中身がいい加減な非テンプレもたくさんある。
そして「設定が緻密でオリジナリティーがあるかどうか」はこれは前回述べたので割愛。
少し追加しておくと、オリジナリティーのある緻密な世界観、は面白いと思う人はたくさんいるが、面白いことの必須条件ではない。創作物における、様々な種類の魅力のひとつにすぎない。これをもってレベルが低い、ということそのものが、「魅力の多様性の否定」となってしまう。
Q.現実逃避的な話ばかり下品では?
A.テンプレには俺TUEEEEやチート、ハーレム、スローライフ系以外にもありますし、それに下品ということの善し悪し議論そのものが創作において不毛かと。
前回述べたように、私はテンプレを「題材・設定」「展開・構造」「テーマ・コンセプト」「無料投稿サイトの性質」の四つに分類している。
この中で、下品だ! と批判されるのは「コンセプト」の部分にあたる。そして私は、娯楽のうち「作りやすくて、より多くの人間に好まれる」ものは「より本能的な欲望を満たすもの」「より理屈で説明できるもの」だと思っている。
すごくわかりやすいものとしては、ギャンブル、タバコ、酒、食事、性行為である。後ろふたつは三大欲求なので省くが、ギャンブルやタバコ、酒はいずれも中毒性がある。その中毒性とはもちろん個人差があるが、医学的、心理的な形で解明されているように再現性が高い。
理屈で説明できないものは偶然生まれることはあっても、二度、三度と別の人間が作ることは叶わない。私たちがよく知る、美術の教科書にのるような芸術作品の数々は、歴史に名を残す天才たちによって作られ、二度と同じ才能の持ち主は現れないであろう。つまりそういった「唯一無二の個性」に等しいものを「真似して、再現して評価されよう」としても上手くいくはずがない。
それに対して、先にあげた娯楽の数々は「誰が作っても同じ魅力を用意できる」という点で理論化されている。
創作物における「王道」「テンプレ」というものは、すなわち「理論化された魅力とそれを作るための技術、方法論」である、と言える。
そして先に述べたように、より多くの人に通じる魅力の理屈はつまり、生物の、人間の、日本人の、とターゲットを搾った上で共通点に対してアプローチしているわけだ。私たちは生物の中で人間を特別視するにあたって、理性を持ち出したと言うように、生物的欲求に従う本能を下品とする文化がある。容姿や能力だけ見て繁殖相手を選ぶことを嫌う人がいるように。
小説家になろうにおける、一部の作品群がテーマとする「自己中心的」「利己」「生物的欲求に忠実な生活」というのは、ある種そうした文化に逆行している。嫌う感覚そのものは理解できなくもないが、それをもって「娯楽として不当である」「もっと評価されるべきものがある」とはあまり言い難いのではないだろうか。
さて、こうしたものがネットで人気になりやすいのはひとえに先程述べた「生物的欲求に忠実なことを嫌う文化がある」からである。
漫画や小説を買って読んだり、ドラマや映画を見ようとすると「現実の自分を晒す」必要がある。本屋で買う時に顔を見られ、知り合いに会うかもしれない。あるいは家族や友人に持っている本やつけているテレビを見られるかもしれない。
そうした文化の中で、「軽蔑されるかもしれない作品群を楽しむ」ことに無意識のうちにブレーキがかかっていた可能性がある。AVを見たり、風俗にいくことを公的な場や異性に対して大っぴらにしないようなものである。
故に、そうした欲求に対する罪悪感を和らげ、正当化する物語は好まれる。純愛のハッピーエンドな恋愛物語を「自分にとって魅力的な相手と結ばれる」ことを「納得のいくだけの理由付けで正当化する物語」と言い換えるとどうか。
なろうではそれを、正当化しないことで一つの魅力としている部分がある。みんなが本当は思っていることを言ってくれた、と。
つまり強い魅力がないと、複数や魅力的な人間に好まれてはいけない、と無意識のうちに思っていたとしよう。それを「それはそれとして愛されたいのは普通じゃないか」「物語の中でぐらい叶ってもいいじゃないか」と。
つまり、多様な形で進化する魅力のひとつにすぎず、自由であるべき創作の世界においてそこに善し悪しはない。というのが私の意見になる。
あと、なろうでは「設定・題材」だけ流行のものを利用し、無料投稿サイトに向けて読みやすくした「主人公が人生ハードモードの物語」も結構ある。
幼なじみ恋人がいけ好かない男に惚れたり、信じていた友人に裏切られたり、生意気なクソガキに得られるはずのものを奪われたり、目の前で自分を庇って人が死んだり。
なので「生物的欲求に忠実でないと人気が出ない」というのも厳密には間違いである。性行為も美食もないままに、惚れた、惚れられた女性のために何度も死に戻る作品だってアニメ化して大人気なわけだし。




