突然の接触
長く続いていた雨も、朝方にはシトシトと勢いを無くし、燐太が登校する頃にはすっかり太陽が顔を出していた。
燐太は久し振りの晴天に、溜まっていた洗濯物を干してから、足取り軽く学校へ向かった。
「リンおはよ!」
「おはよう、ナツ」
教室で一人、ぼんやりと座っていた燐太の元に、朝練を終えた棗が早足で近づいてきた。そして燐太の隣に腰を下ろすと、真剣な表情で口を開いた。
「この前の犯人、捕まったらしい」
「え、……ほんと?」
燐太は目を丸くして、身を乗り出した。
二日前、下校中の小学生に刃物を振りかざし、怪我を負わせた犯人。幸い被害者の命に別状はなかったものの、小さな命が危険に脅かされたその事件は大きく話題となり、世間を騒がせた。
警察のパトロールはもちろん、地域住民総出で子ども達を守るためにと見回りが行われた。その甲斐あってか、次の被害者が出る前に、犯人は逮捕されたのだが。
「俺も詳しくは知らないけど、やっぱりこの前の不審者が犯人だったらしい」
「この前のって……先週言ってた、変な女の人?」
「ああ、あの一時彷徨いてたって女」
小さく噂にはなったものの、その後進展もなく、すぐに忘れられた不審者情報。その不審者こそが今回の事件の犯人だったのだ。
「……じゃあ、あの時にちゃんとパトロールとかしてたら、事件なんて起こらなかったのかもしれないね」
眉を寄せ、床の汚れを見つめながら、燐太は小さく呟いた。
小さな噂でも、目撃情報があったのだから、きちんと行動を起こせばよかったのだ。そうすれば、被害者の小学生は、怖い思いも、痛い思いも、心に一生消えない傷を負うこともなかったのかもしれないのだ。
あとになって、あの時ああすればよかった、と後悔しても意味がないと分かっていても、やるせない思いが燐太の心に重くのし掛かる。
実際燐太も、棗から不審者情報を聞いたとき、恐いとは思ったものの、どこか他人事に感じていた。
自分には関係ない、遠い世界の話。無意識に生まれる、自分は大丈夫だという愚かさ。警戒心なんて、欠片も持ち合わせてなんていなかった。
だからこそ、早々に大人たちの警戒が解かれても、パトロールが行われていなくても、雨のせいで人通りが少ない通学路を一人で帰る小学生がいても、なんの疑問も持たなかった。
まさかこんなに身近で事件が起きるなんて、思いもしなかったんだ。
あのとき疑問を感じていたら。周囲に警戒を促すことができていたら。
今さらどうしようもできない後悔が、ぐるぐると胸に渦巻く。
燐太はきゅっと唇を噛んだ。
──この後悔だって、結局は自分は安全だからしてるだけで、今までとなにも変わらないんだ。自分のことしか、考えてない……)
そんな燐太を静かに見つめ、棗はそっと口を開いた。
「まぁ、そうかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないな。どっちにしろ、俺たちにはどうしようもできないことだからなぁ……。冷たいかもしれないけど、自分が無事でよかったじゃん」
棗はそう言って、眉を下げて笑った。燐太は納得できなくて、軽く棗を睨み上げる。
「だってさぁ、リンだったかもしれないんだろ? その被害者」
「へ……?」
一層訳がわからないとポカンとする燐太に、棗は何故か悲しそうな顔で笑った。
「リン覚えてない? 俺が不審者情報教えた日、リン、変な女に遭遇しただろ?」
「…………ぁ」
「おもいっきり睨まれたって言ってたじゃん。もしかしたら、リンが刺されてたかもしれないんだぜ?」
「…………」
「リンはさ、その被害者を守る力がない自分を責めてんのかもしれないけど。俺は、リンが無事でよかったって思ってる。俺たちまだ中学生だぜ? まだまだ守られてていい年齢なんだよ。だから、だからさ……」
棗の言葉で、自分も危なかったのだと自覚し、今更ながらに恐怖した燐太。あんなにも恐ろしい思いをしたのに、なぜだかすっかり失念していた。
それに、棗には報告していなかったが、実はその後何度も、睨まれているような嫌な視線を感じていたのだ。
──なんで忘れてたんだろう……。
己の危機感のなさに唖然とする燐太。やっぱりどこか頭の片隅で、自分は大丈夫だと思っていたのだろう。自ら危機感をなくすその思考に、寒気がする。
それと同時に、きゅっと唇を噛んで、苦しそうな、悲しそうな顔で自分を見つめる棗に、燐太は戸惑いを隠せなかった。
──あんまりにも俺が危機感なさすぎるから、だから呆れてるのかな?
