Ⅵ
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そよと吹く風が肌に心地よい、日の照ったある日。夏の到来を思わせる天気は、少しばかり汗ばむほどの陽気をもたらしていた。家主の妻はそれをいとわしく思い、苛立った様子で空を睨む。当然そこには何もなく、羽ペンを扇いでもさしたる意味はない。
屋内だからまだよいが、外に出たらどうなる事やら。そんな仮定は想像するだけ無駄だ。夫人はため息をつかないようにと眉を寄せた。
机上の書き物に視線を戻すと、ため息をつきたくなるようなさした興味を持てない書面が存在する。それを眺める夫人の瞳には感情が見当たらない。
インクを羊皮紙に染み付かせるが、すぐに羽ペンを持ち上げる。人の気配に気がついたからだ。夫人の部屋を叩くノックの音。
入室の許可を伝えると、よく見知った顔がゆったりとした所作で夫人の元へとやってきた。
「書簡がいくつか届いております」
夫人が知る執事の物腰は常に柔らか、顔を上げなくともそれがよく分かる。そして、その手紙の内容も開封せずともほとんど分かる。今この屋敷に訪れる手紙など高が知れている。
机に置かれた手紙は五通。そのうちの一通が、夫人の表情を変える理由になる。
その屋敷には、婚約を申し込まれる年頃の娘が三人居たが、何度もそういう封書が届くのはただ一人の娘のところだけだった。
年の頃、十七歳。花も盛りの娘。その容姿だけでなく内面からにじみ出る魅力が、彼女を放っておかなかった。また、三年前に起こった誘拐事件も彼女を有名にしていたから、興味本位で娘に声をかける者も少なくなかった。社交界で彼女は輝いていた。
しかし、その娘はどんな貴人、どんな紳士から婚約を申し込まれても首を縦には振らなかった。それは男たちの反感も買ったが、だからこそ自分ならばあるいは、という男をも生み出して言ったのだ。
娘は美しく育った。灰色の瞳はまるで全てを見通すような強い光に溢れていて、真っ直ぐだった。
彼女はその瞳を今は窓の外、広がる庭園へと向けている。
植物の春の芽吹きから、夏の青々とした緑へと変色する過渡期を眺める。娘はそれが好きになっていた。季節の移り変わりを目で見て、肌で感じて、鼻孔をくすぐらせる。かつては気にもとめなかったそれが、今は愛おしい。
陽光がまぶしいのか、娘は目を細めていた。長いまつげが日差しに白く縁どられている。
ドアを叩く音に、ゆっくりと顔を向ける。娘を呼ぶ母親の声がして、彼女は両方の眉を上げた。すぐに立ち上がり「どうぞ」と短く応じると、娘が扉にたどり着くより早く母が全身を現した。
じろり、といったような目線で我が子の全身を眺めると、問題がないと判断したのか夫人は口を開いた。
「貴女にお会いしたいという殿方がいらっしゃっております」
「…どなたでしょう?」
先触れの手紙などなかったが、あまりに突然という訳でもない。娘の元には会いたいという旨を伝える手紙が多く訪れ、母親の判断により取捨選択され、ある日突然茶会が開かれると夫人に言われる事も少なくないのだから。
とはいえ、もしその殿方がもう屋敷に着いているのなら、突然だとは言えよう。
「わたくしには想像を絶する事態だと言えます」
母親の答えに、娘は眉を寄せる。彼女のした質問の答えになっていない上に要領を得ないものだ。
本当に相手はもうここまで来ているのだろうか、娘は思い至って部屋を見回した。せめて自分の身なりに気を使う時間はあるだろう。
髪を手櫛で梳かしながら扉に背を向けた娘は、それでも心の中に浮かんだ考えを口にせざるを得なかった。
目を閉じるまでもなく、脳内で再生される“それ”がある限りは、彼女は誰の婚約を受けるわけにはいかない。
もう、目を逸らさないと決めたあの日、傍にいてくれた人。
そうさせた人。
真っ直ぐで、透明な―――黒い瞳。力ある眼差し。
あれ以来、一度も会っていないひと。
娘の戻ってきた世界は相も変わらず汚くて、裏切りに満ち溢れ、人を蹴落とす、醜い世界だった。瞳を開いた娘が一人居たところで、何一つ変わる事のない世界。それでも、何も変わらなくとも、彼女は目を伏せる事はやめた。
