第二話 塩のない村と、燻製の煙と、一匹の炉狐
第一の村を出て三日目の昼過ぎ、レオンは街道の脇にファルカス号を停めた。
理由は単純で、道端に見慣れない植物が群生していたからだ。
馬車から降りて近づくと、腰の高さほどの茂みが続いている。細長い葉の縁がわずかに紫がかっており、茎の根元近くに小さな白い花をつけていた。鑑定スキルを向けると、ふんわりとした感覚が返ってくる。
──食用可。やや苦みあり。乾燥させると香りが増す。解毒作用あり。
「ほう」
レオンは帳面を取り出し、植物のスケッチを描き始めた。葉の形、茎の断面、花の構造。百か国を旅した経験で、現地の植物を記録する習慣は骨の髄まで染み込んでいる。アフリカの市場で覚えた薬草の描き方は、こうして異世界でも役立つらしい。
「グレイ、少し待っててくれ」
老馬は特に反応せず、街道の草を食み始めた。気にしていないらしい。
レオンは茂みから葉を数枚摘み取り、においを確かめた。かすかに清涼感のある香りがした。嗅いだことのある香りに近い。前世で東南アジアを旅したとき、屋台の料理によく使われていたハーブに似ている。
「乾燥させれば香草として使えそうだな。解毒作用があるなら、回復スキルとも相性がいい」
大陸食技録に一ページ追加された。旅の記録は着々と積み重なっていく。
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その日の夕方、次の村に着いた。
村の名前はメルヒといった。街道から少し外れた場所にある、農村にしては珍しく木工が盛んな村らしく、家々の窓枠や扉に細かな彫刻が施されていた。
村の入り口で、レオンは木工職人らしき中年の男に声をかけた。
「馬車を一晩停めさせてもらえる場所はありますか。旅の者です。レオン・ファルカスといいます」
男はレオンとファルカス号を交互に見てから、「村長のところに聞いてみろ」と言って、奥の方を指さした。
村長の家は村の中央にある少し大きな建物だった。扉を叩くと、六十過ぎとおぼしき白髪の女性が顔を出した。
「旅の方? 珍しい。どうぞ入って。ちょうど夕飯の時間だから、良ければ一緒に」
遠慮するつもりだったが、鍋から漂ってくる匂いを嗅いで考え直した。どうやら豆を煮ているらしいが、何か足りない気がする。料理人の勘というやつだ。
「お言葉に甘えます」
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食卓に出されたのは、豆の煮込みと黒パンだった。
一口食べて、レオンは理解した。足りなかったのは塩だ。
豆は柔らかく煮えているし、火の通し方も悪くない。ただ、ほとんど味がついていない。黒パンも同様で、粉と水だけで焼いたような素朴なものだった。
「おいしいですか?」
村長の女性——マルタと名乗った——が少し申し訳なさそうに言った。
「十分です。豆の火の入れ方が上手い」
レオンは正直に答えた。
「ただ、塩が不足しているようですね」
マルタは小さくため息をついた。
「お察しの通り。この村は山に囲まれていて、海から遠いんです。塩は商人から買うしかないのですが、今年は例年より値段が上がってしまって……木工の仕事で稼いだお金も、ほとんど塩に消えてしまう」
「冬の備蓄はどうするんですか」
「そこが一番の問題で」マルタは顔を曇らせた。「塩漬けができないから、保存食が作れない。毎年、冬の後半になると食料が底をつきかけます。去年は……少し大変でした」
レオンは豆の煮込みをもう一口食べながら、頭の中で考えを整理した。
塩そのものを増やすことは難しい。しかし塩の使用量を減らしながら、保存効果を高める方法はいくつかある。
「少し、提案してもいいですか」
マルタが顔を上げた。
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翌朝から、レオンは動き始めた。
まず村人を数人集めてもらい、燻製の設備を作った。前の村でも教えたやり方だが、ここでは木工職人が多い分、材料の調達が早かった。職人たちは設計図を見るなり、
「これならもっとうまく作れる」
と言いだし、一日で立派な燻製小屋が完成した。