確かに燐太は危なかったかもしれない。だけど今こうして無事でいるのだ。それなのにどうして、今にも泣き出しそうな顔で燐太を見つめているのか。
戸惑う燐太に、棗は更に顔を歪める。
「なぁ、リン。俺なんでか」
まるで懇願するかのように口を開いた棗だったが、チャイムの音に遮られ、その後すぐに教室にやって来た担任の姿に、渋々ながらも口を閉じるしかなかった。
しかしその後も、朝の会が一時間目開始の時間まで長引き、次の休み時間も二時間目が移動教室のために、移動や準備と忙しく、結局二人が話の続きをすることはなかった。
「全員プリント渡ったな。この前の学年集会でも言った通り、そろそろ進路を固めていかなくてはいけない。これはその一歩だ。ご家族とも相談して、しっかり考えて書くように」
進路希望調査。
燐太は手に持った紙に大きく書かれたその文字を、ぼんやりと見つめた。
第一希望から第三希望まで欄があるその真っ白な紙が、燐太の心をずっしりと重くする。
──進路、か……。
中学三年生ともなれば、否応なしに受験戦争に駆り出され、約一年間、戦い続けなければならない。それは、同じ受験生との戦いであり、家族との戦いであり、自分との戦いである。
──進路希望、ね……。
正直燐太には、戦ってまでして願う望みがない。希望もなにも、ただ決められた道を歩むのみ。そうするしかないのだ。それしか許されないのだ。
決められたただひとつの道を歩むため。その為だけに努力し進み続ける。
そこに、燐太の意思はない。
その事を、燐太はいつからか仕方がないと感じていた。
仕方がないんだ。どうしようも出来ない。これが正しいんだ。そう思うことで、自分を納得させた。無理矢理理解させた。
だからこそ余計に、その紙は燐太の心に重くのし掛かった。
「来週までに、保護者にサインもらって提出するように」
言い終わるのと同時に鳴ったチャイムに、号令係の号令がかかる。それに従ってのろのろと立ち上がりなから、燐太は手に持った紙を見下ろした。
──サイン、もらいに行かないと……。
「ねぇねぇ。中三川くんは進路決まってる?」
挨拶が終わり席に着いた燐太に、前の席の男子が振り返って言った。
小柄な体に、たれ目が特徴の優し気な雰囲気を持った彼。そんな彼とは、棗に促されて最近少しずつ話すようになった。
とはいえ、燐太自身に友達を作ろうという意思がないため、燐太から積極的に話し掛けることはなく、彼に関する記憶も朧気だ。
──名前は確か………………田中、君?
内心首を傾げながらも、燐太は困ったような笑みを浮かべる。
「うん、一応は決まってるけど……。特にやりたい事もないから、無難なところにって感じかな」
「そっかぁ。僕はまだ悩んでるんだよね。進学か、就職か」
「簡単には決められないもんね」
形のよい眉をきゅっと寄せて考え込む彼に苦笑しながら、燐太は隣の席に目をやった。すると、口許を緩めた棗と目が合う。
〈赤い女 突然の接触〉




