第六十八話 十万の負債
劉備が引き連れる十万の避難民。
それは「仁義」の象徴とされるが、
峻の目には、行軍速度を極限まで奪う、
「巨大なデッドウェイト(死荷重)」
にしか見えなかった。
「……報告。
劉備軍、当陽付近。
速度はさらに低下。
時速一里(約4km)を切りました」
峻は、馬の背に揺られながら、手元の計算板を叩いた。
曹操が誇る精鋭、純州騎は今、
峻が算出した
「最短かつ最小消耗ルート」を疾走している。
「峻殿、間もなく追いつきます。
……ですが、十万の民を盾にされた場合
、騎馬の突撃力が削がれるのでは?」
並走する曹純が、懸念を口にする。
「……削がれるのは、彼らの『寿命』です」
峻は、前方の砂塵を冷徹に見つめた。
「十万の民が消費する水と糧食。
それを劉備軍の貧弱な補給線が、
支えきれるはずがない。
……彼らは今、逃げているのではない。
……自らの『仁義』という名の赤字に、
足元から食い潰されているのです」
峻が導き出した追撃のタイミングは、
劉備軍の疲労がピークに達し、
かつ「食料の在庫が尽きる」瞬間だった。
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長坂坡。
そこには、峻の計算通り、動けなくなった避難民と、
それを守りきれず混乱に陥った劉備軍の姿があった。
「……突撃。……ただし、深追いは禁物です」
峻の合図とともに、純州騎が雷鳴のごとく駆け抜ける。
かつてない混乱。
峻はその戦場を、高い丘の上から、
「資産の仕分け」をするように眺めていた。
「……劉備の妻子、確保。……輜重、接収。
……逃亡した将、一名。
……あの白い馬の将は、
計算外の武勇ですね。
……一人の働きで、
こちらの包囲網の効率が三割低下している」
それは、歴史に名高い趙雲の、
単騎駆けだった。
峻は、趙雲の動きを「誤差」として帳簿に書き込んだ。
「……ふむ。一人の武勇で覆せる数字には限界がある。
……曹純将軍、無理に追う必要はありません。
……ここでの目的は、
劉備の『組織としての再起能力』を、
完全に破砕することです」
劉備軍は壊滅した。
だが、その混乱の中で、
劉備本人はわずかな手勢と共に長江へと逃げ延びる。
「……逃がしたか」
追いついた曹操が、燃える戦場を見下ろして呟く。
「……いえ。彼は今、手持ちの資産をすべて失い、
裸同然で孫権の元へ転がり込むことになります」
峻は、眼鏡を直して冷静に告げた。
「……他人の帳簿に依存しなければ生きられない男は、
もはや脅威ではありません。
……さて、曹操様。
……次は、この戦場で得た『十万の民』という名の、
膨大な維持費を、どう利益に転換するか。
……その決算を始めましょう」
勝利の余韻に浸る間もなく、
峻は再び算盤を手に取った。
彼にとって、戦いの本当の難所は、
常に「勝った後」にあるのだ。




