第十六話(最終話) 戴冠の日
王都ヴァルティエールの大聖堂には、大陸中から招かれた賓客たちが、居並んでいた。
あの舞踏会の夜から、ちょうど一年。
アウグストは、純白の礼装に身を包み、祭壇の前に立っていた。かつて、婚約破棄を宣言したあの大広間とは、また違う厳粛さが、堂内を満たしている。
神官が、祝福の言葉を唱える中、アウグストの隣には、純白のヴェールと純白のドレスを纏ったセレフィーナが立っていた。
「――婚約者と共に、戴冠を受ける伝統は、王国が最も大切にしてきたものの一つです」
神官の声が、堂内に響く。
アウグストは、隣に立つセレフィーナの横顔を、そっと見た。
一年前、あの舞踏会の夜、彼女はこの隣に、まったく違う意味で立っていた。婚約者として、王妃候補として、役割を完璧に演じながら。
今、彼女がここにいる理由は、それとはまったく違っていた。
彼女自身が、選んだからだった。
戴冠の儀が終わり、王冠を戴いたアウグストは、集った貴族たちの前で、静かに口を開いた。
「今日、私は、この国の正式な王として、戴冠を受けた」
声は、落ち着いていた。だが、以前の彼とは、どこか違う響きがあった。
「これまで、私は、王としての役目を果たすことばかりを考えてきた。民に何を与えられるか。国に何を残せるか。……だが、それだけでは、大切なものを、見失うのだと、この一年で学んだ」
貴族たちが、静かに耳を傾ける。
「隣に立つ者を、役割としてではなく、一人の人間として見ること。それを教えてくれたのは、他でもない、この人だ」
アウグストが、セレフィーナに視線を向ける。彼女は、静かに、けれど確かな笑みを、その顔に浮かべていた。
式が終わったあと、控えの間で、レナードが、感慨深げに言った。
「殿下……いえ、陛下。半年前、私は、こう申し上げました」
「何を、だったか」
「『王妃を失ったのではなく、婚約者を失ったのです』と」
アウグストは、あの夜の回廊を、ふと思い出した。答えられなかった、あの問い。
「あの時は、まだ、その意味が、自分でもよく分かっていなかった」
「今は、いかがですか」
アウグストは、少し考えてから、静かに答えた。
「王妃は、いくらでも代わりが立てられる。……だが、セレフィーナは、代わりがきかない」
その答えに、レナードは、満足そうに頷いた。
「それでこそ、でございます」
後に聞いた話では、ロザリンドの魔力枯渇も、辺境伯領に伝わる古い魔力循環の術式を見直すことで、少しずつ回復へ向かったという。
それは、彼女が「役に立たなければ」と必死に差し出した力ではなく、ただ彼女自身を案じた人々が、共に考え、支えた結果だった。
その話を耳にした時、セレフィーナは、静かに目を細めただけだった。多くを語らなかったが、その横顔には、確かな安堵が滲んでいた。
夜、祝宴の合間、アウグストとセレフィーナは、こっそりと会場を抜け出し、王城の庭園を歩いていた。
かつて、彼女がよく佇んでいた、あの場所だった。
「懐かしいです」
セレフィーナが、ふと呟く。
「ここで、よく時間を過ごしていました。……誰にも、何をしているのか、尋ねられたことはありませんでしたが」
「今更だが」
アウグストが、静かに口を開いた。
「あの頃、ここで、何をしていたんだ」
セレフィーナは、少し驚いたように、それから、小さく笑った。
「ただ、少しだけ、息をつきたかっただけです。……令嬢の仮面を、少しの間だけ、外せる場所が欲しくて」
「……そうか」
アウグストは、その答えに、静かに頷いた。今更ではあったが、今、ようやく尋ねられたことに、意味があると思った。
庭園の一角には、いつの間にか、青い花が、小さく咲いていた。
誰が植えたのか、アウグストは知らない。だが、その花に気づいたセレフィーナが、目を細めて微笑むのを見て、なんとなく、その理由が分かった気がした。
「陛下」
「……アウグストでいい。ここでは」
セレフィーナは、少し戸惑ったように瞬きをして、それから、小さく頷いた。
「……アウグスト様」
その呼び方に、アウグストは、指先で、無意識に指輪に触れた。感情が動くと出る、あの癖だった。だが今は、それを隠す必要も、なかった。
それだけでは、収まらなかった。耳の先が、じわりと熱を持つ。国政では、どれほどの局面でも顔色一つ変えなかった男が、たった一言の呼び方に、これほど動揺するとは。
「……ずるいな、それは」
思わず零れた一言に、セレフィーナが、小さく笑った。
「陛下も、案外、ずるいことをおっしゃるのですね」
「……アウグストでいい、と言った」
「はい。アウグスト様」
わざと繰り返されて、アウグストは、今度こそ言葉に詰まった。
「セレフィーナ」
「はい」
「これから先、君が何を望むのか、私には、まだ全部は分からない。……だが、これだけは約束する」
アウグストは、彼女の手を、そっと取った。
「これからは、必ず、尋ねる。君が何を望んでいるのか、何を感じているのか。……与える前に、必ず、聞く」
セレフィーナは、その言葉に、目を潤ませながら、静かに微笑んだ。
「はい。……私も、これからは、ちゃんと、お伝えします」
月明かりの下、青い花が、静かに揺れていた。
二人は、役割としてではなく、ただ、一人の男と、一人の女として、その場所に、並んで立っていた。
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