「職人さんたちの腕は本物ですね」
「木を扱うことだけは誰にも負けませんよ」
職人の一人、ガルトという五十がらみの男が、どこか誇らしげに言った。レオンはその表情を見て、ここの村人たちは技術に自信を持っているのだと理解した。
「ガルトさん、一つ相談があります。燻製小屋の棚に使う木材なんですが、煙が均一に回るように格子状に組みたい。こういう形はできますか」
レオンが帳面に簡単な設計図を描くと、ガルトはちらりと見てから、
「こんなもの、朝飯前だ」
と言った。実際、昼前には完成していた。しかもレオンが描いた図よりずっと精巧で、棚板の角度が微妙に傾いていた。
「この傾きは?」
「脂が落ちやすいようにな。燻してるとき、肉から脂が出るだろう? 下に溜まると煙が変な匂いになる」
レオンは感心した。経験のある職人というのは、こういうところで説明しなくても気づく。
「それは私より詳しいですね」
と正直に言うと、ガルトは照れたように
「燻製はやったことないが、木と熱と煙のことは少し知ってる」
と答えた。食技録にガルトの改良案を書き加えた。傾斜付き棚板、と。
「ガルトさんの名前も書いておきますよ。この工夫の考案者として」
ガルトは
「そんなものに書いてどうする」
と言いながら、悪い気はしていないようだった。
燻製の次は、酢を使った保存法を教えた。
「酢?」
マルタが首をかしげた。
「あの酸っぱいやつですか」
「そうです。酢には食材の腐敗を遅らせる働きがある。果実や穀物から作れるので、塩よりずっと手に入りやすい。この辺りで果物は採れますか」
「リンゴなら山に生えています。秋になると誰も使わないほど落ちてくる」
「完璧です。リンゴ酢を作りましょう。時間はかかりますが、一度作り方を覚えれば毎年使える」
レオンはファルカス号の棚から素焼きの壺をいくつか取り出した。リンゴを刻んで壺に詰め、水を加えて布で蓋をする。発酵が始まれば、二週間ほどでリンゴ酢の素ができあがる。
「この状態で放置するだけですか?」
「毎日一度かき混ぜること。あと、直射日光の当たらない涼しい場所に置くこと。それだけです」
マルタはじっと壺を見つめてから、
「本当にこれで酢ができるんですか」
と半信半疑の顔で言った。
「二週間後に確かめてみてください。もし上手くいかなかったら、手順を書いた紙を置いていきますから、また試してみてください」
レオンは食技録から丁寧に手順を書き写した紙を何枚か作り、マルタに渡した。マルタはそれを大切そうに両手で受け取った。
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その日の昼過ぎ、燻製小屋に火を入れた。
村の外れから切り出したクルミの木のチップを使うと、甘みのある煙が漂い始めた。肉の切り方と並べ方、煙の温度の管理の仕方を実演しながら教えていると、村人が少しずつ集まってきた。
煙の匂いというのは不思議なもので、どんな場所でも人を引きつける。前世でも、キャンプ場の焚き火の煙は遠くからでも人を集めた。
燻製が仕上がりに近づいたとき、ガルトが声を上げた。
「レオン殿、あそこを見てください」
指さす方向に目を向けると、燻製小屋の裏手、薪が積まれた陰から何かが覗いていた。
小さな、赤茶色の何かだ。
レオンはゆっくりと近づいた。薪の隙間から覗いているのは、手のひらサイズの獣だった。キツネに似た顔と、大きな三角形の耳。尻尾は太くて、先端がほのかに温かみのある光を帯びている。全身が小刻みに震えていた。
「……炉狐か」
後ろからマルタが近づいてきて、小声で言った。
「炉狐ですよ。暖炉の傍に住む魔獣で、人に危害は加えませんが、近づくと逃げてしまうんです。でも今日は……燻製の煙の匂いに引き寄せられたんでしょうか」
レオンはしゃがんで、目線を低くした。炉狐はまだ震えながらこちらを見ている。よく見ると、右の前脚が不自然な角度になっていた。怪我をしている。
レオンは懐から小さな干し肉の切れ端を取り出した。前の村でもらったものだ。地面に置いて、少し後ろに下がった。
炉狐はしばらく迷ってから、恐る恐る近づいてきた。干し肉を鼻先で確かめ、パクリと食べる。それからもう一度レオンを見た。
