第二十二話 静けさの中の裏切り
本営を出た瞬間、空気が変わった。
朝日が昇り始めているのに、胸の奥は重い。
曹操からの密命――
「内通者を見つけろ」。
誰にも話せない。
誰も信用できない。
(……数字だけが頼りだ)
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竹簡を抱え、補給幕舎へ向かう。
兵たちが道を空けた。
昨日とは違う視線。
敬意と、わずかな警戒。
「峻殿、おはようございます」
若い帳簿係が頭を下げる。
だが、その目の奥に揺れるものがある。
(……誰が敵でもおかしくない)
幕舎に入ると、空気が止まった。
帳簿係たちが一瞬だけ動きを止め、すぐに仕事へ戻る。
だが視線だけが残る。
「本日の記録です」
差し出された竹簡を受け取る。
手がわずかに震えている。
(緊張……か? それとも)
峻は表情を変えず、竹簡を開いた。
数字が並ぶ。
搬入量、搬出量、保管量。
一見、正常。
だが、静かすぎる。
誤差がない。乱れがない。
昨日の戦闘後のはずなのに、数字が“綺麗すぎる”。
(……誰かが整えている)
峻は竹簡を閉じた。
「南倉庫の確認に行く」
「えっ、今ですか?」
帳簿係が驚く。
「今だ」
峻は即答した。
数字の静けさは、誰かの意図。
ならば、その意図を追う。
幕舎を出ると、夏侯惇が立っていた。
「どこへ行く」
「南倉庫です」
「一人でか?」
「……はい」
夏侯惇はしばらく峻を見つめた。
値踏みするような視線。
やがて鼻で笑う。
「なら馬を使え。歩きでは遅い」
馬の手綱を渡される。
「将軍、同行は」
「しない」
即答だった。
「丞相の密命だろう。俺がつけば、敵が潜る、それに」
「それに?」
「俺が動けば、将軍の調査になる。お前が動くから意味がある」
峻は息を呑んだ。
(……見抜かれている)
夏侯惇は背を向ける。
「だが、死ぬなよ。お前はまだ使い道がある」
それは励ましではなく、戦場の現実だった。
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峻は馬に乗り、南へ向かう。
川沿いの道。
昨日、囮作戦で通った場所。
だが今日は違う。
敵の気配はない。
静かすぎる。
(……また静けさか)
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南倉庫に到着し、馬を降りる。
周囲を見渡す。
見張りの姿はない。
扉に手をかけ、ゆっくり押し開けた。
冷たい空気が流れ出る。
乾いた穀物の匂いが鼻を刺した。
棚に並ぶ兵糧袋。
壁に掛けられた記録板。
静まり返った空間。
(……これは)
記録板の印が、微妙に新しい。
昨日の戦闘後に書き換えられた跡。
峻は指で触れる。
墨がまだ完全に乾いていない。
(誰かが……夜のうちに来た)
倉庫の奥へ進む。
足跡。
土の乱れ。
荷車の跡。
そして、棚の裏、暗がりの中に、わずかに白いものが見えた。
峻は身を屈める。
小さな紙片だった。
拾い上げる。
そこには、見覚えのある印。
(本営の……補給官の印)
ただの印ではない。
命令系統に直接つながる証だ。
背筋が冷えた。
補給官。
軍の中枢に近い者。
(内部協力者は、ここにいた)
その瞬間だった。
外で、砂を踏む音がした。
一人ではない。
複数。
峻は反射的に周囲を見回す。
入口までの距離。
積み上げられた兵糧袋。
身を隠せる影。
紙片を握りしめ、息を殺す。
足音が近づく。
(……来た)
敵は近い。
思っていたより、ずっと。
足音は、迷いがなかった。
この倉庫の中を知っている歩き方だ。
(……内部の人間だ)




