窓の外の木
あの夏、僕は竹藪たけやぶで竹を取っていた。
通っていた大学には植物学系の専攻コースがあったから、校内には竹林ちくりんがあって、いいようにしてよかった(今思い返すと本当かな?)なので、藪やぶの中にナタを持って分け入り、竹を2~3本切って、流しそうめんを。流れてくるチョコボールとかグミとかを避けながら、校舎の玄関の階段を利用して高く組んで上から流れてくるそうめんを食べていた、自転車旅行サークルの仲間たちと、夜は校舎の屋上に上がって花火を見た。舞浜のディズニーリゾートの方や、神宮外苑の方や、江戸川の方や、大体いつもいろんな方角で同日多発的に催もよおされていた。すっかり陽も落ちて、涼風の吹く照明の無い屋上では半袖の男女の影がゆらゆらと揺れていた。なんて楽しそうな大学生活を。こうやって文字に下ろすと。そう思いきや。ちがった。全然違った。
最近、とうの昔に僕はもう死んでしまって今は自意識が暴走しているだけなんじゃないか? と思うことがよくある。特に幸せの絶頂にいるとかではない、何か最近いろんな物事が、いいこともわるいこともどうでもいいことも、すべて、赤信号で引っかからないくらい都合よく起こりすぎていると感じる。不安なのだろうか?
昔から本を読んでも全く頭に入ってこなかったのは、幼い頃「絵本をもっと読みたいよ」と漠然と思いながらも、叶え方が分からなかったからかもしれない。二十歳を超えても映画を観ても登場人物が誰が誰かわからない。三人以上の会話ではすぐに話の内容についていけない。もし自分が巷ちまたによくいる図書館に入いり浸びたってそこの本を読み尽くすような、文学全集を読むような子どもであったならば、こうはならなかっただろうと思うし、学生コンパで知らない人たちの会話の渦に巻き込まれることを、毎回とても気持ち悪く感じるようにもならなかったんじゃないか? 僕はまるで、頭の中に勝手に何個ものタネが植え付けられてそれが勝手に育って蔦つたが伸びていくように感じていた。
Q. 今までで何か死んでしまうようなことをしでかしたことがありますか? A. それについては、あまり言いたくないが、答えはイエス。岐阜県を自転車旅行中のことだった。台風明けに、渓谷沿いの道を走っている時のことだった。河川の水量増加のため封鎖されていたつり橋の柵をまたいで、川の流れを見たくなったのだ。その時の川の下の濁流の流れ。今まで見たことのないくらいの量の水、そして速さ。あれに飲み込まれていたら自分が死んだかどうかすらも分からないだろう。あの橋が流されていたのか? それはノーであると思うのだが、1ミリもそうでないとは完全には言い切れないだろう。だって死んだと感じる暇さえなさそうだったから。あの川の激しさを思い出してしまうと、いつの間にか頭の中が恐怖で満たされ、時間が数十分たっていることがある。
大学を卒業したら自転車旅行はきっぱりとやめてしまった。人は本来、一人でもやりたいことでないとやってる意味はない。そう思って、旅行道具は全部あげるか捨てるかしてしまった。
僕は、本当は好きな音楽や本の話をしたかった。
でも、周りにそんな人を見つけられなかった。そして、本当は東京の街を歩いてみたかったのだ。でも、勇気がなかった。やり方も分からなかった。はっきりと思い浮かびもしなかった。それは多分、怒られるのが怖いからと苦手な国語から逃げ、理数系の勉強しかしていなかったからだと思う。だから、本当にやりたいことなど分からなかった。自分自身のことも、自分以外の人という存在も。その存在には物語や意思を持つということも。この世界は物だけではなく言葉でも出来ているということも。この世界は目に見えないものでもできているということを。
* * *
新聞から顔を上げると、窓の外には大木たいぼくが見えた。ここは3階だから、普段ならはるか頭上にある細い枝々が、見上げずとも目と同じ高さにある。先月までは朝陽で黄金に輝いていた葉も全て落ちて、背景を曇り空グレー、一面として、毛細血管みたいになった全ての枝に目の焦点を合わせていくと、新聞を読んで散らばった頭の中の色んな情報が、整理される感覚に陥って、大木たいぼくから目が離せなくなる。まるでステンドグラスや彫刻が施された大聖堂に入ったときのような、まるで仏教の曼荼羅図を見たときのような、まるで紋様柄のペルシャ絨毯を見たときのような。
夏に台風が来て、大きな枝が一本折れて地面に落ちず、枝に絡まってずっとそのままだった。あれぐらい大きな枝が折れたら重さのバランスが変わり、今後他の枝の大きさや成長の向きに影響するだろう。人の使える時間には限りがあるから、世の中にあるエンターテイメントにしろなににしろ、それらはある意味人間の時間を奪い合っていると言えるかもしれない。例えば、あの折れた枝が超大御所の小説家だとする。すると、その枝葉は、その作家から影響を受けた人、そしてさらにその枝葉はさらにその影響を受けた人、そのさらに末端の末端の毛みたいな枝、それが僕なのだろう。いきなり大きな枝になることはできないし後釜はたくさん控えている。
「自分には愛の絆を感じれる人はいただろうか?」
ふと頭に浮かんだそれは、言葉で木の枝のように繋がりあっている人、誰かの存在のことだ。
思いつかない…。
それはまるで枝だけで存在しているかのようだ。
はたしてそんなことが可能なのだろうか?
そんなことが長い時間可能なのだろうか?
考えずとも分かりそうなことだ。
だから、いずれ戻るだろう。
いや、感じるだろう。
そうしたら創作活動は辞めるかもしれないな。
今はそのための創作活動だ。
それでいい。
一番やりたいことであり出来ることだ。




