第3話 仮面の領主
馬車は揺れながら山道を進み、やがて開けた視界に小さな町並みが現れた。
岩肌に沿って並ぶ石造りの家々。市場には笑い声が満ち、活気が溢れていた。
一見すれば、王都に比べて粗末で不便そうだ。
だが――人々の表情は驚くほど生き生きしていた。
忙しく働きながらも笑い声が絶えず、互いに肩を貸し合い、支え合う気配が町全体に満ちている。
(……辺境は厳しいと聞いていたのに……皆、力強く暮らしている)
フィオナは思わず胸の奥でつぶやいた。
噂に聞く冷徹な辺境伯が治める土地だというのに、この温かさはどういうことなのだろう。
隣に座るダニエルが、そっと微笑む。
「ここは、僕が未来で暮らしていた場所です。
王都の華やかさはないけれど……領民同士が家族みたいに助け合って、父上もその暮らしを陰で支えていました」
「……あなたが、ここで」
フィオナは少年の横顔を見つめた。
馬車の窓から差し込む光に、彼の瞳は真剣に揺れていた。
「だから、僕にとっても大切な場所なんです。母上にも――きっと分かっていただけます」
その言葉に胸が熱くなり、フィオナは息をのんだ。
冷徹と噂される人物が治める領地は、想像とはまるで違っていた。
そして、この先で彼と出会うのだ――。
町を抜け、さらに石畳を登っていくと、やがて巨大な影が現れた。
切り立つ崖を背に、黒々とした石で築かれた重厚な屋敷。
陽の光を浴びてもなお冷たさを失わず、堅牢さと威圧感を兼ね備えていた。
(……これが、辺境伯の館……)
フィオナは自然と背筋を伸ばした。
馬車が中庭に止まると、制服姿の兵たちが整列し、無言で一行を迎えた。
その背筋の揃った姿に、領地の規律がうかがえる。
張りつめた空気の中心に、ひとりの男が立っていた。
長身で、漆黒の髪が風に揺れる。
陽光を反射する金の瞳が、一瞬で空気を凍らせる。
見据えられた者は、息をすることさえ忘れるほどだった。
矢のように伸びた背筋。
ただ立っているだけで人を圧する、鋼のごとき存在感。
「辺境伯――カイエン・ルグランツ様!」
護衛の声が高らかに響く。
冷徹と噂の辺境伯、その人であった。
フィオナは胸の鼓動が速まるのを抑えられなかった。
(この方が……私の夫になる人……?)
その瞬間、隣でダニエルがぐっと身を乗り出し、小声で囁いた。
漆黒の髪は父に、淡い青の瞳は母に――そのどちらもを受け継いだ少年が。
「大丈夫です、母上。……今見せているのは、領主としての仮面です。本当の父上は違います」
冷徹な金の瞳と、未来から来た息子の言葉。
二つの現実に挟まれて、フィオナの心は大きく揺れていた。
カイエンの金の瞳がゆっくりとフィオナに向けられた。
その視線は鋭く、まるで本心を探ろうとする刃のようだった。
「……遠路ご苦労だったな」
低く冷ややかな声が、中庭に落ちる。
氷のように張りつめた響きに、兵士たちが思わず背筋を伸ばした。
フィオナは緊張で胸が詰まり、返事すらできずに立ちすくむ。
隣のダニエルが思わず小声でつぶやいた。
「え……父上? こんなはずじゃ……」
未来で知る姿とのあまりの違いに、少年の瞳が揺れる。
だがフィオナは唇を結び、震える心を必死に抑えた。
(これは……領主としての顔。領地を背負う人だから、冷徹であろうとしているだけ。
……そう、きっとそうに違いない)
カイエンはもう一度だけ彼女を見据え、短く告げた。
「休むがいい」
形式的な一言だけを残し、カイエンは兵を従えて去っていった。
広い中庭に残されたのは、唖然としたフィオナと、その隣で小声をもらすダニエルだった。
「……未来の父上は、もっと温かくて……母上を幸せそうに笑わせていたのに」
その言葉が胸に刺さる間もなく、脳裏にあの鏡の映像がよみがえった。
広い屋敷の一室で、頬はやせこけ、力尽きるように息を引き取る自分。
最後の瞬間まで誰も傍らになく、声をかけてくれる者もいなかった――。
孤独に朽ち果てていくその姿と、今の辺境伯の冷たい眼差しが重なり、胸を締めつける。
(……やっぱり、あの未来は幻なんかじゃない……)
「ち、違います、母――」
慌てた声を上げ、ダニエルは咄嗟に周囲を見回す。
兵士たちはすでに引き下がっていたが、使用人の耳に入れば大ごとだ。
ぐっと声を落とし、囁くように言い直す。
「……違います。今のは領主としての仮面です。本当の父上は……母上を誰よりも大切にしていたんです」
フィオナはかすかに首を振った。
(……私は王家の秘宝を盗んだとされ、罪人としてここへ送られてきた。
歓迎など、望めるはずがない。それは分かっていたのに――)
心の奥に冷たいものが広がる。
政略のために嫁ぐと覚悟していたはずなのに、ほんのひと言の温かさを期待してしまった。
その弱さが胸に刺さり、愚かにすら思えた。
けれど隣から届いた息子の言葉が、その心を支えていた。
(……彼がそう言うのなら。信じてみよう。この冷たさの奥に、きっと別の顔があると)
震える心を必死に押しとどめながら、フィオナはダニエルの存在に縋るように立ち続けた。
そのとき、年配の執事風の男が姿を現した。
「奥方様、こちらへ。お部屋へご案内いたします」
恭しく一礼した執事の言葉に、フィオナはそっと口を開いた。
「……その前に、この方を私のそばに置いていただけますか? 道中で命を救ってくださった、大切な方です」
執事は思わず目を見開く。
「なんと……しかし、見習い風情を奥方様のお傍へ置くのは……」
言い淀んだままの執事に、フィオナは一歩踏み出した。
「彼は、私の恩人です。罪人と呼ばれた私のために、剣を抜いたのです。
だからこそ、傍に置きたい。私の命を預けるなら、この方以外に考えられません」
淡い声ながら、その瞳には揺るぎない光が宿っていた。
執事は一瞬目を見張り、やがて深く頭を下げる。
「……承知いたしました。若様には私から取り計らいましょう。
それでは、奥方様。どうぞこちらへ。お部屋へご案内いたします」
フィオナは頷き、ダニエルと共に執事の後に続いた。
案内された部屋は広すぎず狭すぎず、上質な調度に落ち着いた色合いの内装だった。
窓からは中庭の花壇が見え、ささやかな香が風に乗って届く。
寝台の高さや椅子の配置にも心配りが感じられ、居心地の良さを第一に整えられていると分かる。
(……気遣いが行き届いている。こんな部屋を用意してくださるなんて……)
胸の奥に、ほんの少し安堵が差す。
だが同時に、あの冷たいまなざしが脳裏に蘇った。
(けれど、どうしてあんな態度を……。やはり私は、歓迎されていないの……?)
長い一日の疲れがようやく押し寄せ、夜着に着替えると――
フィオナは静かに寝台に身を横たえた。
扉の外には、護衛としてダニエルが控えていた。
「母上……どうか安心してください。僕がすぐそばにいます」
扉越しの声が、静かな夜に優しく響く。
その言葉に支えられるように、フィオナは胸の奥の緊張をほどき、ようやく眠りに落ちていった。
――夢の底でも、あの金の瞳は、彼女の心から離れなかった。




