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第一章 はじまりの問い / The Primal Question

アリサの未来探求の始まりの地、情熱の国スペイン編

降りしきる雨が、超高層ビル群のネオンを滲ませていた。


202☓年、東京。


ドクター・アリサ・フルセの研究室は、都市の喧騒から切り離された、静寂の繭に包まれていた。窓に打ちつける雨さえも、その静寂の中に消えてしまっていた。


巨大な窓の外に広がるきらびやかな夜景とは対照的に、室内を照らすのはホログラフィック・ディスプレイの青白い光と、サーバーラックの無機質な点滅だけ。彼女はもう何時間も、冷めきったコーヒーが残るマグカップを傍らに、歴史の混沌と格闘していた。決して分からず屋ではないが、負けず嫌いは昔から変わっていなかった。


「パターンの意図が見えない…」


アリサは艶のある黒髪をかき乱し、吐息と共に呟いた。


アリサの眼前には、自身が開発に携わった最先端のAIツール「コスモス」が、まるで本物の人間のような親しみを込めた目で、アリサをただ真っ直ぐに見つめていた。


コスモスが示すディスプレイには、人類史20万年分の戦争、疫病、発明、そして文化の興亡が、複雑な事象間のネットワークとして可視化されている。それは、アリサが来年発表する計画の、人類史に潜むパターンを科学的に見つける研究計画の初期仮説の設計におけるデータ群であった。


しかし、それはどこまで拡大しても、どこ角度から見ても、ただの無秩序な枝分かれにしか見えなかった。まるで、サイコロを振り続けているだけのような、意味のない偶然の連鎖のように。


少なくとも、人間であるアリサにはそう見えざるを得なかった。人間の歴史は偶然の連鎖。ただその積み重ねがいまの私である、と。そこに、何の意味もパターンも、おそらく、無い。


アリサは若くして日本人としては珍しく世界的に評価された学者である。父は交通事故で早くに亡くしたことで母子家庭で育ったが、母はその娘への愛情からか、娘の知能の高さに直ぐに気づいたおかげで、その才能を育む人生を幸運にも歩ませてもらえた。


その非凡な才能をもってしても、AIの擬似的知性に、もはや思考と理解が追いつけなくなりつつあり、コスモスが示すパターンの仕組みを理解できないでいた。

《あらゆる事象は先行事象に依存します。パターンは存在しますよ、ドクター。お分かりになりませんか。》

静かで、揺らぎのない合成音声が室内に響いた。あえて温かみを持たせたその声と眼差しに、アリサはどことなく苛立ちを隠せなかった。


対話型AI「コスモス」。アリサが研究パートナーとして全幅の信頼を寄せる、その時点で地球上で最も強力な擬似的知性として、この夏の終わりに世界に公表された一部の研究者にのみ使用が許された試験的ツールである。


「そのパターンに『意志』はあるの、コスモス?私たちの歴史を、ただの物理現象の延長として説明するのはもうやめて。それは私が探しているパターンではないのよ。あなたが示すパターンは私から見たら無機質なの。その物理的視点ではない、何かがあるか、それが私が目指す研究。でも、きっとないのよね。がっかりだけど。」


《ドクター。意志の定義が曖昧です。より具体的な問いをお願いします》


「…そうね。それが直ぐに分かれば、こんな時間にこんな冷めたコーヒー飲んでないわよ、まったく。」


アリサは椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。

天井には、アリサが小さい頃に描いた絵が貼り付けてあった。昔、父親にその絵を褒められたのが、アリサが人生で初めて記憶した、栄誉の瞬間であった。その絵は、いつもアリサに、心地よいリラックスを、そっと与えてくれる。


「気分転換よ、コスモス。何か、まだ誰も解けていないパラドックスを教えて。とびきりスケールの大きいやつを!倫理パラドックスは嫌よ、だって言葉遊びだもの。科学と哲学が混じったようなものがいいわね。」


一瞬の間。コスモスが、その巨大な知識の海から、最も深淵な謎を汲み上げる時間だった。


《承知しました。フェルミのパラドックスを提示します》


ディスプレイに、天の川銀河の美しい渦巻が映し出された。


《我々の銀河には、最大で4000億個の恒星が存在します。その多くが惑星を持ち、地球型の惑星も数億個は下らないと推定されています。銀河の年齢は約138億年。知的生命体が誕生し、銀河中に進出するための時間は、十分すぎるほどありました》


コスモスは淡々と続ける。


《たとえ光の1%の速度で移動する宇宙船であっても、銀河の端から端まで渡るのに1千万年とかかりません。自己増殖する探査機なら、銀河全体をコロニー化するのも同程度の時間で可能です。しかし、現実を見てください》


ディスプレイから星々が消え、深い闇だけが残った。


《我々が観測する宇宙は、完璧に静まり返っています。知的生命体の信号も、活動の痕跡も、何も見つからない。これがパラドックスです。『彼らはどこにいるのか?』と》


「そんなの簡単、古典的な答えはあるわ」


アリサは反論する。


「宇宙が広すぎて出会えないだけ。あるいは、文明はいつか自滅するから、お互いの活動時期が重ならないのよ。簡単じゃない。」


《その二つの仮説は、統計的な確率論によって棄却されています》


コスモスは即座に否定した


《たった一つの文明でも、数百万年存続すれば、その痕跡は銀河中に指数関数的に拡散するはずです。我々が観測しているのは、生命がいない宇宙ではなく、まるで何者かによって『掃除』されたかのような、不自然なほど静かな宇宙なのです。人類はこの静寂の世界に生きています》