「腹が減ってたんだろう」
レオンはもう一切れ出して、今度は手の平に乗せて差し出した。炉狐は少し考えてから、手の平に乗ってきた。温かい。尻尾の先から、やわらかな熱気がじんわりと伝わってくる。
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怪我の具合を見ると、右前脚の手首の辺りが腫れていた。骨折ではなく、捻挫に近いようだ。解毒スキルが反応した。かすかな毒の痕跡がある。毒のある植物を踏んだか、食べてしまったのかもしれない。
レオンはファルカス号の棚から薬草を取り出した。道中で採取したあの紫がかった草だ。解毒作用があると鑑定スキルが伝えていた。すり潰して湿布のようにして患部に当てると、炉狐は小さく鳴いた。
「痛かったか。もう少しの辛抱だ」
回復スキルが動いている感覚があった。ゆっくりとした、穏やかな力だ。劇的な回復魔法のようなものではなく、傷の治りを少し早める程度のものだが、今の炉狐には十分だろう。
「名前をつけてもいいか」
炉狐はレオンの膝の上で丸くなりながら、金色の目を細めた。否定はしていないらしい。
「ミゼル、はどうだ。前世でよく行っていたバルの名前だが」
ミゼルは一度だけ鼻を鳴らした。
「決まりだな」
その夜、ミゼルはファルカス号の工房スペースの隅で眠った。体温が高いのか、周囲の空気がほんのり温かくなった。レオンはそれに気づいて、少し考えた。
工房には小さなかまどがある。毎朝、火打ち石で火を起こすのがレオンの日課だったが、これが地味に時間がかかる。前世ならライターで一瞬だが、この世界にそんなものはない。
試しにミゼルに向かって
「かまどに火を点けてくれるか」
と言ってみると、ミゼルはむくりと起き上がり、かまどの口の前に座って、尻尾の先をすっと向けた。しばらくすると、尻尾の先端から細い炎がちろりと出て、薪に移った。
「……お前、本当に便利だな」
ミゼルはすまし顔でまた丸くなった。レオンは少し笑って、夜の作業に戻った。炉狐という名前の通り、火との相性が抜群らしい。食技録に「炉狐:火おこし可能、調理補助に使える可能性あり」と書き加えた。
──工房の火おこし。毎朝の小さな手間が、これで解消されるかもしれない。
旅の仲間が一匹増えた。
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三日目の昼に、村に行商人がやってきた。
ブレムという名の男で、塩を売りに来たのだという。レオンが屋台を出してスープを振る舞っていると、ブレムはファルカス号を珍しそうに眺めながら近づいてきた。
「旅の工房屋か。珍しいな。この村に何を売りに来た」
「売りに来たわけじゃないですよ。料理と保存食の技術を少し教えてきました」
ブレムの顔が微妙に変わった。
「保存食? 塩を使わない方法のことか」
「燻製と酢漬けですね。この村はリンゴが豊富だから、酢はいくらでも作れる。燻製小屋も昨日完成しました」
ブレムはしばらく黙ってから、
「それはいい話だ」
と言った。声のトーンは平坦だったが、目が少し細くなった。
レオンは気づいていた。ブレムが塩の売値を高く設定できたのも、この村が塩なしでは食材を保存できないからだ。その前提が崩れれば、強気の価格交渉はできなくなる。
ただ、レオンは何も言わなかった。代わりにスープをもう一杯、ブレムに差し出した。
「……なんで俺にくれるんだ」
「遠くから来たんでしょう。腹が減っているかと思って」
ブレムはしばらく黙ってスープを見てから、受け取った。一口すすって、また黙った。それからぼそりと言った。
「……うまいな」
それはブレム自身が考えることだ。商人が賢ければ、塩以外の価値ある商品を探し始めるだろう。この村の木工細工は品質が高い。それを他の村や町に売る仲介をすれば、ずっと大きな商売になるはずだ。
「この村の木工品、見ましたか? 窓枠の彫刻が素晴らしい。王都あたりで売ったら高値がつくと思いますよ」
レオンはそれだけ言って、スープをかき混ぜることに戻った。
ブレムは少し考えるような顔をしてから、村の方へ歩いていった。
