2 日記帳(4/5)
「このリング」
店主の言葉に、私は思わず首を傾げた。そんな物があっただろうか。覚えがない。
見てみれば、彼女の手のひらの上には、確かに金属製の何かが乗っている。しかし、それはそもそもリングとも呼べないような代物だった。
確かに、小さな宝石がいくつか並んでいて、元は指輪だったのだろうということはわかる。だが、それは明らかにひしゃげていて、もはやその形は輪ですらなく、おまけに――血のような汚れがついていた。
「これだけか? 同じような物があったのでは?」
「ペアリングってこと?」
私の答えに、店主は顔をしかめた。そして、指輪を見つめてから、そっと元にあったところに戻す。
「いや――」
何かを考え込んだまま、店主は上の空で呟いた。そして、ダンボール箱の中から、カウンターに置かれたアンティークドールへと、順にその鋭い視線を向けていく。
店主は大きく息をはくと、私に向かってこう言った。
「確かにおもしろい物もあるが、どれも状態が悪いな。いいだろう。そのドールのみ買い取ろう。ただし、大した金にはならないが」
ドールのみ。聞き間違いかと思って、聞き返す。
「ドール以外、じゃなくて?」
「そのドールは動くのだろう?」
店主はそう問い返す。
私はわけがわからずに、内心で首を傾げていた。動く人形だけを、あえて買い取りたいものだろうか。
とはいえ、この店にはそもそも、人形をどうにかしてもらうために来ているのだから、その申し出自体は、ありがたいことだと思うべきなのだろう。他の品も一緒に引き取ってもらえなかったことに関しては、残念だが。
そんな心の内を察したように、店主は不意にこう言った。
「他の品も、本当に呪いとやらがあるなら、買い取りを考えなくもない」
やはりよくわからない。このアンティークショップは、そういう物が専門だったりするのだろうか。店内に並べられている品々が、急に不気味な物のように思えてくる。
店主はそんな私の恐怖心には気づかずに、一枚の用紙とペンを差し出した。
買い取りのための書類のようだ。名前や連絡先などを書くための空欄と、取り引きに際しての契約の文言が書かれている。
私はアンティークドールと店主とを交互に見てから――決心し、その書類へとサインした。名前を記入する際に、店主が軽く手元を覗き込んでくる。
一宮鹿子
その表記を見て、店主はこう尋ねた。
「読みは?」
「いちみや、かのこ」
そう答えると、彼女はどこからか一枚の名刺を取り出し、私の方へと差し出した。そして、自らこう名乗る。
「私の名は東雲梓だ」
あかとき堂、店主。その肩書きの後に、確かにその名前が記されていた。
そうして私はあの西洋人形だけを残して、店を去った。
何はともあれ、最も気がかりだったことについては、しかるべき――と言っていいかはわからないが――ところへ納まったことになる。しかし、そうして帰宅した私は、いわくつきの品を手放すことができてひと安心、という気分には、どうしてもなれないでいた。
時刻はすでに夜。昼は晴れていたが、今は静かに雨が降り始めている。
雨音だけが聞こえる室内に、不意に響いた音は家鳴りだろうか。この家も、もう古い。この程度の音は怪奇現象でも何でもないだろう。それでも、その音を聞くたびに、私はなぜか、耳を澄ませて辺りを見回してしまうのだった。
これでよかったのだろうか。そんな疑問が、絶えず心の中に浮かんでくる。
確かにあの店主は人形のことを恐れてはいないのかもしれない。しかし、私は彼女に全てを打ち明けてもいなかった。
千鳥の死について。まさしくその現場に、あの人形があったことを。
私が話した程度の内容では、あの店主はそれを危険とは判断できなかっただけかもしれない。本来なら避けられたかもしれない災厄。それに彼女を巻き込んでしまったのだとすれば。
とはいえ、彼女自身もいわくつきの品を求めていたようではあるのだが――
千鳥の死の光景が、不意にまた浮かび上がってくる。禍々しい傷をさらして死んでいた、彼女の無残な最期。もしも、あの店主まで千鳥のようになってしまったら。
そんなことがあるわけない。千鳥はあくまでも、生きた人に殺されたのだ。それも恐ろしいことではあるが、人知の及ばない何かに殺されるよりは、まだ道理にかなっている――と言えるかもしれない。どんな理由があれ、殺人に道理がある、などと思いたくはないが。
私は部屋の隅に置かれたダンボール箱を――結局は目の届くところにないと不安だったのだ――じっと見つめた。あの中にはもう、動く人形は入っていない。しかし、残されたあれらの中にも、何かおかしなことを起こす物はあるかも知れず――もしもそうだとすれば、店主はそれも買い取ろう、と言っていた。
視線は無意識のうちに、机の上に置かれた日記帳へと向かう。それを書き記した老女と、彼女の良き助言者であったらしい、やえさんという人物のことを、私は思い出していた。
もしも、あの店主に本当の意味で助力を求めるつもりなら、私は一切の隠しごとをするべきではないのかもしれない。人形に関する奇妙なできごとをどう捉えたかは知らないが――彼女は少なくとも、私の話を聞いてくれた。
しかも、あの人形を引き取ってくれている。どんな思惑があったにせよ。
私は日記帳が置かれている机の前まで歩み寄った。
部屋にあるその机は、私が高校生のときまで使っていた物だ。身ひとつで東京に出て行ったので、その他の家具もほとんどが当時のままになっている。
あまり物に執着しない方だったこともあって、私の自室は簡素だ。家を処分すると母から聞いたときにも、そのわずかな持ち物ですら引き取ろうとは思わなかった。好きにしてくれてかまわない、とだけ答えた記憶がある。
机の上に不要な物を置くことを、私はあまり好まない。しかし、今はそこに、いくつかの物が置かれていた。
赤い漆器の皿と端切れで作られたらしい小さなぬいぐるみは、父の形見で――東京で生活していたときもずっと手元にあった物だ。執着をしない私にとっても、これは例外――いや、特別な物だった。
そして、今ではその近くに数冊のノートが――他人の書いた日記帳が加わっている。私はその中から一冊を手に取って、目に入った文章を何気なく読んでみた。
――やえさんは言っていた。
指輪は決して指にはめてはいけないと。
強い思いが残っているから。
指輪――リングか。そういえば、あのダンボール箱にはひしゃげたリングがあって――店主は、もうひとつ同じものがあるはず、というようなことを言っていた。しかし、探してみても、日記にそういった記述は見当たらない。あの箱の中にも、もちろんそんな物はなかった。
そもそも、ここに書かれている指輪があのときのリングかどうかもよくわからない。それに、たとえあのリングがそうだとしても、ひしゃげている指輪など、誰も指にはめようとは思わないだろう。ともあれ――
やはり、この日記帳には、まだまだいわくつきの品についての記述があるようだ。あの人形についても、探せばもっと恐ろしいことが書かれているかもしれない。それをなかったことにして、このままにはしておけない。
私は日記帳を閉じ、携帯端末を手に取ると、ひとまず明日の天気予報を確認した。