第八十六話 建業の敵対的TOB(株式公開買付)
長江の関税収入を九割カットされ、兵の給与すら未払いになりつつある呉の都・建業。
市場では呉の独自貨幣への信用が完全に崩壊し、商人たちは取引の際、隠れて魏の「新魏通宝」を使い始めていた。
「……峻殿、呉の財務状況は完全に『債務超過』です。現在、孫権は手元の宝物庫を切り崩して兵を繋ぎ止めていますが、それもあと一ヶ月が限界でしょう」
魏の財務省副長官となった諸葛亮が、極秘に入手した呉の国家予算シートを峻に差し出す。
峻は、成都から許都へと戻った執務室で、最後の決済印を握りしめていた。
「……素晴らしい決算書です、諸葛亮殿。……これほど綺麗に『干上がった』市場は、買い叩くのに絶好のタイミングだ」
峻が命じたのは、兵を乗せた大船団の派遣ではなかった。
「新魏通宝」を限界まで積んだ、魏の「御用商人」たちの派遣である。
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峻は呉の全域に対し、前代未聞の布告を出した。
「――呉の将兵、および民に告ぐ。手元にある『呉の古い貨幣』を我が交易所へ持ってくれば、本日に限り、通常の三倍のレートで『新魏通宝』と交換(買収)する。……さらに、魏の国籍を取得(降伏)した者には、未払いとなっている呉の給与を、魏がすべて『肩代わり(救済)』して支給する」
これは、国家という名の巨大企業に対する、剥き出しの「敵対的TOB(株式公開買付)」だった。
呉の兵たちにとって、孫権への忠誠は、日々の生活を保証してくれるからこそのものだった。その生活を人質に取られ、さらに「魏が給与を保証する」と言われた瞬間、呉の水軍の防衛線は内側から完全に崩壊した。
「……バカな……。戦わずして、我が水軍が……兵たちが『株』を売るように魏へ寝返っていくというのか!」
孫権は、誰もいなくなった建業の宮殿で、自身の宝剣を握りしめたまま愕然と立ち尽くしていた。
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「――報告します! 呉の陸口砦、守備隊全員が魏の『再雇用プラン』に署名! 城門が開かれました!」
急報が響く中、峻はゆっくりと算盤を片付け、眼鏡を拭いた。
長江を渡る魏の軍勢は、武器を掲げていない。持っているのは、民に配るための米の俵と、新魏通宝の詰まった箱だけだった。
「……曹操様。これで天下のすべての帳簿が、一つに統合されました」
峻の傍らで、曹操が長江の向こうに広がる広大な南の土地を見つめ、静かに呟く。
「……峻。お前は本当に、一滴の血も流さずに、この壮大な乱世を『買い取って』しまったな」
「……いえ。私はただ、無駄な赤字(戦争)を止め、天下という巨大な組織を『健全化』したに過ぎません」
パチリ、と峻の算盤が、この長い乱世の「最終決算」を告げる、最後の音を響かせた。
事務屋の覇道。それは、武力による征服ではなく、数字による「世界の完全管理」という形で、ついに成し遂げられたのだった。




