第二十六話 商人の仮面
峻は囲まれたまま、荷車の円の内側へ通された。
視線が刺さる。
護衛たちは武器を下ろしていない。
いつでも斬れる距離。
(逃げる段階は過ぎた)
ならば――観察。
峻は歩きながら周囲を見る。
荷車の配置。
武具箱の数。
見張りの位置。
数える。
癖のように。
中央には簡素な天幕が張られていた。
商隊の長の席。
先ほどの男が先に入り、振り返る。
「どうぞ、“軍の目”殿」
峻は無言で中へ入った。
卓。
地図。
酒器。
商人というより、軍議の場。
男は腰を下ろした。
「名乗ろう。私は盧景。しがない商人だ」
しがない、という言葉が空虚に響く。
峻は答えない。
盧景は楽しそうに笑った。
「警戒は当然だ。だが安心しろ、今は殺さぬ」
“今は”。
言外の条件が重い。
「なぜ捕らえた」
峻が先に口を開いた。
沈黙は主導権を渡す。
盧景は杯に酒を注ぎながら言う。
「理由は二つ」
指を一本立てる。
「一つ。君は賢い」
もう一本。
「二つ。曹操が君を重く見ている」
酒を差し出す。
峻は受け取らない。
盧景は気にせず続けた。
「南倉庫の件。実に見事だった」
情報が早すぎる。
つまり――
(本営に耳がある)
背筋が冷える。
盧景は峻の表情を楽しむように観察した。
「気づいたか?」
「……軍内に協力者がいる」
「“いる”ではない」
盧景は微笑む。
「“多い”のだ」
言葉が静かに落ちた。
峻は黙る。
否定材料がない。
盧景は地図を広げた。
補給路。
倉庫。
渡し場。
赤い印がいくつも打たれている。
「戦は金で動く」
指で印をなぞる。
「兵は食わねば戦えぬ。将は報酬を欲する。商人は機会を逃さぬ」
視線が峻へ向く。
「我々は“流れ”を整えているだけだ」
峻は低く言った。
「盗みだ」
盧景は首を振る。
「違う。再分配だ」
笑み。
「曹操の軍は強すぎる。均衡が崩れる」
その言葉に、峻は初めて感情を動かした。
「敵に武具を流している」
「敵?」
盧景は肩をすくめた。
「この乱世で、誰が敵で誰が味方だ?」
答えはない。
それが乱世。
盧景は身を乗り出した。
「さて、本題だ」
空気が変わる。
「峻殿。君は数字を見る男だ」
頷きも否定もしない。
「なら理解できるはずだ。曹操の覇業は長く続かぬ」
静かな断言。
「強すぎる国は、必ず反発を生む」
峻は言った。
「だから裏切る?」
「違う」
盧景の目が鋭くなる。
「生き残るのだ」
沈黙。
焚き火の音だけが聞こえる。
盧景はゆっくり言った。
「君を誘っている」
――来た。
予感していた言葉。
「こちらへ来い」
卓の上に小袋が置かれる。
重い音。
金。
「帳簿も、補給も、すべて任せよう」
甘い条件。
だが。
峻の頭に浮かんだのは、曹操の言葉だった。
“軍の目だ”
峻は小袋を見ない。
代わりに地図を見る。
印の数。
配置。
流通量。
そして理解する。
(この規模……一商隊ではない)
背後にさらに大きな存在がいる。
峻は静かに言った。
「断る」
護衛の手が一斉に武器へ伸びた。
盧景は手を上げて制する。
「理由は?」
峻は答える。
「数字が合わない」
盧景が眉を上げる。
「ほう?」
「あなた方は利益を語るが、損失が大きすぎる」
峻は地図を指した。
「補給線を乱せば戦が長引く。戦が長引けば物流は不安定になる。商人にとって最悪だ」
盧景の笑みが、ほんのわずか消えた。
「つまり?」
「あなたは商人ではない」
沈黙。
空気が凍る。
峻は続けた。
「本当の目的が別にある」
長い静寂。
そして――
盧景は、ゆっくり笑った。
先ほどまでとは違う笑み。
仮面が一枚剥がれた笑み。
「……やはり面白いな、君は」
立ち上がる。
「では予定を変えよう」
護衛たちへ視線。
「客人に、少し危機を理解してもらおう」
刃が抜かれる音。
峻の背筋に冷汗が流れる。
盧景は穏やかに言った。
「安心しろ。殺しはせぬ」
一拍。
「逃げられれば、だが」
峻は悟った。
交渉は終わった。
次は――試験。
生き残れるかどうかの。
天幕の外へ連れ出される。
夕日が赤く地面を染めていた。
そして。
峻の“逃走”が始まろうとしていた。




