26 迷い子の陽菜と鋼鉄のレーション・アコード
異世界の最前線へと繋がる落とし穴は、店の裏庭で陽菜が新しいハーブを摘んでいた時に現れた。空間の揺らぎ――足元にぽっかりと穴が開き、陽菜は真っ逆さまに異世界へ転落してしまった。昨夜の魔導書記官シラスが残した残留魔力の影響か、あるいはここしばらく、異世界からの来訪者を迎え入れ過ぎたせいだろうか?
気がつくと――そこは硝煙の匂いと泥に塗れた塹壕の中だった。映画の世界でしか見たことのない戦場の最前線のような光景である。裏庭でハーブを摘んでいた陽菜からするとわけがわからない状況だった。
「えっ、ここどこ? お父さん! お母さん! お姉ちゃん――は今いらないかな。絶対に文句言われるだけだもんね」
パニックになる陽菜の首を無骨な籠手がぐいっと掴み地面に押し伏せた。
「騒ぐな。半径50メートル以内に敵方の弓兵が潜伏している可能性が高い。貴様、所属と階級、及びこの危険地帯に非武装で侵入した経緯を述べよ」
そこにいたのは傷だらけの甲冑に身を包み、鋭い眼光を放つ青年騎士ガンズだった。彼は王国一の戦術家と称されながらも、日常生活のすべてを軍規で判断する、極度の戦闘狂だったのである。
「所属? えーっと私は女子大生で名前は四和陽菜です」
「ジョシダイセイ――特殊工作員のコードネームか? ならば詳細を聞くわけにはいかないな」
「たぶんだけど重要なコードネームに女子大生を使っている国は滅亡するかな?」
「俺の苦手な分野だが悪魔や亡霊を連想させて敵国の自滅を狙うのは常套手段だからな。しかしジョシダイセイという名の脅威は記憶にない。わかりやすく俺に説明できるか?」
「だから私そのものだよ?」
ちょこちょこ動きながら陽菜は女子大生感をアピールした。
「最前線に非武装で参戦する若い女をそう呼ぶのか? 確かに怖いな。ともかく危険度が増せば増すほど見逃すわけにはいかない。お前は一体何者なんだ?」
「だから女子大生の四和陽菜だよ――って、まさか女子高生の私をご希望でした?」
「別のコードネームを所持しているのか?」
「いやいやいや、そもそもコードネーム持ってないからね」
とにかく話が噛み合わない。半分くらい陽菜が悪いんだけどね。しかしガンズは怪訝そうに尋ねてくる。
「ならばせめて所属国は話せ」
「うーん、あのさ、アステリア王国ってわかるかな? もし敵対国とかだったら忘れてほしいんだけど、もし知っているならエルザさんって騎士知らない?」
「エルザ殿の知り合いなのか?」
途端にガンズの表情が変わった。
「もしかして敵国でしたか?」
「いや、エルザ殿は俺の上官だ。詳しくは聞かないが俺は君を助ける義務があるらしい」
「いや、聞いて! 私の話をもっと聞いて!」
「それはできない。下士官の俺にできるのは君を安全な場所まで護衛することだけだ」
ガンズは和風の装備を整えて表情を切り替える。同年代の学生とは異なる覇気と迫力に陽菜は気圧された。この人は発言の一切に嘘がなく、実現させることだけを考えている。
「心配するな。部隊の殿とはいえ仲間はいる」
「どこに? 心の中にとかはやめてよね」
「当然だ、優秀な狙撃手が二人いる。俺が突進して弓兵からの攻撃を受ければ、その場所を割り出して弓兵を仕留めてくれるさ」
「なんか聞いたことあるんだけど、その殿って役目、エルザさんと一緒だったりする?」
くくくっとガンズは頬を緩ませる。
「エルザ殿と俺を比べてはいけない。あの方に背中を預けた重鎮や騎士たちは一度も後ろを振り返らずに帰還するという。敗北さえ戦略的撤退に変えてしまう偉大な騎士なのだ」
「そういや源斎おじいちゃんも似たようなこと言ってたかな。あいつは攻めるより誰かを守ることで真価を発揮する的なやつ?」