武装をするのだ。豪奢な着物で、流行の化粧で、巧みな話術で、ではなく。
私は知っている、世界が見るに値する存在だと。
そう伝える事によって生まれる鎧で、堂々と胸を張るのだ。
不思議とそれは彼女を強くした。もう、あの頃の泣いてばかりいる幼い少女ではない。そうと自分でも錯覚できるくらいには、しっかりと。自分の足で立っていた。
娘はドアの前に人の気配がまだある事に気づいていたので、母親に伝えようと思った。
自分の気持ちは偽らない。
自分が必要としていない人とは婚約はしないのだと。
「母上? 今ならわたくし、どんな殿方でも言葉だけで帰す自信がありましてよ」
婚約をいくつも断ってくるうちに、相手の名誉を傷つけずに穏便にお断りをする方法を彼女は身に着けていたのだ。どんな相手が来ようと、負けるつもりはない。
絶対の存在であった母親にこんな言葉を向けられる日が来るなど、昔の自分なら思わなかっただろう。それが彼女の口元に笑みを作る。
母親は変わらず厳格だったが、口答えの増えた我が子に苦い顔をしているのだろう。
それを見るために、振り返ろうと思った。
「どんな言葉で追い返されるのかな」
娘の呼吸が止まる。
何年も聞いていないのに、彼女には疑う事が出来ない聞き知った声。
いや、記憶よりもいくらか低くなった声だが、その口調、変わらない。
はっきりと断定できる。できるはずなのにどうしてか、首が、振り返ってくれなかった。体が、動かない。
噂だけならばたくさん聞いている。直接関わる事を許されず、ほとんど遠目にも会えなかった。
あんなにも聞きたかった声。それなのに、まさかという思いが首をもたげる。否定する必要なんてないのかもしれない。それでも、もし自分の耳が間違っていたら?
彼は今、最も次期国王にふさわしい人間だと言われているはずだ。民の心を掴む政策をいくつも製作して、王宮を忙しく立ち回っていると聞く。
そんな多忙を極める者が、こんなところに来るだろうか。
振り返ってそこに誰も居なかったら? 全くの別人がそこに居たら?
―――それでも、もう決めたのだ
見えないふりはしない、真実から、現実から目を背けない。
何もなくとも、それをしっかりと視認すると、決めていた。
「頼むから」
ほんの少しだけ、近づいた声に娘は小さく身を震わせる。懇願を押し殺すようなテノールが耳朶に響く。
背後で、人の身じろぎする気配を彼女は感じた。
「せめてこちらを向いてくれないか」
一気に、体ごと翻す。
知らずに閉じていた瞳をこわごわと開くと、彼女の灰色の瞳に飛び込んできたものは―――
意思の強いその瞳が、娘の姿を映している。
記憶のまま寸分違わぬ、真っ直ぐな漆黒の瞳。
変わらぬそれが酷く胸をついて、娘は涙が出そうなくらいだった。
会いたかった。
そう口にしようとして、青年の黒い瞳も娘に負けず劣らずの泣き顔に近い笑顔だったから――
言葉も、出なかった。
ただそこに居るという存在の確認をしたくて、娘は手をのばす。
彼女が触れるより早く、青年の両手がその手を包んだ。
はっきりとした、感触。ごつごつとした両手。身長と同じく大きくなった。
この両手が、握り返してくれなかった時もあった。
もう二度とあんな思いはしたくない。もう、この手が離れる事は考えられない。
顔を上げると、漆黒の瞳には、娘の姿が変わらずに映ったままだ。
知らずのうちに涙が流れていたのを、彼の手がそれをぬぐっていた事で知る。
二人はお互いに相手が自分と同じく、笑いたくて仕方がない気持ちと同じくらいに、泣きたい気持ちでいっぱいなのに気がついて、顔を見合わせて笑った。
完
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
推敲をまだあまりしていないので、おかしなところもあるとは思いますが、また少しずつ見直していきます。
それでは、こんなところまで読んでくださった方に、最上の感謝をこめて。