3 ギメルリング(4/5)
気づけばもう夕刻で、辺りは夕日の赤に染まっていた。
梓の後を追うようにして、商店街を早足で歩いて行く。わかっていたことだが、私に対しては未だに何の説明もない。遠ざかりそうな背中に向かって、私は仕方なくこう問いかけた。
「それで? いったい何がわかったの?」
梓の歩く速度が、少しだけ遅くなった。どうも、同行者の私のことを忘れていたか――あるいは、普段からこんな感じなのかもしれない。
梓は振り返らずにこう答えた。
「あのリングに嵌まっている宝石の名前だ。こういうことは、専門家に確認するのが一番いい。宝石はあまり得意ではないらしいがね」
どうやら彼女は、指輪の危険性について言及するつもりはないらしい。気になるところではあるが、ひとまずは話の流れに任せることにする。
「あなたの店では、宝石は扱わないの?」
「扱わないわけではないが。アンティークならともかく、比較的新しい物については私もまだ自信がない。宝石の鑑別はそれだけで一分野だ。というより、何ごとも私はまだまだ勉強中だからな」
アンティークショップの店主は、思いがけず殊勝なことを言った。それにしても――
比較的新しい物。それは、つまり。
「その指輪、アンティークじゃないってこと?」
百年経ったら、だったか。指輪自体はひしゃげているわ、汚れているわで、古い古くない以前の問題だが。
梓はこう答える。
「これはおそらく、アクロスティックジュエリーだ」
私の反応を待たずに、梓はこう続けた。
「アクロスティックとは折句のことだ。折句とは詩などに用いられる技法で、文章そのものとは別に、意味の異なる言葉などを折り込む。アクロスティックジュエリーの場合は、宝石名の頭文字を並べて、言葉を作る。十九世紀初めのフランスで生まれ、流行した」
「十九世紀フランスなら、アンティークじゃないの」
「いや。その時期に流行したというだけで、現代でもアクロスティックジュエリーは作られている。私の見立てでは、あれはそう古くはない」
古くはない、と梓は言うが、それはおそらくアンティークに比べて、という意味だろう。あの指輪が、前の持ち主――ゴミ屋敷と呼ばれる家に住んでいた老女のことだ――によって作られた物だとは思われない。それ以前に持ち主がいたとすれば、百年は経たずとも、それなりに時を経ているはずだった。
考え込んだ私に、梓はこう問いかける。
「あのリングに込められた言葉がわかったか?」
「……もしかして、フォーエバー?」
思いつきで咄嗟に答えたものだから、何だか間抜けな発音になってしまった。おまけに、すぐに間違いに気づく。
「いや、待って。ガーネットはGか」
そう思ったのだが、梓は首を横に振る。
「それで合っている。当てはまる宝石名がない場合、別名や色の名前を代わりにすることがある。ガーネットはこの場合、Vermeil……フランス語で朱色だ」
あの指輪には意味が込められている。その言葉が、永遠。しかし、それ自体は指輪に込める意味としては、珍しくも何ともない。
「それで、そのことに何の意味があるっていうの?」
私がそう尋ねると、梓は黙り込んだ。しばらくの間、お互いに口を閉ざしたまま、商店街をひたすら歩いて行く。
次に口を開いたのは、梓の方だった。
「そのこと自体には、問題はない。ただ――」
間を置いてはいたが、それは一応、私の問いかけに答えたものらしい。しかし、彼女にしては珍しく、その先を自信なさげにこう続ける。
「少し考えさせてくれ」
まだ何か、気になることがあるのだろうか。
とはいえ、この店主の考えなど私にわかるはずもない。わざわざ京都までついて来たが、果たして私がここに来る意味はあったのだろうか。
深くため息をつきながら、私は思い出したように話題を変えた。
「そういえば、あの店もずいぶん変わったところだったけど。石の専門家、だっけ? 石を売っているわけじゃないの?」
よくよく考えると、あの場では石のひとつも目にしていない。いや、中庭に石灯籠があっただろうか。とはいえ、まさかあれは売り物ではないだろう。
