第9話:二人の距離と確かな絆
都市計画の推進と爆発的な経済成長に伴い、シルフィード領の事業規模は拡大の一途をたどっていた。
日中は現場の指揮や各部門との打ち合わせに追われ、夜になれば広大な領内から上がってくる膨大な決済書類、収支報告書、資材の調達計画書との戦いが始まる。
「……ふぅ、さすがに目がかすんできたわね」
深夜の領主執務室。デスクの上に山積みされた羊皮紙の塔を前に、私は小さく息を吐き出し、疲れた目元を手で覆った。
前世での過労死の記憶が脳裏をよぎる。「倒れるまで働くのは悪手」と頭では分かっていても、事業の成長期(グロース期)における経営者の意思決定のスピードは、そのまま組織の生死を分ける。ついつい前世の社畜魂に火がつき、根を詰めてしまいがちだった。
カチャリ、と静かな音を立ててドアが開く。
「少し休まれた方がよろしいのでは、エレノア様。貴女が倒れては、この街の全員が路頭に迷いますよ」
入ってきたのは、最高治安責任者(CSO)であるアークだった。彼の手に乗せられたトレイからは、淹れたてのハーブティーの爽やかな香りと、心地よい湯気が立ち上っている。
「ありがとう、アーク。でも、この成長スピードを維持するには今が一番の踏ん張り時なの。ここでの意思決定が一日遅れれば、現場の進捗は一週間遅れるわ」
「相変わらずご自分に厳しいお方だ」
アークは苦笑しながらデスクの傍らに寄り添い、優しくハーブティーのカップを差し出した。温かい磁器の触感と、鼻腔をくすぐる清涼感のある香りに、強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
「それにしても……」
アークはデスクの上に散らばる複雑な複式簿記の計算シートや、緻密な都市計画図に視線を落とした。
「貴女のやり方には、いつも驚かされます。単に金を稼ぎ、領地を富ませるだけではない。民に教育を施し、衛生を守り、適切な対価を払って自立を促す……。貴女が作っているのは、強権的な力による支配ではなく、民の幸福と経済的合理性が両立した『新しい仕組み』だ」
ふっと目元を緩めるアークの表情には、深々とした尊敬と、それ以上の熱い情熱が宿っていた。
「私が今まで見てきたどんな国の王や指導者よりも……貴女は遥かに優れている。美しく、賢く、そして誰よりも温かい」
「あ、あら……急に何を言い出すのよ。買い被りすぎだわ」
私は不意を突かれ、ハーブティーを喉に詰まらせそうになった。
「私はただ、前世の知識を使って自分の理想の街を作りたいだけの、強欲な経営者よ。民の幸福だって、その方が結果として生産性が上がって利益が出るからやっていることだもの」
「フッ、そういう照れ隠しで自分の善性を隠そうとするところも、実に魅力的ですよ」
さらりと重ねられた言葉と、彼の深く澄んだ紺色の瞳に見つめられ、胸の奥がトクンと跳ねた。
(な、何かしら……この胸のときめきは。前世でも仕事一筋で恋愛なんて二の次だったし、乙女ゲームの悪役令嬢に転生したはずなのに、こんな距離感の詰め方は想定外だわ……!)
自分の顔が急速に熱くなっていくのを感じ、私は慌てて視線を書類へと戻そうとした。しかし、アークの手がすっと伸びてきて、私が握っていたペンを優しく取り上げた。
「あ……」
「今夜はもうお休みください。これ以上の作業は、CSOとしての私の安全管理義務に反します」
「ちょっと、アーク。まだ決算の承認が——」
「明日の朝、私が一番に書類を整理しておきますから。貴女の身体は何よりも貴重な領地の『最重要資産』です。損なわせるわけにはいきません」
強引でありながら、どこまでも大切に包み込むような温かい手つき。アークは私の手首をそっと解放すると、優雅に胸に手を当てて微笑んだ。
「おやすみなさい、私の素晴らしい領主様。明日の朝、また元気な笑顔を見せてください」
彼が執務室を去った後も、部屋にはハーブティーの甘い香りと、胸の奥の火照りが残り続けていた。
単なる「雇い主と用心棒」を超えた、確かな信頼関係。互いの能力を認め合い、対等なパートナーとして背中を預け合える存在が隣にいることが、これほど心強いものだとは知らなかった。
夜風がカーテンを揺らす中、私は熱を持った頬を両手で包み込みながら、明日からの更なる飛躍に向けて静かに瞳を閉じたのだった。