「源斎殿まで知っているのか? コードネーム――ジョシダイセイ、俺の無知を許してくれ」
「いやいやいや、女子大生なんてこの世界じゃ私くらいしかいないし知らなくて当然だよ」
「この世界にたった一人だけだと! 小国を含めれば王ですら百を超える存在なのだぞ。唯一無二などありえない――しかしエルザ殿や源斎殿と面識があるのも事実。理解の範疇を完全に超えている」
ぱちくりと陽菜は瞳を瞬かせる。
「えーとね、なにか勘違いしてるんじゃないかな? この世界には一人しかいないというだけで、元の世界に戻れば、そこら辺に転がっているような存在なんですけど?」
「ここに敵軍の諜報員など存在しない。無理に下士官を演じるような真似は必要ない。俺の任務は上官の元まで貴様を無事に届けるだけだ」
ガンズは再び陽菜の肩に手を置いて語る。
「仲間が敵を制圧するまで五分はかかる。その間、なにがあっても大人しくしていろ」
「じっとしていればいいの?」
「陽動が上手くいけばそれで問題ない」
「失敗したら?」
「偶然戦場に巻き込まれた民間人を装って投降しろ。魔物に狙われるよりは遥かに安全だ」
「嘘でしょう?」
突如、ぎゅるるるるると陽菜の腹が鳴った。
「任務遂行に必要な合図なのかもしれないが、戦場でいきなり音を出す手段は感心しないな」
「いや、ただお腹が空いてるだけだよ? というか、めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど!」
陽菜が泣きそうになりながら訴えるとガンズは真剣な顔で顎を擦った。
「了解した。エネルギー切れは戦場における最大の罪だ。これより貴様の兵站を支給する」
ガンズは腰のポーチからカチカチに固まった茶色の塊を取り出した。
「これは王国軍正式採用の戦闘糧食『アイアン・ブレッド』だ。熱量は十分、賞味期限は二十年。奥歯を三本折る覚悟で咀嚼しろ」
「うう、硬いよお……味もしないし……エルザさんがうちを贔屓にしてくれるのもわかるよ」
石のようなパンを前に陽菜はいつもの四和家の味が恋しくなり、ついに我慢できず自身のリュックの中を探り始めた。幸い、中には料理の試作に使っていた月晶石の塩と、庭のハーブ、そして大吾が持たせてくれた自家製ベーコンの端切れが入っていた。
「少しは時間を作れる?」
「弓兵は粘り強く待つ連中だ。こちらが動かなければ増援の到着を待つだろう」
「ガンズさん、これを食べよう! 美味しいものを食べなきゃ勝てる戦いも勝てないよ!」
陽菜は放置されていたヘルメットを鍋代わりに、アルミ紙を敷いて手際よく火を起こした。陽菜が調理する間、ガンズは周辺警戒任務を継続する。真顔になり「煮沸完了まで180秒、その間、髪の毛一本たりとも敵に触れさせはせん」と背中合わせで文字通り鉄壁の守りを見せる。
弓なりに飛来する矢を無造作に手で叩き落としながら「こんな無駄撃ちは狙撃地点を知らせるようなものだ。新兵の焦りならいいのだが――なにかの合図なら厄介だな」と警戒を強める。
思案するガンズの横で陽菜は料理を完成させた。仕上げに煮え滾るスープの中に月晶石の塩を一振りする。
「できた! 陽菜の『即席・ひだまりスープ』だよ。食べてみて!」
ガンズは警戒を解かず周囲を見渡しつつスープを一口飲む。その瞬間、感情が激しく揺れ動いた。彼は孤児として戦場で拾われ、剣の振り方より先に効率的な栄養摂取を叩き込まれた。仲間が隣で倒れても冷たいパンを胃に流し込む。特に幼少期は喜びも悲しみも戦闘の邪魔になるノイズとして切り捨てることを強制されてきた。それが生きることだと信じていたのである。しかし今、陽菜が作ったスープのハーブの清涼感とベーコンの脂の甘みが、ただ生き長らえていただけの身体を内側から震わせていた。
「このスープには死を間近にした兵士の恐怖や苦痛を取り除く薬物でも投与されているのか?」