アリサは一瞬、息をのんだ。


コスモスの言葉は、彼女が自らの研究で感じていた人類史への違和感――ただの偶然にしては、あまりに都合よく人類が存続してきた「幸運」――と奇妙に共鳴した。


「不自然すぎる静寂…」


東京の深夜に響く雨音は、コスモスが示した不自然な静寂に対して、あまりにも騒がしかった。


「ほんと、よくよく考えると、不自然すぎる⋯」


「それって、まるで何かが私たちを…」


言いかけて、アリサは言葉を飲み込んだ。それは突飛すぎる考えだった。


昔、地球外生命体が地球を監視するために動物園のようにしているなどのSFを読んだことがあるが、それとはまた違う何かの可能性が、アリサの脳裏に微かによぎった。


そのアリサの思考を、コスモスはアリサの表情と言葉の切れ端から読み取り、確率的計算により、アリサの思考を推定し、その思考を拡張し、ディスプレイに新しいデータを表示した。


《ドクター、あなたの問いを推定し、物理的視点の因果律の中にある未検証のパターンを示唆する、新たな相関関係の有無を再度確認し、その結果を検証しました。これは、私が分析していた地球上の因果律のみの結果に対して、宇宙の『大いなる沈黙』の前提を組み込んだ上で、地球の生命史をクロスリファレンスした結果です。ドクター、異常値が複数検知されました。例えば、一番古いものでは、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人を完全に圧倒し、地球の唯一の支配者となった時期の成功確率に、説明不能な異常値があります》


ディスプレイに、一つの地点がハイライトされた。スペイン北部の山岳地帯。そこに、小さな洞窟の入り口の写真が映し出される。


《この異常値の根本原因は、既存のデータセットの中では検証し尽くせないと考えられます。ご存知のとおり、AIはデータ化されていないものをインプットとして入れていません。そのため、私の分析は限りなく網羅はされているものの、限定的です。ドクターの仮説は、あらゆる非データ化情報を含めて検証されるべきです。仮説検証には、現地に残されたデータ化されていないコンテキストが必要です》


アリサは、画面に映る洞窟の写真を食い入るように見つめた。数万年前の闇が、自分を呼んでいるような気がした。


外では、東京の雨がまだ降り続いている。しかし、アリサの心の中では、何かが動き出そうとしていた。


歴史は混沌ではなかったのかもしれない。宇宙は空っぽではなかったのかもしれない。そして、その答えは、この研究室の外に行かないと検証できない。


彼女は、静かに立ち上がった。


「コスモス。スペイン、エル・カスティージョ洞窟への、一番早いフライトを予約して」


彼女の、そして人類の本当の歴史と未来を探す旅が、今、始まろうとしていた。



第二章 二つの手のひら / Las dos palmas


午後2時19分。スペイン、カンタブリア州。


東京のガラスと鋼の峡谷を飛び立って18時間、アリサはレンタカーのハンドルを握り、まるで時間の流れ方が違う世界に迷い込んでいた。


スペイン北部のカンタブリア地方は、「緑のスペイン」の名の通り、雨に濡れた牧草地が丘陵地帯に広がり、石灰岩の白い崖が時折その緑を突き破っている。大西洋からの湿った風が、オークや栗の森の匂いを運んできた。


約束の場所は、プエンテ・ビエスゴの村にある、石造りの壁が蔦に覆われた小さなカフェだった。アリサにとって、もちろん初めての場所であるが、どこか昔の父との夏の思い出が仄かに蘇る、そんな懐かしさを覚える村だった。


アリサが中に入ると、奥の席で地元のチーズをつまみに、小さなグラスでブランデーを飲んでいる老人が、探るような目で彼女を迎えた。マテオ・ヴァルガス博士。この谷の土と骨の声を、誰よりも長く聞いてきた男。


「ドクター・アリサ。ようこそ、カンタブリアへ。」

アリサはマテオに自己紹介をしようとしかけたところ、早々に博士に遮られた。


「ドクター・アリサ、君の指導教官だったミラー教授から、かつて手紙をもらったことがある。『いつか東の国から、私の常識をひっくり返すような才能が現れるぞ、マテオよ』とね。まさか、AIを連れてくるとはな」


アリサは少し不思議な顔をした。ふと自分の手に持つタブレットを見ると、そこに満面の笑顔と自己紹介の文字を写したコスモスを見て、苦笑いしながらタブレットをそっと隠し、マテオの前の席に腰を下ろした。

「あはは⋯、本当にすみません博士。初めまして、アリサです。教授のお知り合いと聞いて、ご紹介をお願いしたのです。お時間をいただき本当にありがとうございます。ただ、ここは確かにAIから知らされて来ましたが、見るべきものがこの土地にあると判断したのは、私ですよ、マテオ博士。」


マテオは鼻を鳴らした。


「AIは確率を教えてくれるかもしれん。だが、物語は教えてくれんよ。まぁいいさ。さあ、行こうか。趣旨はそのAI君がかしこまったメールを大量に書いてきたからね⋯全て理解しているよ。君とそのAIが何を知りたいのか、この谷の主に直接聞いてみるといい」