梓はこう答えた。
「あの店はまあ、どちらかというと好事家向けの店だ。ただ、あの店主は呪者でもある。何でも、石の霊を使役しているらしい」
「は?」
私は思わずそう声を発してから、言葉を失った。彼女は何を言っているのだろう。本気で意味がわからない。
「木内石亭の『雲根志』に神社に参拝する石の精の話があるが、あんな感じだろうか。それとも、護法石かな。会ってみたいものだ」
梓は妙にしみじみとそう言った。冗談だろうか。私はどう返していいかわからない。
そのうちに、梓はぽつりとこう呟く。
「しかし、彼がああ言うからには、やはりそうなのだろうな……」
その言葉を最後に、梓は沈黙した。私たちは無言で京都の通りを歩いて行く。そうして何もわからないままに、途中で梓とも別れ、私はそのまま家路についた。
時刻は夜。しんとした自室で、私は部屋の片隅に置かれたダンボール箱をただ眺めていた。
梓が言っていたことを思い出す。彼女が言うには、目の前にある箱は千鳥を殺した犯人がもたらした物かもしれない、ということだった。
怪異と殺人。どちらが本当に恐れるべき相手だろう。いや――どちらもか。私はこの日、帰宅してからというもの、家の周囲や室内を十分に確認し、扉にも窓にもすべて鍵をかけてから、ようやくここに落ち着いていた。
この家はひとりで暮らすには大きすぎる。目の届かない場所が多いと――やはり怖い。怪異だろうが、現実の殺人犯だろうが、潜んでいるとすれば、そういった場所だろう。
私はかつて訪れたあのゴミ屋敷を思い浮かべた。物であふれた一軒家。何かを恐れていたから物を集めたのだろうか、それとも、物を集めたから恐ろしいことが起こるようになったのだろうか。
そのとき、不意に妙な音がした。家のどこからか。しかし、突き詰めてみれば、それは怪奇現象でも何でもないのだろう。それでも、ひとりでいると――ましてや、得体の知れない物がそこにあるかと思うと――どんなささいな物音でも恐ろしく感じてしまう。
私は机の上にある日記帳を手に取ろうとした。
これを読み進めなければならない。どうせ他にやることもないのだから。そう思って、時間があればそうしようと思っていた。しかし。
そのときは、ふと別のことが気になった。
日記帳と一緒に机の上に置かれているのは、端切れで作られたらしい小さなぬいぐるみと、それから漆器の皿。その皿に、いつの間にか薄っすらと水がたまっている。
そういえば、先日は雨が降っていたはず。どこかで雨もりでもしているのだろうか。雨もり。
何だろう。この光景どこかで。でも、この皿は――
なぜか日記を読む気になれなくて、私はその代わりに端末を手に取った。しかし、何をすればいいかわからない。何かをしなければならない、と強く思っていることは確かなのだが。
目の前の現実から逃れるようにして、私は日頃からよく見ている好きな女優のブログを覗いていた。彼女の綴る言葉や載せられた画像の数々が、今の私の目には眩しく映る。しかし、しばらく眺めているうちに辿り着いた一枚の画像に、私の上向いていた気分は一瞬で吹き飛んでしまった。
そこに写っていたのは、どこかで見た覚えのある指輪だ。宝石が四つ並んでいて、少し変わった彫刻が施されている。その指輪が、細くしなやかな指にはめられていた。
例のひしゃげた指輪は梓に預けたままだ。だから、それと比べようにも記憶しか頼りになるものはない。しかし、それでも目の前にある画像のそれは、見れば見るほど、あのひしゃげた指輪に似ているように思えた。
画像には、アンティークショップで偶然見つけた指輪であること、変わったデザインで気に入っていることなどが添えられている。
ひしゃげた指輪を初めて見たとき、梓は確か、同じような物がないか、と聞いていた。この画像の指輪がひしゃげた指輪と、例えばペアだとして、片方が別の人物の手にある、ということがあり得るのだろうか。
どうやら私は、明日もあの店へと赴かなければならないようだ。ため息をつきながら、私は早めの起床のために、ベッドへと潜り込んだ。