「されてないから!」
「しかしこのスープの摂取により、俺の推定戦闘能力は確実に向上している。これは美味いなどという生温いものではない。戦士の魂を再起動させる高純度な燃料だ」
「もうもうもうっ! 素直に美味しいって言えばいいんだよ!」
「確かに戦場でアイアン・ブレッドより上手い食事はしたことがないな」
「あんな糞不味いパンと比べないで!」
「我が国の戦闘糧食は美味いと評判なのだが? 以前、捕虜に与えたら感動していたぞ」
「あれより不味いものを食べてたら戦闘どころじゃないよ!」
「いや、貴様は勘違いしているぞ。本来、戦闘糧食はワンパックで二十四時間活動可能な栄養が含まれている。殿を務めるに当たってあれは余分に頂いた食料なのだ。つまりバターとジャムが付属していない」
「絶対バターとジャムだけじゃどうにもならないって!」
ガンズは真剣な眼差しで陽菜を見つめる。
「陽菜、貴様をこのまま戦場の調理主任として徴用したい。報酬として銀貨十枚と最新式の防刃チョッキを支給する」
「いらないよ! 私は家に帰りたいの!」
「しかし俺にはエルザ殿の特殊工作員を無事に陣営まで送り届ける義務があるのだ」
「というか、ガンズさん一人なら簡単にこの戦況を抜け出せるの?」
「当然だ。弓兵の大半が新兵だと確認できたからな。俺一人なら三時間後に仲間の狙撃手を撤退させ、その後、五時間ほど敵を足止めしてから消えるだけだ」
ガンズは鏡を利用して死角から敵の所在を監視していた。陽菜は同年代の青年に感心してしまう。冗談とも思える会話中でも決して油断をしないのだ。
「私がいると迷惑的なやつなんだ?」
「当然だろう。素人を戦場から無事に帰還させるのは困難な任務なのだ」
「ちょっと待って、それだと仲間の狙撃手も危険に晒されるってこと?」
「状況が変わったことはすでに伝えてある。あいつらなら最善の行動を選択するはずだ」
「どうやって伝えたの?」
「鏡だ。光を利用した暗号は珍しくない」
殿とは時間を稼ぐのが主な任務となる。つまりガンズの行動には何一つ無駄がない。
「ガンズさん、あっちに光が見えるよ! あれ、エルザさんの騎士団の紋章じゃない?」
陽菜を制し先行したガンズは泥濘の塹壕を抜け、遠くの丘に翻る白銀の旗を確かに見つけた。
「アステリア家直属の第三駐屯地の連中だな。だが、あそこへ至る最短ルートは現在、敵方魔導士隊の戦火に晒されている。正直なところ弓兵より厄介だ。陽菜だったな? 俺の背中に密着しろ。これより全速力で強行突破を行う」
ガンズは陽菜を背負うと迷いなく砲火の渦中へと飛び込む。魔法の爆ぜる轟音と降り注ぐ矢の雨。ガンズはそれらを最小限の動きで、文字通り紙一重で回避し、時には背中の陽菜に破片が飛ばぬよう己の肉体で遮っていた。
「ガンズさん、血が出てる! 止まって!」
「気にするな。貴様の命はこの俺にとって現在、最優先防衛対象に設定されている。遂行するまで停止はせん!」
新設されたばかりの駐屯地の柵が見えた瞬間、追い縋る魔物の群れが二人の背後に迫ってくる。ガンズが剣を抜き放ったその時、柵を蹴破って現れたのは、抜き身の長剣を構えたエルザだった。
「そこまでにしてもらおうか、我が友に手を出すことは、このエルザ・アステリアが許さん!」
エルザの背後には――ガンズのいう狙撃手の仲間二人が同行していた。長い金髪を後ろで束ねたお洒落な青年と、肩まである黒髪のボブカットをした女性である。エルザは陽菜の顔を見るなり「君はテトラ・アコードの看板娘じゃないか!」と声を上げた。
「おい、ガンズ。その女はなんだ?」
「詳しくは知らない。だがエルザ殿や源斉殿と接点があることは理解している」
「そんなよくわからない女のために私たちに撤退の命令を出したの?」