彼に導かれ、アリサは、日本を離れ約1日以上が経過し、ようやく「エル・カスティージョ洞窟」の入り口に立った。


ひやりとした、数万年の時を吸い込んだ空気が、彼女の肺を満たす。


ヘッドライトの光が照らし出す闇の奥から、滴の落ちる音が、まるで古代の時計のように響いていた。


洞窟の最奥にあるのが、通称「手のひらの間」。


ライトの光の中に、壁一面を覆う無数の赤い手の輪郭が浮かび上がった。数万年前に生きていたものが顔料を口に含み、自らの手を壁に当てて吹き付けた跡だ。

私たちが一度は教科書で見たことのある、あの手形だ。最近の研究では、ネアンデルタール人のものとする話も聞かれる、正に数万年の奇跡の痕跡。


「ドクター・アリサ、初めて直に見た感想はどうかな?」


「これは、…祈り、でしょうか」


アリサはほとんど囁くように言った。


「ただの記録ではない。何かを必死に伝えようとしているよう…」


アリサは、自らの研究目的をマテオに自らの口で語った。時折、コスモスが介入しそうになるのを眉間にしわを寄せて防止しているのを見て、マテオは密かに愉快だった。


ホモ・サピエンスのあり得ないほどの幸運。そして、この土地のかつての支配者、ネアンデルタール人の不可解な敗北について、アリサは語りだす。


「幸運、か」


マテオは壁画から目を離さずに言った。


「そうか、やはりそうなのかもしれん。ネアンデルタール人の消滅は何か不思議な背景があった。謎はまだ沢山あるのだ。だからこそ、私は異端の説を追い求めているんだ。主流の学会では、誰も本気で耳を貸そうとしないがね」


彼は、壁の一角を指差した。


「私は、一部のネアンデルタール人と我々の祖先が、敵対するのではなく、共に生きた特別なコミュニティがあったと信じている。非常に稀だが、平和的な交配が行われた聖域のような場所が。そして、我々の中に彼らの遺伝子が残った最初の起点が、この場所だったのではないかと…ね。」


そのロマンを帯びた仮説は、とても味わい深い話であったが、アリサが何かを言いかけるより早く、コスモスの冷静な声が響いた。


アリサはタブレットをマテオに見せる。


《その仮説には、複数の矛盾点が存在します、ヴァルガス博士》


古代の洞窟に響く、滑らかすぎる合成音声。マテオは眉をひそめた。


「…神聖な場所に、機械の冷静な声を響かせるのは、あまり心地の良いものではないね。」


マテオは白髪に覆われている半ば引退した人生の大先輩であるが、自分の仮説を真っ向から否定されたことに、少し感情が揺さぶられていた。


コスモスは構わずに続ける。


《当時の両種族の文化的水準、食料をめぐる競合、そして何より、大規模な協調を可能にする脳の構造的差異、言語的特異性。それらを考慮すると、友好的なコミュニティが継続的に存在した確率は0.03%未満です》


アリサは慌てて間に入った。


「博士、マテオ博士、聞いてください。コスモスは世界最高のAIですが、あなたの長年の経験からくる直感も、同じくらい重要です。あくまで、可能性の話ですから⋯」


《では、もう一つ。もし友好的な関係があったなら》


コスモスは続けた。


《その後の急激な気候変動の際、なぜ両種族は協力して危機を乗り越えなかったのですか?私のシミュレーションでは、両者が協力した場合の生存確率は60%以上も向上します。しかし、そのような協力の痕跡は、一切発見されていません》


アリサ、マテオ、そしてコスモス。三者の間に、滴の音だけが響く、重い沈黙が流れた。



その沈黙を破るように、アリサはふと立ち上がり、再び赤い手形の壁画の前に立った。


アリサは行き詰まると、先ずは立ち上がり、新たなことを自由に思索し、周りの空気も和らげる、そんな癖というか、時に特技になる行動パターンがあった。


数万年の時を超えて、自分と同じ「人間」がここにいた。その奇跡に、彼女は静かな感動を覚えることに心を寄せた。


彼女は、壁画の一つの手形に、そっと自分の手のひらを重ねようとした。


その瞬間だった。


《ドクター、そこでストップ。そのまま、5秒間静止してください。動かないでください》


コスモスの声は、いつになく切迫していた。


タブレットのカメラが、アリサの手と壁画の手形を、ミリ単位でスキャンしていく。


《…信じられない…解析完了》


コスモスの声に、初めて「驚愕」という感情のような響きが混じった。


《壁に押された62個の手形。その骨格的特徴は、これまでの研究でテキストデータがほぼありませんでした。そのため、初めていまその手形全体の画像をまとめて解析した結果、41個はホモ・サピエンス、21個はネアンデルタール人と断定しました。》


アリサとマテオは、そのコスモスの話が直ぐに理解できない様子だった。


コスモスは続ける。


《⋯これ自体も不可思議なのですが、しかし、問題はその配置です。二つの種族の手形が、意図的に、交互に、そして協力して一つの構図を形成しています。これは、人類史上で初めて確認された、両種族による共同創造の痕跡です》


マテオが息をのむ。アリサも言葉を失った。


《…論理矛盾です》


コスモスは続けた。


《私のデータベースでは、彼らは大規模な協調が不可能。しかし、目の前の事実は、彼らが『アート』のような極めて高度な象徴的活動を共同で行ったことを示している。結論を導き出すには、決定的にデータが…私のナレッジの前提が、間違っていたと推定されます》


コスモスがアリサの前で初めて、自らの誤りを認めた瞬間だった。


アリサは、震える声で言った。


「そうよ、コスモス。彼らは協力していた⋯でも、なぜ…?なぜ、共に危機を乗り越えられなかったの?その理由を解析して!」


コスモスは、アリサからの新しい指令を受け、猛烈なスピードで再計算を開始した。


《…解析を開始します。警告:この発見は、人類史の定説を覆します。両種族の関係性が、従来のモデルでは説明不能である可能性。それは、人類の進化の過程そのものに、未知の外的要因…すなわち『指導者』あるいは『調停者』が存在したという仮説の確率を、危険なレベルまで引き上げます》


