20 years reign
「隋書」倭国の項に、「新羅、百済は倭国を大国で珍しい物が多い国と考えて、両国とも倭国を畏みうやまい、常に使節を行き来させている。」とある。隋の頃ならば日本は聖徳太子の時代。まだまだ仏教も律令国家の導入もこれから始まるという頃だ。隋の方から見ると東海中の小国ぐらいの国と見られていただろう。しかし朝鮮半島の方からは開けてはいないが並々ならない力を持った国と思われていた。まだ任那が南部にあった頃だから実際の国力よりも大きく感じただろう。「畏れ」という語があるということはそういう事だろう。珍しい物とは何だろう?山国だから弱い森林回復力の森を宮廷の造営で荒らしていた百済、新羅にはあまり見ない巨木が豊かな物産と見られたのかもしれない。人口も発展度合いの割に多かった(司馬遼太郎「街道をゆく」)。隋の時代が短く終わり、唐の時代の最盛期、倭国・百済軍は唐・新羅連合軍と戦うことになる。遅れているが物資、兵員が豊富な頼もしい後背地、というのが百済の同盟国倭への認識だっただろう。
極東での倭国初の対大陸戦争時の外から見える姿はそんな所だった。
花の都平安京、そう言われた京の中でも今上の言仁陛下が行き来した美々しい建物は灰燼に帰し、礎が黒く焼けて残っているぐらいだ。これも平家が京での決戦を諦めて火をかけてからだ。維盛世代にとっては、源義朝を平治の乱で清盛が打ち倒し天下を取って以来の20年の栄華はほぼ丸々人生に重なる。焼け落ちる屋敷の結構は平家栄光の時代が終わった、と光景で思い知らされたことだろう。
この退去の少し前に平家の枢機が頭を悩ました問題があった。
3年前の治承4(1180)年4月7日のことだった。関東より大番役で上洛してきた畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱らを平家は帰さないという決定をした。以仁王の決起があったとはいえ、まだ平家の天下は続くと思われていた。その中で先手を打って関東の有力者を京で留め置き、東の大平野をしっかり握って天下を万全に保つという意図であった。以来、京で禄を給されて過ごしてきた。その期間の中で平貞能は留め置き組の世話を何くれと焼き、特に宇都宮朝綱と親しくして無聊を慰めていた。平家の勃興を支えた古強者であるが故に、各地の領主の支持あっての平家という想いがあったのだろう。また平家の棟梁、清盛も各々の小さな力をも集めることができての治天下と政に臨み、次期棟梁と目されていた重盛も最大戦力の平家といえど天下では少数、と肝に銘じ各勢力と共に支えてこその天下の座、と考えていた。関東の領主達に関しては、留め置きというよりも在京を要請されて応じたという具合なのかもしれない。後に頼朝の蜂起と関東の頼朝奉戴があって彼らの立場は人質に近いものとなったがこの時の待遇がもととなって、数年間の京での暮らしにも特に不自由は生じなかった。このあたりが人々の信望が委ねられた由縁なのだろう。雅量こそが20年間にも渡る「平家にあらずんば、、、」の世をもたらしたのだ。
しかし時を経て、北陸での敗北後木曽勢が京に寄せてきている事態である。改めてどうするか?という話となった。これから西国、西海に逃れて押し返すことを図るのであれば関東の有力者は処刑したほうが良いのではないかという声は当然出た。もはや源頼朝の握る関東とは対立している。気を遣う必要なしという意見には説得力があった。その時に意見を具申したのは、平家の次席、平知盛であった。
「首を落とせ!という声が出ているとのことだけれども、、、、。」
棟梁宗盛の前に出ると
「武運なく京から退こうという時に留め置いている者達を百だ、千だ、と首を落としてもどうなるものでもないだろう。そこを断じて、故郷の妻子も一族郎党も悲しませる必要があるのだろうか。それより、我等はまた西海より押し寄せて京に戻ることを計っている。成った時にはここで何を示したか、が東国と押し合うところを左右するだろう。理を曲げて関東に返してやるべきと思う。」
と述べた。宗盛はやや戸惑ったようだが、
「、、、、、その通りだ。」
是とした。帰郷が決定した瞬間だった。
この事が伝えられるや畠山、小山田、宇都宮が面会を請い、前に出るや頭を床につけて
「去る治承4年から都に留まり、待遇を受けてきました。ここで帰って良しということですが、是非に西国に同行させていただきたい。やれ嬉しと帰り、数年の交わりを捨ててこれからは平家を敵に、とするなら坂東武士の名折れ、何処どこまでもお供致しましょう。」
涙を流している。京から見ると野蛮だ、剽悍だ、と毛色の違う者達ととらえられる彼等は反面、則ではなく肉体に基づく手触りで世を見ている。この数年の禄は命をかけるに値する交わり、と決意しての言葉だ。これが平家が京に座す内に失った心かもしれぬな、宗盛は揺らいだが、拳を固めた。
「せっかくの言葉ではあるが、すでに汝らの魂は東国の地にあるもの、体だけ西国へ連れてゆくこともあるまい。要らぬ事をされぬ内に急いで帰るがよかろう。」
強く言い切った宗盛の言葉に、流石の3人も何も返すことができず涙を抑えて退出して行った。
20年という年月に渡り世を背負い、切り回していれば数え切れないほどの交わりが生まれて絆を成してゆく、これは一つの現れだろう。
坂東武士の処置に関し、事ここに至って敵に塩を送るようなことをするとは甘いにも程があるとも言えるし、流石に太政大臣や中納言を受けるような人々は腐っても鯛、状況のどん詰まりにあっても一分を示したともとれる。治承寿永の乱の内に見られた一挿話であった。