「不覚的要素が多い中で無理はできないだろう」
「ひとまず黙れ、この場で全指揮権を握るエルザだ。ガンズ、貴様の身勝手な行動は帰還後に軍法会議にかけられる。覚悟はできているか?」
「問題ありません」
エルザは少し目線を下げたあと顔を上げた。
「いい仲間を持ったな。先陣は私が務める。貴様は引き続き殿を務めよ。狙撃手二名は陽菜の護衛を頼む。優先すべきは撤退だ。こちらからの攻撃は控えよ」
「了解!」
指示が告げられた直後、作戦は開始される。
エルザが参戦してから弓が飛んで来ない。向こうも撤退したのか警戒しているだけなのか陽菜にはわからなかった。しかしエルザの甲冑から漂う「いつもの店のシフォンの甘い匂い」を嗅ぎ取り極限の緊張からようやく解放される。
無事に陣地へ収容されたものの、そこは補給が途絶え、騎士たちは疲弊し切っていた。
「陽菜、すまない。君を巻き込んだ上、もてなす食糧すら尽きかけているのだ」
「エルザ殿、この陣営は一体?」
周辺を一瞥したガンズが問いかける。
「負傷して逃げ遅れた者たちを一時的に避難させている。正直に話せば戦力になるのは数名だけだ。援軍でないことが敵に伝われば襲撃は免れないだろう」
「相変わらず無茶なことをしますね。負傷した下士官を守るなんて正気の沙汰じゃありません」
エルザは天を仰いで呟いた。
「必ずしも善意とは言えないのだけどな」
申し訳なさそうに項垂れるエルザに対し、陽菜は泥を拭いながら立ち上がった。
「暗い顔しないで、エルザさん。私が来たからにはここにいるみんなにお腹いっぱいになってもらうから!」
陽菜は持ち込んでいたヘルメットと、騎士団に僅かに残っていた乾燥肉、それから持っていた月晶石の塩を組み合わせ炊き出しを始めた。
「エルザさんはそっちの硬いパンを細かく砕いて! ガンズさんはさっき私が教えた野草を洗ってきてね!」
陽菜の明るい声に沈んでいた騎士たちに活気が戻る。彼女はいつの間にか屈強な男たちを助手として使いこなしていた。
完成したのは砕いたパンと肉の旨味が溶け合った、どろりと濃厚な『月晶石のポタージュ』である。ガンズはヘルメットから直接そのスープを啜り、エルザは器を両手で包み込んで一口ずつ慈しむように味わった。
ここ数日、エルザは騎士団長としての重責に押し潰されそうになっていた。守るべき部下が飢え、自身も空腹で判断が鈍る。
「私は……誰も守れないのではないか?」
そんな孤独な夜、彼女を支えていたのは、いつかテトラ・アコードで食べた、あの温かい天丼やシチューの記憶だった。もちろん好物のオムライスも忘れてはいない。今、目の前で陽菜が笑いながらスープを配っている。その光景は戦場における奇跡そのものだった。
「ああ……そうだった。私は……この笑顔を守るために剣を振るっているんだったな」
エルザの心に再び白銀の闘志が灯る。
翌朝、エルザとガンズが率いる精鋭部隊の護衛のもと、陽菜は境界の歪みが最も安定する地点へと送り届けられた。
「陽菜、落ち着いたら必ず店を訪れる。まずは無事に帰って大吾殿によろしく伝えてくれ。最高の看板娘は確かに返したとな」
「わかった。きちんと伝えるよ」
エルザが誇らしげに敬礼する。ガンズは真面目な顔で陽菜に石を差し出した。
「陽菜、これが俺の連絡用通信石だ。次に貴様が遭難した際は3秒以内に救援に駆けつける。さらばだ、ジョシダイセイ」
「せめて30分以内にしなよ。3秒以内に来られたら逆に怖いから!」
二人の騎士に見守られて陽菜が光の渦へ飛び込むと――そこは心配で顔を真っ青にした大吾、理恵、結衣が待つ、いつもの店の裏庭だった。
「お父さん! ただいま!」
「この、馬鹿娘がっ!」
大吾は陽菜を力いっぱい抱き締め、その後ろにある異世界の空に向かって、感謝の代わりに小さく頭を下げたのだった。