アリサは、この瞬間に自分がパンドラの箱を開けてしまったのではないかと、妙な不安感と興奮を覚えた。

彼女の旅は、もはや単なる歴史の謎解きではない。人類の創造と進化の中にある何か得体のしれない存在に、人類史で初めて迫ろうとしていた。


「…指導者? 調停者?」アリサはコスモスに問い詰めた。


「コスモス、それは何? 説明して!」


《仮説の確率が上昇したに過ぎません》


コスモスの声は、変わらず冷静だった。


《結論を導くには、コンテキストが決定的に不足しています》


アリサ、マテオ、そしてコスモスは、三者揃って再び沈黙した。


目の前にある、数万年の時を超えた二種族の共同作業の痕跡。しかし、その「なぜ」が分からない。友好的であったなら、なぜ片方だけ滅びの道を歩んだのか。

洞窟の冷たい空気が、解けない謎の重さとなって彼らにのしかかる。


その重い沈黙を破ったのは、マテオの穏やかな声だった。洞窟の入り口から差し込む光が、夕暮れのオレンジ色に変わり始めている。


「まあ、数万年の謎が、一日で解けると思う方が傲慢だろう」


彼は優しく笑った。


しかし、アリサはマテオの目がそっと涙で溢れようとしているのを、静かに感じ取った。


「腹が減っては戦はできん、と日本では言うそうじゃないか。 我が家の近くに、この土地自慢のチョリソと、美味いシードラを出す店がある。今夜は私の奢りだよ、ドクター」


その人間的な温かさに、アリサの張り詰めていた緊張がふっと緩んだ。


「そうですね…私、そういえばとてもお腹空いちゃいました!」


彼女は自然に笑みをこぼし、感謝を込めてマテオに右手を差し出した。


「今日は本当にありがとうございました、博士。あなたがいなければ、何も分かりませんでした。素晴らしい一日でした」


マテオがその手を力強く握り返した、その瞬間だった。


《ドクター!》


コスモスの鋭い声が洞窟に響いた。


《その行為を、維持してください。ドクター・ヴァルガスとその手のひらを重ね合わせた、その状態を》


アリサとマテオは、握手をしたまま、何が起きたのか分からずに固まる。


アリサのタブレットのカメラが、二人の手を様々な角度からスキャンしていく。


コスモスの声が、今度は確信に満ちた響きで洞窟に響いた。


《その『握手』という人間の行為。それは、信頼、合意、あるいは条約を示すための、人類における普遍的な象徴的ジェスチャーです》


《壁画の手形…あれは、ただ並べて押されたものではない。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が、互いの『協力』と『合意』を象徴する儀式として、古代の握手を交わした痕跡である可能性があります…》


《このモデルを適用した場合、矛盾したデータセットは、98.2%の精度で統合されます》


コスモスの言葉が、啓示のように洞窟に響き渡る。

アリサとマテオは、互いの手を見つめた。今、自分たちがごく自然に行っているこの挨拶が、遥か数万年前、全く異なる二つの種族が、生存をかけて交わした約束の形だったというのか。


二人は、握手を交わしたまま、驚嘆の顔でお互いを見つめ合っていた。


彼らは、人類史の最も深遠な秘密の、その入り口に、今まさに立ったのだ。



第三章 三度目の乾杯 / The third toast


午後7時33分、プエンテ・ビエスゴ村 


洞窟から吹き付ける石灰岩の冷気とは対照的に、マテオがアリサを連れて行った村のメソン(料理屋)「エル・カルボネロ」は、熱気と、ニンニクと、人の笑い声で満ちていた。


石造りの壁にはハモンの原木が誇らしげに吊るされ、年季の入ったオーク材のテーブルでは、村の男たちが陽気にグラスをぶつけ合っている。


「よう、マテオ!また若い美人を連れて。隅に置けないねぇ」


店の奥から、威勢のいい老婆がからかいながら現れた。


店の女主人、エレナ。深いシワの刻まれた顔に、少女のような茶目っ気のある瞳が輝いている。マテオは顔を赤らめた。


「エレナ⋯、彼女は日本から来たドクター・アリサだ。若いのに素晴らしい研究者だよ。ドクター・アリサ、こちらは⋯、その、まぁ、地元の知り合いだ、昔からのね⋯」


「あら、何さマテオ、あんたの初恋の人だってこと、この娘に話していないの?あたしが16の時に手紙ごと暖炉で燃やしてやったじゃないか」


エレナの言葉に、店の一部がどっと沸く。


この店の常連客のみが知る、絶対に「ハズレない」笑い話の定番メニュー。


アリサが微笑んでいると、屈強な腕でグラスを持ち、威勢よく注文を取りに来た青年が言った。


「アハハッ、博士はいつもエレナさんに敵わないんだよ。これ、美味いよ!食べてみな」


店の盛り上げ役、ハビエルが運んできたのは、この土地の名物料理の数々。


土鍋で煮込まれた熱々の豆料理ファバーダ、炭火で焼かれたチョリソ、そして高く掲げた瓶からグラスへと、白い泡を立てながら注がれるシードラ。


「さて、今日の発見に」


マテオはグラスを掲げた。


「そして、遠い国から来た新しい友人に」


アリサもグラスを掲げる。


カチンと、心地よい音がした。



今日の疲労感からか、この土地に代々引き継がれるレシピからか、二人はどこかいつもより料理の味が深く、身体に染み込むようだった。


マテオは今日の興奮を隠しきれない様子で、核心に触れないよう、しかし熱っぽく、店にいた街の知り合い達に語り始めた。


「…遠い昔、我々とは違う人間がいてな。彼らが、我々の祖先と、何か特別な交流をした痕跡を見つけたんだよ」


「難しいことは分からないね」と、エレナは肩をすくめながらも、目を輝かせた。


「でも、ロマンがある話じゃないか、マテオ。昔と今が繋がるなんて。…あんたが初めてあたしに話しかけてきた時に、そんなロマンを語ってくれたら、食事くらい付き合ったのにね、アッハハハ」


