第六十四話 物価の攻防
旧袁紹領の都・鄴。
峻が導入した「建設作業員としての雇用」により、
街は活気を取り戻しつつあった。
だが、その裏で峻の帳簿には、
無視できない「不穏な数字」が刻まれ始めていた。
「……米一石あたりの価格が、
三日で一割上昇。
……さらに塩と布の流通量が、
不自然に絞られていますね」
峻は政庁の奥、
暗い部屋で無数の市場報告書を突き合わせていた。
領土が安定し、人々に「給与」という、
現金が渡り始めた矢先、
それを見計らったかのように、
物資の価格が跳ね上がったのだ。
「峻殿、
市井では不満が高まっています。
……『峻様の給与は上がったが、買えるものが減った。
これでは袁紹の時と変わらない』と」
韓恢が苦渋の表情で報告する。
峻は眼鏡を指で押し上げ、
冷徹な視線を帳簿に向けた。
「……原因は明白です。
地元の豪商たちが物資を買い占め、
意図的に『供給不足』を作り出している。…
…彼らは、私が作った新しい経済(帳簿)の隙を突き、
利益を最大化しようとしているわけです」
これは、剣や矢では解決できない戦いだった。
無理に価格を統制すれば、
物資は闇市へ流れ、さらに高騰する。
それは事務屋として、最も「美しくない」結末だった。
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翌日、峻は鄴の主要な商人たちを招集した。
広間に集まったのは、贅を尽くした衣を纏い、
不敵な笑みを浮かべる商人たち。
彼らは「小役人の峻」が、
自分たちの首根っこを掴めるはずがないと、
高を括っていた。
「……峻殿、我らも商売ですのでな。
……戦後で物流が滞れば、
値が上がるのは理の当然でしょう?」
一人の老商人が、白々しく肩をすくめる。
「ええ。……ですから、
私も『理の当然』に従うことにしました」
峻は、一枚の巨大な布を商人たちの前に広げた。
そこには、過去三ヶ月にわたる彼らの「取引記録」と、
彼らが密かに隠し持っている「倉庫の所在地」が、
地図と共に詳細に記されていた。
「……なっ!? なぜこれを……!」
「私は事務屋です。
……不自然に消えた物資が、
どの帳簿の裏側に隠されたか。
……その痕跡を辿るのは、
戦場で伏兵を見つけるよりも容易いことです」
峻は冷たく言い放ち、
最後の一行を指差した。
「――本日より、曹操軍が接収した、
『袁紹の軍糧蔵』の一部を解放し、
市場価格の半値で放出します。
……諸君が抱えている在庫が紙切れになる前に、
適正な価格で売り抜くことをお勧めしますよ。
……さもなければ、
諸君の帳簿は本日をもって『破産』となります」
沈黙が広間を支配した。
峻は、武力による没収ではなく、
「市場への介入」という数字の暴力で、
商人たちの退路を断ったのだ。
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「……相変わらず、人使いが荒いですね」
夕暮れ時、市場に米が溢れ、
価格が急速に安定していく様子を眺めながら、
峻は一人呟いた。
その背後で、郭嘉が面白そうに眺めている。
「……峻。お前、商人の財布の中身まで、
透視できるのか?」
「透視ではありません。……ただの『消去法』です」
峻は、新しくなった市場の物価指数を、
満足げに帳簿に書き加えた。
事務屋の戦いは、領土を広げることではない。
広げた領土の「数字」を、
民の一人一人が享受できるように整えること。
(……誤差、零。
……これで、次の遠征予算が確保できました)
峻の算盤は、すでに南の大河
――長江の向こう側を見据えていた。




