第六十九話 不確定な合併
長坂坡の戦場から、
劉備は文字通り「無一文」で逃げ出した。
だが、峻の算盤によれば、
資産を失ったはずの劉備こそが、
今や市場で最も「高値」で取引される、
厄介な商品へと変貌していた。
「……峻殿、孫権の使いである魯粛が、
劉備と接触したとの報が入りました。
……ついに、南の二大勢力が手を組みます」
韓恢が、焦りを含んだ声で報告する。
峻は、接収したばかりの地図の上に、
二つの異なる色の石を置いた。
「……妥当な経営判断ですね。
……孫権という『豊富な資本』を持つ大企業と、
劉備という、
『関羽・張飛・諸葛亮といった超一流の専門職』
を抱えながら倒産寸前のベンチャー企業。
……両者が合併すれば、
我軍にとって最大の競合他社となります」
「……合併、ですか?」
韓恢は首を傾げるが、
峻は構わず木簡に予測値を書き込んでいく。
「問題は、彼らの『出資比率』です。
……プライドの高い孫権が、
敗残兵の劉備を対等に扱うはずがない。
……必ず、指揮権や利害の対立という
『組織の軋み』が生じます。……私はそこを突く」
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その時、曹操が豪快な足音と共に部屋へ入ってきた。
「峻! 孫権に最後通牒を送ったぞ。
……『八十万の軍勢で共に狩りをしよう』とな。
……これで、南の若造も腰を抜かすだろう」
峻は、曹操の言葉を聞いた瞬間、算盤を弾く手を止めた
。
「……曹操様。……その『八十万』という数字。
……虚偽記載としては少し、
度が過ぎませんか?」
「何がだ? 敵を威圧するには、
数字は大きい方が良い」
「……いえ、経営者の安易な数字の操作は、
現場の混乱を招きます。
……八十万という数字を敵が信じれば、
彼らは『死に物狂い』で団結します。
……一方で、我が軍の実際の兵糧と輸送力は、
その四分の一を支えるのが限界です。
……実態のない数字を振りかざすことは、
情報の信頼性を著しく損なう、
『粉飾決算』に他なりません」
峻の容赦ない指摘に、周囲の将軍たちが凍りつく。
だが、曹操は面白そうに鼻で笑った。
「……粉飾か。
……だが峻、戦とは騙し合いだ。
……お前の算盤が正しくとも、
天下の民は『八十万』という数字に震え上がる。
……恐怖こそが、最大のコスト削減だとは思わんか?」
「……恐怖は、持続性のない資産です。
……曹操様。
……私は、
この誇大広告が招く『反動』を計算しておきます」
峻は、赤壁という巨大な舞台に向けて、
独自の「損害引当金」を積み立て始めた。
南から吹く風が、少しずつ熱を帯び始めている。
それは、峻の帳簿を焼き尽くそうとする、
歴史の業火の前触れだった。