二ヶ月後、メルヒ村の木工品が王都の市場に並ぶことになるのだが、それはまだ先の話だ。
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四日目の朝、レオンは出発の準備をした。
工房の道具を一通り確認し、食材の残量をチェックして、かまどの灰を掃除する。毎朝のこの作業が、レオンにとって旅の始まりのルーティンになりつつあった。ミゼルが傍でちょこんと座ってこちらを見ている。
「かまど、頼めるか」
ミゼルはさっと近づき、昨晩と同じように尻尾の先から細い炎を出した。薪がぱちりと音を立てて燃え始める。二秒もかからなかった。
「助かる」
火が安定したところで朝食の準備をした。昨日もらったリンゴを薄切りにして、残りの干し肉と一緒に炒める。リンゴの酸味が肉の旨みを引き出す。塩を少し加えると、食欲をそそる匂いが馬車の中に広がった。ミゼルが鼻をひくつかせて近づいてきた。
「お前の分もある。待ってろ」
ミゼルは座り直してじっと待った。行儀がいい。前世で飼っていたわけでもないのに、どこかペットと暮らす感覚に似ていた。
朝食を終えると、ガルトが馬車の前にやってきた。手に小さな木箱を持っている。
「餞別だ。旅の道具入れに使え」
受け取ると、しっかりとした重みがあった。蓋を開けると、中は丁寧に区切られた仕切りがいくつもあり、工具や瓶を収納できるように工夫されていた。蓋の裏には細かな木目模様の彫刻が施されていた。
「……これ、いつ作ったんですか」
「昨日の夜。大した手間じゃない」
大した手間ではないにしては、あまりにも丁寧な仕事だった。レオンは食技録を取り出し、「メルヒ村・ガルト作の工具箱」とページの端に書き添えた。ガルトは照れたように鼻を鳴らして、
「早く行け」
と言った。
ミゼルの脚はほぼ回復していた。薬草の効果と回復スキルのおかげで、腫れはほとんど引いている。小屋から出して地面に降ろすと、ミゼルはしばらくレオンを見上げてから、馬車の扉をひっかいた。
「乗っていくか」
ミゼルはまた鼻を鳴らした。
「グレイ、新しい仲間だ。よろしく頼む」
グレイは御者台からミゼルをちらりと見て、また前を向いた。特に歓迎も拒絶もしない。それがグレイのスタイルらしかった。
マルタが村の出口まで見送りに来た。昨日仕込んだリンゴ酢の壺を大切そうに抱えている。その隣に、ガルトも立っていた。その後ろに、数人の村人も顔を見せていた。
「二週間後が楽しみです、レオン殿。上手くできたら、村人みんなに教えます」
「うまくいきますよ。毎日かき混ぜることだけ忘れずに」
「ええ、それはもう」
マルタは壺を少し持ち上げてみせた。
「燻製小屋も、昨日さっそく使ってみました。ガルトたちが鹿を一頭仕留めてきてくれて……初めてにしては上手くできたと思います」
「それはよかった」
レオンは御者台からマルタを見た。
「一つだけ覚えておいてください。燻製は、失敗しても落ち込まなくていい。何度かやればコツがわかる。それだけです」
マルタはにっこりと笑った。
「百か国を旅した方の言葉は違いますね」
「失敗し続けた経験談なんですけどね、ほとんど」
マルタが笑い声を上げた。ガルトも、後ろの村人たちも、少し笑っていた。
「また寄ってくださいね。その頃にはきっと、美味しい酢漬けが食べられるようになっていますから」
レオンは笑って、手を振った。
ファルカス号が動き出す。御者台の隣に、ミゼルがちょこんと座っていた。体が小さいわりに存在感がある。何より、隣にいると暖かい。
「次はどこに行こうか」
ミゼルは答えない。ただ、金色の目で前方を見ていた。
食技録には、リンゴ酢の作り方と炉狐の生態が書き加えられた。さらに道中で採取した薬草の解毒効果も追記した。一冊目の帳面が、少しずつ厚くなっていく。
街道の先に森が見えた。地図によれば、その向こうに小さな町があるという。どんな食材があるだろう。どんな人がいるだろう。
旅は続く。まだ始まったばかりだ。
第2話目を投稿しました。
実際書いてみると、思った以上にレイアウトの調整がアナログな感じなので、
見やすいようなレイアウト調整を苦労していますが、のんびりと投稿していきます。




