第二十三話 倉庫の闇、交わる視線
足音が止まった。
倉庫の外。
扉のすぐ向こう。
峻は兵糧袋の陰に身を沈めたまま、呼吸を抑える。
胸の鼓動だけがやけに大きい。
紙片を握る手に汗が滲む。
――落ち着け。
数字を見る時と同じだ。
状況を分解する。
人数。
距離。
逃げ道。
入口まで十歩。
裏口はない。
見つかれば、言い訳は効かない。
扉が軋んだ。
ゆっくりと開く。
朝の光が差し込み、影が床へ伸びた。
「……誰もいないな」
低い声。
一人ではない。
続いて別の足音。
「記録は書き換えてある。問題ないはずだ」
峻の背筋が凍る。
(やはり……)
声の主たちは倉庫へ入ってきた。
兵糧袋の隙間から、足元だけが見える。
軍靴。
そして衣の裾。
将軍ではない。
だが一般兵でもない。
補給部の装束。
「昨夜の分は、もう運び出したのか」
「ああ。川下へ。例の商隊が受け取る」
峻の指に力が入る。
横流し。
確定だった。
「だが妙だな」
別の男が言った。
「昨日、帳簿を見ていた奴がいるらしい」
空気が変わる。
「……雑務係か?」
「名は、峻とか言ったか」
心臓が強く跳ねた。
足音が近づく。
兵糧袋の列の間を歩いてくる。
(まずい)
峻は静かに視線を動かした。
右――袋の山。
左――影が深い。
奥――逃げ場なし。
計算する。
見つかる確率。
逃走成功率。
最悪の場合。
男の足が、すぐ目の前で止まった。
「念のため確認する。痕跡は残すな」
しゃがむ気配。
峻は歯を食いしばった。
――今だ。
兵糧袋をわずかに押す。
重心が崩れた袋が傾き、次の瞬間。
ドサッ!!
袋が崩れ落ち、穀物が床へ散らばった。
「何だ!?」
男たちの視線がそちらへ向く。
峻は反対側へ滑り出た。
足音を殺し、一気に入口へ。
だが――
「誰だ!」
気づかれた。
振り向いた男と目が合う。
一瞬。
互いに止まる。
その顔を、峻は知っていた。
本営補給官、副官――韓恢。
相手の目が見開かれる。
「貴様……!」
峻は答えない。
走った。
倉庫を飛び出す。
背後で怒号が響く。
「捕まえろ! 生かして帰すな!」
砂を蹴る音が追ってくる。
馬までの距離、二十歩。
遠い。
だが止まれば終わる。
峻は走りながら考える。
(証拠はある)
握りしめた紙片。
これを届ければ――
軍が動く。
十歩。
背後の足音が迫る。
誰かが剣を抜いた音。
五歩。
馬がいななく。
峻は手綱を掴み、跳び乗った。
「止まれ!」
矢が飛ぶ。
風を裂く音が耳元をかすめた。
峻は馬腹を蹴る。
馬が疾走する。
川沿いの道を駆け抜ける風が頬を打つ。
背後の怒号が遠ざかっていく。
だが安心はできない。
(顔を見られた)
もう後戻りはない。
これは捜査ではない。
――戦だ。
峻は竹簡と紙片を胸に押さえた。
曹操の言葉が脳裏に響く。
「軍の目だ」
ならば。
見届ける。
軍の中に潜む敵を、すべて。
朝日が完全に昇り、影が消えていく。
だが峻の背後では、
新たな闇が確かに動き始めていた。