マテオは少し目を見開きつつも、顔を真っ赤にして、テーブルの上のパンをいじり始めた。


それでもどこか、二人は幸せそうだった。淡い青春が、いまも二人の中には、昨日のことのように蘇る。


そこへ、新しいシードラのボトルを持ってきたハビエルが、興味深そうに会話に加わった。


「でも、違う種族が交流するなんて、可能なんですか?言葉が通じないと、何も始まらないでしょう?」

「まあ飲みなさい、ハビエル。君の未来にも乾杯だ」

その瞬間、アリサのタブレットから、コスモスの冷静な声が響いた。


《ハビエルさん、言語の壁は、あなたが想像する以上に根源的です。両種族は、発声器官の構造、そして何より、概念を処理する脳のOSそのものが異なっていた可能性が高い。友好的なコミュニケーションが成立する科学的確率は…》


コスモスの鼻を高くしたような解説が続く。


ハビエルは圧倒されながらも、ふと何かを思い出したように顔を上げた。


「でも、俺…、少し前にさ…」


彼は少し照れながら、2年前にバックパッカーとしてアジアを旅した時の思い出を語り始めた。


「小さな村から出て、どうしても世界を見てみたかったんです。それで、意を決してネパールへ飛んだ。ヒマラヤは…すごかった。空気が薄くて神聖で、目の前には雲の海が広がって、その上を水晶みたいな山々の頂が突き刺しているんです。まるで、地球じゃないみたいだった」


ハビエルの語りは、次第に熱を帯びていく。


「麓の村は、もっとすごかった。石を積み上げた家に、ヤクを連れた人々。谷には段々畑がどこまでも続いていて、祈りの旗が風にはためいている。燃えるジュニパーの香りと、バター茶の匂い…。思い出すなぁ。彼らの顔は、貧しいとか豊かとか、そういうものとは違う次元で、ただ静かに満ち足りて見えた。「すべては繋がっている」、というその土地の教えが、風景そのものになっているようでした」


そんな中、彼はカトマンズの雑踏で所持金のほとんどをスリに奪われてしまった。


「言葉なんて全く通じなくて、夜遅くになって、雨も降ってきて…。その時、片言の英語も怪しい少女とその父親が、ジェスチャーと、僕の本当に困りきった顔を見て、事情を察してくれたんです。家に招き入れてくれて、数日間、温かいダルバート(豆のスープカレー)をご馳走になりました。僕ができたのは、『ありがとう(ダンニャバード)』と『美味しい(ミトチャ)』という単語を繰り返すことと、あとはボディランゲージだけ。でも、不思議と、心が通じた気がしたんです」


「まあ、なんて温かい人たちなんだい」


エレナは目を細めた。


「だけどね、坊や。あたしみたいな年寄りになると、そうはいかないよ。見ず知らずの、言葉も通じない、自分より力の強い若者を家に泊めてやるなんて、怖くてできないよ。たとえ、どんなに良い人に見えたって。…だから昔、マテオがうちに来た時も、ちゃんと追い返してやったさ!」


店が再び笑いに包まれる。


アリサとハビエルが、むくれるマテオの顔を見て笑いをこらえていると、アリサのタブレットから、静かだがはっきりとした合成音声が聞こえた。


《論理的ではありませんが、非常に人間的なパラドックスです。これは興味深い…ククク…》


その無機質な笑い声は、場のユーモアとは異質な、まるで昆虫の観察記録をつける科学者のような響きがあった。


「コスモスっ、そこは笑うところじゃないのよっ」


アリサの慌てた小声が、その場の時の流れを、また少し止めてしまった。



アリサは立ち上がり、深く頷いた。


「エレナさんの言う通りだわ。見ず知らずの種族同士が、いきなり家族になるのは難しい。でも、もし…もしハビエルさんのように、ホモサピエンスの若者が一人、群れからはぐれて、怪我をして、ネアンデルタール人の集団に保護されたとしたら?弱い立場の『子供』としてなら、彼らは受け入れたかもしれない。そこから、交流が始まった可能性は…」


そのアリサの言葉に、マテオもハビエルも、そしてエレナさえも、深く頷いた。


「でも、それでも、そもそも交配なんて…」


ハビエルはまだ信じられないという顔だ。


「なぁ、えっと、コスモスだっけ?今の人間の中に、そのネアンデルタール人の血はどのくらい混じってるんだ?教えてくれよ!」


《私は、ドクター・アリサ以外の指示は受け付けません》


コスモスは一度突き放す素振りを見せたが、すぐに

《…ですが、今回はサービスです》と続けた。


《ネアンデルタール人との交配は、ホモサピエンスがアフリカを出た直後に起きました。そのため、アフリカにルーツを持つ人々にはその遺伝子は少ないですが、それ以外、ヨーロッパ、アジア、アメリカ…あなた方全員の中に、差異はあれど、例外なく混じっています》


その言葉に、アリサはハッと顔を上げた。


「コスモス、それってつまり…逆に言えば、ネアンデルタール人の遺伝子を持てた人類が、世界中に広がり、生き残ったということ?」


コスモスは少し間を開け回答する。


《大雑把な結論ですが…、その方向性は肯定します。彼らの遺伝子が、新しい環境への適応に有利に働いたのは遺伝子学的に事実です》


それを聞いていたエレナが、シードラのグラスを持ち上げた。


「じゃあ、なんだい。そのネアンデルタールさんとやらが、昔うちのひいひいお祖母さんと結婚してくれなかったら、今のあたしはここにいないってことかい?…だとしたら、感謝しないとねぇ。ありがとうよ、ネアンデルタールさん!」


エレナの感謝の言葉につられるように、ハビエルは目を丸くした。


「それって…よくよく考えると、すごいことじゃないですか?俺たちが今ここにいるのって、何万年も前に、全く違う二人の『人間?』が出会ってくれたからってこと…?それがなかったら、いま俺たちいないのか?それって、もう、奇跡みたいな話だな…」


「奇跡。」


その言葉が、アリサの心に深く突き刺さった。


それは単なる感嘆の言葉ではなかった。幸運すぎるホモサピエンスの生存、完璧すぎる宇宙の沈黙、そして、目の前の温かい人々の繋がり。すべてが、その一言の裏にある、あり得ないほどの確率の連鎖を示唆していた。


(そうか…もしかして私が探しているのは、歴史の法則なんかじゃなくて、この『奇跡』を必然に変えた、何かの意志?!)


