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曹操軍の雑務係、気づけば天下統一に貢献していました  作者: 水原伊織


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第六十六話 湿り気の帳簿

南下を続ける十万の軍勢。


しかし、荊州けいしゅうに近づくにつれ、

軍の「歩留まり」は峻の計算を超えて、

悪化し始めていた。


「……報告。本日の落伍者、さらに四十名。

いずれも激しい下痢と発熱を訴えています」


峻は、湿り気を帯びた天幕の中で、

歪み始めた木簡を見つめていた。


北方の乾いた空気の中で研ぎ澄まされた彼の算盤も、

この南方のまとわりつくような湿気には、

物理的にも精神的にも狂わされそうになっていた。


「……峻殿、これは呪いです。

南の神が、我らの侵攻を、

拒んでいるのだと兵たちが怯えています」


韓恢かんかいが、

自身も額の汗を拭いながら報告する。


「呪いなどという、

不確かな言葉で片付けないでください」


峻は、苛立ちを隠さずに眼鏡を拭いた。

拭いても拭いても、レンズはすぐに曇る。


「……原因は水、あるいは空気中の不純物です。

兵たちが口にする水の『煮沸コスト』を惜しんだ結果、

より巨大な『兵力の欠落』という損失を招いている。

……これは人災です」


峻は直ちに、全軍の行軍規定を書き換えた。


それは、

武官たちからすれば「過保護」とも取れる、

徹底的な衛生管理の義務付けだった。


----


「……峻。兵たちに『生水を飲むな』

『常に体を拭け』だと? 戦をしに来たのか、

湯治に来たのか分からんぞ」


不満を漏らしにやってきたのは、

先鋒を務める将軍たちだった。


峻は、彼らの前に一枚の「損害予測グラフ」を突きつけ

た。


「将軍。


……このままのペースで病人が増えれば、

長江に辿り着く前に、貴方の部隊は、

『戦闘不能』という名の破産を宣告されます。


……私の指示に従うコストと、

兵の三割を失う損失。


……どちらが軽いか、

計算できないほど愚かではないでしょう?」


峻の冷徹な正論に、将軍たちは言葉を失った。


峻が行っているのは、慈悲ではない。


十万という巨大な「資本」を、

いかに目減りさせずに目的地まで届けるかという、

極限の資産防衛だった。


----


深夜。


峻は、郭嘉の天幕を訪れた。


郭嘉の咳は、以前よりも深くなり、

その帳簿(余命)が削り取られているのは、

誰の目にも明らかだった。


「……郭嘉殿。

貴方のための『特製薬』の調達予算を組みました。

……勝手に死なれては、私の計算が狂います」


「……ははっ。

お前にしては、ずいぶんと、

私情の混じった予算だな、峻」


郭嘉は、青白い顔で力なく笑った。


「私情ではありません。

……貴方の知略を失うことは、

我が軍にとって十万の兵を失うよりも大きな

『無形資産の毀損』ですから」


峻は、湿った夜風を遮るように、

天幕の入り口を固く閉じた。


前方に広がる長江。


その巨大な水面を前に、

峻はかつてないほどの、

「見えない数字」との戦いを予感していた。


(……赤字は、一分いちぶも許さない)


事務屋の意地が、

南の湿潤な闇を切り裂こうとしていた。

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