第5話 屋敷に芽吹く温もり
時は少し遡り、ルグランツ領へ着いた翌日。朝の光が窓から差し込み、フィオナは静かにまぶたを開けた。
昨日の疲れは残っていたが、不思議と身体は軽かった。
深呼吸をすれば、辺境の空気はひんやりとして澄んでいる。
(……ここが、これからの私の生きる場所)
小さく自分に言い聞かせ、寝台から身を起こした。
侍女が支度を手伝いに入ってくる。フィオナが「ありがとう」と微笑むと、少女の頬が驚いたように赤くなる。
「奥方様……そのようにお礼を言われるなんて……」
屋敷の者たちにとって、彼女は突然現れた新しい奥方だ。
警戒や緊張があって当然だが、こうして心を尽くせば、少しずつ溶けていく。
朝食の時間。食堂に向かうと、既に料理が並んでいた。
だがカイエンの姿はなく、執事セスが代わりに説明をする。
「若様は執務室にて朝食をお取りになるのが常でして……奥方様とは、しばし別に召し上がる形になります」
席に着いたフィオナの背後には、護衛の体で同行しているダニエルの姿がある。
彼は席に着くことなく、壁際に控えていた。
(……私だけが食事をして、彼は立ったまま……。今は護衛という立場だから仕方ないと分かっていても、申し訳ない気がするわ)
昨日までの旅路を思い返し、胸がひとりでに波立った。
断罪、襲撃、そして現れた少年――「未来から来た息子」だという存在。
到底信じられない話なのに、なぜか彼の言葉は胸の奥に深く響いた。
(……きっと、本当なのだわ。あの子は私の……未来の息子)
理屈では説明できない。けれど、胸の奥はとっくに答えを出していた。
視線を向ければ、彼は静かにこちらを見守っていた。
あの瞳は、自分と同じ淡い青。
その色を見ていると、不思議と心が落ち着く。
(……なぜかしら。あの子がそばにいると、安心できる。心強い味方ができたような……そんな気がする)
そう思いながら、フィオナは背筋を伸ばして食事をとった。
まだ見えぬ未来に不安は尽きない。
けれど今は――視線を上げればそこにいる少年の存在が、確かに支えになっていた。
朝食を終えたあと、フィオナは館の中を案内されることになった。
重厚な石造りの廊下には陽が射し込み、思いのほか柔らかな光が満ちている。
思わず足を止めて花壇を覗き込むと、傍らの侍女が小声で「これは辺境でも寒さに強い花なのです」と教えてくれた。
「まあ……とても可愛らしいわ。こんなに厳しい土地なのに、健気に花を咲かせるのね」
フィオナが微笑むと、侍女は緊張した面持ちをほころばせて頭を下げる。
「奥方様は……思っていたより、ずっとお優しいお方なのですね」
その言葉に、フィオナは胸の奥が少し熱くなった。
(私を罪人のように見ている人もいるでしょう。それでも、こうして一人ひとりに誠意を尽くせば……きっと分かってもらえる)
けれど同時に、昨日の冷たいまなざしが脳裏に浮かぶ。
(――カイエン様。やはり、私は歓迎されていないのかしら……)
歩みを進めていくと、長い廊下の先にその人影が見えた。
背筋を伸ばし、書類を抱えた長身の男。
フィオナは一瞬ためらったが、意を決して微笑み、裾をつまんで恭しく礼をした。
「おはようございます、カイエン様」
金の瞳がわずかにこちらをとらえる。
だが彼の返答は短いものだった。
「……うむ」
それだけを残し、彼はすれ違っていく。
微笑みを崩さぬまま立ち尽くしたフィオナの胸に、冷たい風が吹き抜けた。
(やっぱり……私なんて、必要とされていないのかしら)
けれどすぐに、己を叱るように小さく首を振る。
(違うわ。きっと領主としての顔を見せているだけ。……私は、それを信じたい)
胸の奥の痛みと、揺らぐことのない誇りを抱きしめながら、フィオナは俯いていた顔を上げた。
そのとき、そっと近づいたダニエルが耳元で囁く。
「……大丈夫です、奥方様。辺境伯様は、ただ不器用なだけですよ」
穏やかな声だった。
その言葉に張り詰めていた心がふっと緩み、フィオナは小さく息を吐く。
そして、わずかに微笑んだ。
重い扉を閉め、執務室に戻ったカイエンは椅子へ腰を下ろした。
深く息を吐き、額を押さえる。胸の奥がまだ妙にざわついていた。
先ほどの光景が何度も蘇る。
廊下の先で目が合った瞬間、フィオナはわずかに目を見開き――驚きに固まった。
その次に、静かに、ほんの一瞬のためらいを経て――
首を傾げ、微笑みながらスカートの裾を摘み、そっとカーテシーをした。
その笑みは押し花のように儚げで、それでいて柔らかな温もりを帯びていて。
胸の奥を鋭く撃ち抜かれたような衝撃に、言葉を忘れてしまった。
(な、なんだ……。ただ見返され、笑みを向けられただけで……これほど心を乱されるとは)
本当は声をかけたかった。
「困っていないか」「眠れているか」……その程度の言葉でもいい。
ただ硬く頷いただけで、その場を通り過ぎようとした、そのとき。
黒髪の少年の声が耳に届く。
『……大丈夫です、奥方様。辺境伯様は、ただ不器用なだけですよ』
横目に映ったフィオナの顔が、ふっと和らいでいくのが見えた。
机の端を思わず握りしめる。
「俺が言えなかったせいで! あの小僧が代わりに支える言葉を口にして、彼女はそれを信じて安堵した。
本当なら、俺が彼女を安心させるはずだったのに――!」
嫉妬と悔しさと情けなさが、胸の内で渦を巻く。
冷徹と呼ばれる辺境伯の心は、今やただの恋に翻弄される若者同然だった。
その時、執務机の横に控えていたセスが、静かに咳払いをした。
「なるほど。奥方様の隣に別の誰かが立っている――それが面白くない、ということですな」
「っ……!」
カイエンは顔を上げ、耳まで赤くなるのを止められなかった。
「ち、違う! 俺は――ただ……!」
言葉を探すものの、理屈など出てこない。
――だが、なおさら胸をざわつかせるのは。
あの黒髪の少年の顔を思い返すたび、どこか自分と似ているように思えてならないことだった。
(気のせいか……? だが、似ているからこそ余計に癪に障る! なぜ俺ではなく、あの小僧が……!)
机の端を握りしめる手に、力がこもる。
セスは深いため息をつき、細めた瞳の奥に、長年の経験を思わせる光を宿した。
「やれやれ、若様。氷の仮面も、恋には勝てませぬな」
その声音には呆れと、それ以上にどこか楽しげな響きが混じっていた。