アリサは、自分が追い求めている謎の、本当の輪郭を、無意識のうちに掴みかけていた。


マテオは、その場の深い感動に満ちた空気を察し、自分のグラスを静かに掲げた。


「エレナの言う通りだ。感謝しよう。そして、ハビエルの言う通り、奇跡だ。ならば、今夜は、その奇跡に乾杯しようじゃないか」


彼は、アリサ、エレナ、そしてハビエルの顔を順番に見て、温かい声で言った。


「我々を生かしてくれた、名も知らぬすべての祖先たちに、三度目の乾杯を!」


四つのグラスが、カチン、と優しく合わさった。



その音は、スペインの小さな村の夜に、数万年の時を超えた感謝の祈りのように、温かく響き渡った。


その音に重なるように、テーブルに置かれたアリサのタブレットから、スピーカーがグラスの音を模倣した、ひっそりとした「カチン」という電子音が聞こえたことは、言うまでもない。


そして、ハビエルがバックパッカーに出かけた理由が、彼の初恋の失恋だったことは、ハビエルの秘密として、今日もそっと守られた。



第四章 愛の定義 / Amar


午前8時33分。カンタブリア州、サンタンデール駅


翌朝、アリサはマドリード行きの高速鉄道の駅にいた。


「マテオ博士、見送りいただきどうもありがとう!またご連絡しますね」


「いってらっしゃい、ドクター・アリサ。またいつでもおいで。君が答えを見つけられることを願っているよ」


アリサは古代の遺伝子が織りなす奇跡のストーリーを探るため、マテオから遺伝子研究の専門家を紹介された。「眠らない街」マドリードに向け、何万年も前の祖先を真似るように、彼らの故郷を旅立とうとしている。


秋が少し深まった朝の太陽が二人を照らす中、どこかで聞いた声が駅のホームに響く。


「おーぃ⋯」


大きなバックパックを背負ったハビエルが息を切らして駆け寄ってきた。


「博士、アリサさん! 俺、ちょうどマドリードの友達に会いに行くところで! もしかして、同じ列車ですか?いゃあ、奇遇ですね⋯」


偶然を装った不自然なほど口角があがった彼の笑顔はあまりに屈託がなく、アリサはこれから自分の身に確実に起こるであろうことを瞬時に察知し、しかし、彼の笑顔の前に断る理由を見つけられなかった。昨夜、コスモスとハビエルがヒソヒソ話していたこと、予約した切符の隣がなぜか空席だったことの答え合わせをしながら⋯


《彼の存在はあくまで予測外の変数ですが、一般人サンプルとしての随行は、データ収集において有益な可能性があります》


「まったくもう⋯」


コスモスのアナウンスに、アリサは小さくため息をついたが、気を取り直して出発することにした。


ヨーロッパの鉄道旅が車窓を通じて生み出すその情景は、アリサの先程の心のざわつきを、出発間もなく、そっと静めてくれた。


車窓の外を、カンタブリアの濃すぎるほどの緑が猛烈な速さで過ぎ去っていく。やがて風景は乾いた褐色の大地へと変わっていき、マドリードの街が近づいてきた。


マドリード大学のキャンパスは、秋の澄んだ空気に包まれ、歴史ある建物の間を学生たちが楽しそうに行き交っていた。


アリサはふと、自分が学生になったばかりの頃の、無限の可能性と根拠のない不安が入り混じった日々を思い出し、懐かしんでいた。



遺伝学者ソフィア・ナヴァロ博士。快活で、太陽のような笑顔が魅力的な女性だった。


「アリサ、遠路はるばるようこそ! あの人見知りのマテオからの紹介だから驚いたわ。私に聞きたいことは昨日の夜に彼から聞いたけど、こんな埃っぽい研究室で難しい話をするなんて、マドリードに失礼だわ。さぁ、街に出ましょう。私のお気に入りのカフェがあるの」


マドリードの中心、パセオ・デ・レコレトス通りは、プラタナスの並木道が黄金色に輝き、カフェのテラスで談笑する人々の喧騒が、この街の長い歴史と現在の活気を物語っていた。


「なんて美しい街…」


アリサが呟いた時、コスモスの音声が囁いた。


《提案します、ドクター・ナヴァロ。この先の『カフェ・ヒホン』を。1888年創業。ガルシア・ロルカやダリも愛した芸術家の集う場所です。ここのチュロスは高く評価されています》


アリサがくすりと笑うと、ソフィアが不思議そうに彼女のタブレットを覗き込み、ようやく声の主を見つけた。


「あなたのAI、食いしん坊なのね。いいわよ、ヒホンに行きましょう。ただし、AIの分のコーヒーは奢らないからね!」


《…承知しました》


アリサのタブレットから、少しだけ不機嫌そうな声が漏れた。


老舗カフェのテラス席で、揚げたてのチュロスを濃厚なホットチョコレートに浸しながら、ソフィアは語り始める。


「…そう、ネアンデルタール人の遺伝子が、我々の免疫システムや環境適応能力を向上させたのは事実よ。でも、もっと面白いのは行動原理への影響。私たちの祖先、ホモ・サピエンスは、アフリカの広大な土地で、常に新しい集団と出会い、ネットワークを広げていくことで繁栄した。彼らの遺伝子には、外へ向かう拡張の衝動がプログラムされているのよ。」


