第13話 雑踏の中で老翁は語る
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小気味良い雑踏の打音を耳にしながら、私とヴォリス様はこの甘い匂いが包み込む道を歩いていました。
私の手には甘い蜜がたっぷりと塗られた焼き菓子が三本、夜空に昇るお星様のようにキラキラと輝いているようです。
ああ、この前はマリアンに止められ食べられませんでしたが、ようやく手にすることができました。
感無量とはまさにこのことなのでしょうか。
一方のヴォリス様は購入した焼き菓子を見て、少々怪訝な表情を浮かんでいました。
「…………甘味が好きなわしと言えど、これを一気に食べたら胸焼けしそうだ」
「紅茶と一緒にゆっくり食べれば良いのですよ」
「まあそれもそうだな………………。少し歩き疲れた、あそこで休憩させてくれ」
そう言ってヴォリス様は建てられた塀の壁に座り込むと、懐から一本の樹の枝のようなものを取り出してそれを口に咥えました。
「あの、それは?」
「香木だ。そうだな…………わしが好きな匂いとでも言っておこうか」
そう言いながらヴォリス様はふうと大きく息を吐き、肩の力を落としました。
そのリラックスした姿からは、いつものような厳格な様子は見られません。
「せっかく嬢ちゃんと二人っきりになったのだ。この際だから聴いておきたいことがある」
しかし、その態勢はリラックスしているのに視線だけは鋭く、真っ直ぐに私の方へ向いていました。まるで獲物を狙う猛禽類かのように。
「な、なんでしょうか?」
「いやなに、その立ち振る舞いや言動、なにより所々から滲み出るその態度。…………嬢ちゃん、貴族の人間だろう?」
「え…………?」
とくん、と。心の奥底が大きく跳ね上がる音を耳にしました。
眼は見開き、空いた口は塞がらない。手に持った焼き菓子をかろうじて落とさなかったのは奇跡と言えるでしょう。
「ど、どうして…………」
「見ればわかる。服を変え、身分を偽り、大衆に紛れたとしても貴族の振る舞いというのはどうしても隠しきれないものだ、嬢ちゃんのような世間知らずなら尚更な」
そう言ってヴォリス様は咥えていた樹の枝を再び懐へ仕舞い、ゆっくりと立ち上がりました。
「あ…………あぁ……」
ああ、私は今動揺しています。
この自由の日々が終わるのではないかと、こんなに呆気なく打ち砕かれてしまうのではないかと恐怖しています。
その様子を見たヴォリス様は、ため息と共に頭を掻くと、生暖かい視線を私に向けました。
「ああ、勘違いするな。別にわしは嬢ちゃんが貴族だからどうだのするつもりはまったく無い。ただ何でこんなことをしているのか気になっただけだ」
「こんなこと、とは?」
「貴族の娘と言えばデカい屋敷の中で家族の言いつけをはいはいと守り続け、最後は別の貴族の男と結婚する。そこに自由など一切存在しない、ましてや街を出歩くなんて夢のまた夢だ」
「…………!」
それはかつての私の人生をありのままに語っていました。
お父様の言いつけを従順に守り、まるで人形のように自分の心を壊して動き続ける過去の私を。
「それで、答えてくれるか? 嬢ちゃんは何でこんな危ない火遊びをしているのかを」
「…………」
思えば、あの時の日常はまるで黒色に塗り潰されたキャンパスのように、何もありませんでした。
しかしあの日。ベルリン様と出会ったあの運命的な出来事が私の心の中に新たな色を加えてくれたのです。
この気持ちこそ、ヴォリス様の求める解答なのでしょう。しかし。
「申し訳ありません、それは言えません」
小さな声で、しかしはっきりと。私はヴォリス様の問いを拒みました。
あの出来事だけは、マリアンにも、お父様にも、誰に対しても話すことはできません。それが私の意思なのですから。
「そうか、まあ一人の作家として気になっただけだ。無理に答える必要は無い」
ヴォリス様は何事もなかったかのように、ゆっくりとした足取りで来た道を歩き始めました。
しかし、ふと何か思い立ったかのように立ち止まると、こちらに背を向けたまま、声を張り上げました。
「これ以上は追及しない。だが年長者として一つ忠告してやろう」
その声色はいつもの不遜を表した態度とは異なり、とても落ち着き払った声をしていました。
「貴族という生き物は自分達とは異なる異物を嫌う。先程若造に語った『斬新』という異物とは比べものにならないほどにな」
謙虚さの中にある確かな自信を感じさせるその声。背中からでも伝わる偉業を成さんとする者の姿。
それはまるで、仕事をしている時のお父様のような。一家の責任の全てを一身に背負った者の姿でした。
「もしこの火遊びが他の貴族達に露呈したとき、嬢ちゃんは重大な決断を必ず迫られる。それまでに選んでおくことだ。貴族として暗い檻の中で生き続けるか、それとも全てをかなぐり捨てて自由を得るかを、な」
「決断…………」
水に染み込むスポンジのように、ヴォリス様のその言葉は私の心の奥底までスッと入って行きました。
必ず訪れる決断。この自由を知ってしまった私は、その選択を果たして背負い切れるのか、私にはわかりません。
ただ今はその末恐ろしさに背中が冷えて鳥肌が立ってしまいました。
「そんな深刻な声を出すな。これはただのおいぼれの戯言。適当に聞き流しておけ」
「いえ、ヴォリス様の忠告、しかと心に留めておきます」
「…………ふん、珍しく長く語ってしまった。わしも若造のように熱くなっているようだ。さあ戻るぞ」
「あ、待ってください!」
言いたいことを語り終えたヴォリス様は煤けた軍服を靡かせ、肩で風を切るようにしながら、雑踏の中を歩いて行きます。
そこには先程のような大きな背中はありません。ただ一人の老人作家としての背中があったのでした。
「ふん………………とは、羨ましいものだ」
「あの、何か言いましたか?」
「…………なんでもない」
雑踏の音色は、一人の老人の呟きをかき消すには充分なほどに大きかったのでした。
しかしその鋭い瞳は未だに衰える事はなく、ある一点を見据えていました。