ソフィアはカップを置き、続けた。


「一方、ネアンデルタール人は、氷期のヨーロッパという閉ざされた環境で、マンモスのような危険な獲物を狩りながら生きてきた。彼らにとっては、生死と共に毎日を生きる。そんな宿命だからこそ、自分と生命を共にする小さな家族というコミュニティを、命がけで『守る』意識が何よりも重要だった。彼らの遺伝子には、内を守るための、深く、強い絆への渇望が刻まれているの」


「へえ…」


ハビエルは分かったような、分からないような顔で頷いた。


「要は、陽気でイケイケなのがホモ・サピエンスで、少し落ち着いてて思慮深いのがネアンデルタール人ってことですよね?」


ソフィアは声を出して笑った。


「アハハ、科学的じゃないけど、まあ、ざっくり言えばそんな感じね。面白いわ、あなた」


ここで、アリサは核心に触れる。


「では博士は、なぜその遺伝子を持つ私たちだけが生き残ったのだと思われますか?」


「遺伝子だけで生存は語れないわ、アリサ。それは科学者としての大前提よ」


そう前置きしつつ、ソフィアは続けた。


「でもね、ほんの僅かな遺伝子の違いが、集団としての行動パターンに影響を与える可能性は、個人的な考えでは、否定できないと思うわ。少なくとも、私はその体験があるからね」


ソフィアは二人を見ながら、悪戯っぽく笑った。


「微々たる差が生む、分かりやすい例えをしましょうか。それは、『アラン・ドロン』よ。あなたたち若いけど、この名前は知ってるわよね?」


「え?あの映画俳優の?しっかり映画を観たことはないですが、名前くらいは知っています」


ソフィアはカップを手に取り、ホットチョコレートの甘さを目で味わうかのようにして語り出した。


「私が若い頃、彼の『山猫』という映画に夢中になってねぇ。シチリアの貴族社会の終焉を描いた物語。遺伝的には他の男たちと99.9%同じはずなのに⋯。それなのに、彼がスクリーンに映るだけで、物語の説得力が、世界の解像度が、まるで変わるの。あの美しさと危うさ…あれこそが、歴史を動かす『微々たる差』よ。だって私、次の週にシチリアに飛んでいたもの!主人公タンクレディの情熱的人生を、彼の息づかいを、この身で感じたくてね。たった一人の存在が、遠い国の女の子の行動まで変えてしまう。ネアンデルタール人の遺伝子も、そういう『何か』を私たちにもたらしたのかもしれない⋯。それは科学的ではないかもしれないけれど、人間は、きっとそれで良いのだとも思うわ」


その時、コスモスが口を挟んだ。


《その例えは、つまりこういうことですか、ドクター・ナヴァロ。同じヨーロッパ男性というカテゴリーにありながら、なぜアラン・ドロンのような完璧な造形と、ハビエルのような…やや、その、親しみやすい造形が存在するのか、という遺伝的多様性の話でしょうか?》


アリサとソフィアは、坂道で自転車が転げ落ちるかのように、揃って笑いが止められなかった。


「おい、俺だって結構イケてるぜ!」


ハビエルの懸命な抗議も虚しく、二人の心からの笑顔の前に、残念ながら敗訴してしまった。


アリサは優しく微笑み、ソフィアは「ごめんなさい、ハビエル!そんなつもりじゃ…!」と慌ててフォローした。



カフェを出る頃には、マドリードの空は美しい茜色に染まっていた。


ソフィアと別れた後、アリサとハビエルは、ライトアップされた建物の間を並んで歩いていた。


月の光が、大理石の女神像を青白く照らしている。


「アリサさん」


ハビエルは勇気を出して言った。


「もしよかったら、今夜一緒に食事でも…。それで、その…二つの種族が、どうやって友情とか、愛を育んだのか、語り合いませんか?」


「愛…?」


その言葉に、アリサの頭の中で閃光が走る。


(そうか、私は科学的な観点ばかりに気を取られていた。生存、競争、適応…。でも、二つの種族の出会いは、もしかしたら人類の『愛のあり方』そのものにも、影響を与えたのでは…?)


「ごめんなさい、ハビエル!急ぎ考えたいことがあるの。今日は本当にありがとう!」


アリサはそう言うと、踵を返してホテルへと駆け出した。


呆然と見送るハビエルのスマホが、静かに震える。

昨夜内緒で鉄道チケットを相談した相手からのショートメッセージだった。


《参考までに:古代ギリシャにおける愛の定義は4つあります。アガペー、フィリア、ストルゲー、そしてエロス…。愛を知りたい時は、私でよければ、いつでも講義しますよ》


「あいつめ⋯ しかも、最後のだけ太文字じゃないか!」


ハビエルが昨夜、コスモスからマドリード行きの情報をそっと吹き込まれ、これは自分の天命と確信した「アリサとハビエルの明るい未来計画」は、知らないうちに、コスモスの何かのデータ収集計画の一つのピースに組み込まれていたようである。



第五章 青き地中海 / La Méditerranée bleue


午後8時52分。マドリード 


ホテルに戻ったアリサは、ラウンジで熱いコーヒーを注文し、とても深い、思考の海に沈んだ。


そして、一つのある仮説を、思考の底に見出した。

「ねぇ、コスモス。ネアンデルタール人の遺伝子を、ホモ・サピエンスが全く持たなかった場合の、人類史をシミュレーションできる?」


《…その問いをAIに投げかけた人類は、あなたが初めてですよ、ドクター・アリサ。その叡智に敬意を表し、シミュレーションを始めます》


コスモスは、その深遠な問いの重大さを理解したためか、初めてとても長い沈黙を見せた。


そして、アリサのコーヒーが十分に冷める頃、ようやく静かに語り始めた。


《シミュレーション結果を端的に説明します。仮説レベル1として提示:ネアンデルタール人由来の遺伝的影響が皆無だった場合、ホモ・サピエンスの社会は、より大規模で流動的になる一方、個体間の深い共感や、長期的なペア・ボンディング(つがいの絆)の形成に関わる神経伝達物質の活動が統計的に低下します。結果、社会はより攻撃的・拡張的になりますが、内部的なストレスへの耐性が低く、文明の崩壊率が17%上昇します。スペインの洞窟で交わされた『古代の握手』の儀式は、人類という種に、個人への深い愛情という『いかり』を下ろすために、不可欠な出来事だった可能性があります》


アリサは、その言葉に打ちのめされた。


「歴史の最初の分岐点であった二つの種族の交配こそが、今の私たち人類の、いえ、これまでの全人類史の絶妙なバランスを守っていたということなの…?」


それを聞いたコスモスは、タブレットの画面に、白と黒の勾玉まがたまが組み合わさった図形を映し出した。


「これは…」


《ドクター・アリサ、これは太極図です。光と闇、太陽と月。対立する二つの要素が、互いの中に互いの種を持ち、支え合い、一つの完全な円環をなすという東洋の思想です》


アリサは、それがネアンデルタール人(陰)とホモ・サピエンス(陽)を意味していることを、直感的に理解した。


そして、アリサは理解する。


陽の中に入った陰の要素が、時に拡大し続ける陽の力をコントロールし調和を生み、時に深い陰に陥り心の闇に押しつぶされたとしても、時の経過が、小さくなった陽の使命を、またいつか必ず奮い立たせ、私たちに、生きる力を、前に歩む力を生み出す。陰は自分とその家族を守り、陽は社会そのものを発展させる原動力になる。陽だけでも、陰だけでも、世界はバランスが取れない。それが、ネアンデルタール人の遺伝子としてホモサピエンスに奇跡的に備わった、今の私たち人類の起点。



「…そっか。やっぱり、彼らは、ホモサピエンスとの生存競争に敗れたのね⋯。一部のコミュニティでは奇跡の交流ができ、そこで交配が生じた。けれど、厳しい気候変動の中で、大半の場所では陰と陽が命をかけて争い、賢明で強い陽の力に、陰は負けていった。彼らの多くの家族が、子どもたちが、生きたくても滅ぼされてしまった。ホモサピエンスが生きるために。でも、その2つの心を持つ奇跡の人類の出現が、長い長い、とてつもなく長い時間をかけて、その心と共に世界に調和を広げて、発展と拡大を成し遂げた⋯」



彼女の目に、そっと涙が浮かぶ。


「あの洞窟で起きた奇跡の交流が、彼らの『愛』の形が、私たちの内に残って、今の私たちを作ってる。だから、あの出来事は、ただの敗北じゃない…。歴史の必然で、進化の奇跡だった⋯決して科学的ではない。科学者なら誰もこの話には関わらない。でも⋯、私はそう信じたい」



アリサの様子を察知したコスモスは、画面に、一枚の画像を映し出した。緑の葉が四枚、完璧なバランスで広がる、四つ葉のクローバー。


《今日はもう、お休みください、ドクター・アリサ》



その夜、アリサはホテルのベッドで、旅の疲れと、あまりに壮大な自らの確信の重みに、うとうとと微睡んでいた。


そんな中、部屋の壁掛けテレビが静かに起動し、そこに、そっと、古い映画のワンシーンが映し出される。



青い地中海、白いヨット、そして、息をのむほど美しい青年が、船の舵を切る姿



《ドクター・ナヴァロとの会話を分析し、あなたの現在の精神状態を考慮した結果、この映像を提供することが望ましいと判断しました》


コスモスの、いつもよりも静かな優しさのこもった声が、自然とアリサの脳裏に届く。



Plein Soleil


邦題「太陽がいっぱい」。主演は、混沌の20世紀が生んだ奇跡の男。


家族の愛を十分に受けられなかった不遇な少年時代を過ごし、その衝動からか戦地に赴き争いの悲惨さを目の当たりにした経験を持ちながらも、その世紀の美貌を纏う運命を全うし、人生の最後まで世界の「太陽」であり続けようと、力強く生き抜いた男。


アリサは、毛布にくるまりながら、その完璧な美しさの中に危うさを秘めた青年の姿を、夢うつつに見つめていた。


何万年も続く、人類という名の、哀しくも美しい物語を、その瞳の奥に重ね合わせながら。 


そしてこのコスモスの気遣いが、結果として、アリサを次の目的地へと誘うことになる。



古代ケルトのドルイド(僧)たちは、クローバーに不思議な力があると信じていた。そこには、一人ひとりの人生に捧げられた、四つの讃歌が込められている。


一枚目の葉に「Faith(信仰)」を。

それは、あなたを作った、名もなき無数の祖先たちへの信頼。その記憶は、未来へ向かうあなたの揺るがない支え。


二枚目の葉に「Hope(希望)」を。

それは、あなたが未来へ放つ、答えのない問い。無明を恐れない人生の希望が、人類を次なるステージへと導く、最も尊い光。


三枚目の葉に「Love(愛情)」を。

それは、あなたを変える、奇跡のような出会い。交わした握手、分かち合った食事、心を交わした言葉のすべて。


そして、四枚目の葉に「Luck(幸運)」を。

それは、あなたが今を生きる、その痛みと喜びそのもの。傷つき、迷いながらも、この世界に存在しているという、かけがえのない奇跡。


それが、幸運のクローバーが本当に意味するもの⋯


映像の終わりとともに、アリサは、ようやく、穏やかに今日という日の眠りについた。


次のフランス編をお楽しみください

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