最終話 目覚まし猫
老魔法使いは、今日も猫に起こされた。
鳴き声はない。
胸の上に、ずしりとした重みがのしかかっているだけだ。
「……のぉ。重いんじゃが」
そう言って目を開けると、茶色のしましま尻尾が、ちょうど鼻先にあった。
猫は丸くなったまま、動く気配がない。ひげが、わずかにピクピクと動いている。
老魔法使いは、猫の背中をひと撫でしてから起き上がった。猫は胸の上から布団へと移動し、そこでおさまったが、部屋の扉を閉めようとするとするりと出ていってしまった。
工房の朝は静かだ。
弟子はもう起きているらしく、奥の部屋からはカタコトと小さな音が聞こえる。
老魔法使いは湯を沸かし、薬草棚を見回し、いつもの揺り椅子に腰を下ろした。
その椅子の脚には、今日も新しい爪痕が増えている。
「……なぜ毎回、ワシの椅子なんじゃ」
窓から差し込む光の中で、猫はそっぽを向いて答えない。代わりに、光に透けたしましまの尻尾だけが、ゆっくりと揺れた。
椅子に腰かけたまま、老魔法使いはふと、まぶたが重くなるのを感じた。
朝の光がやわらかすぎたのかもしれない。
少しだけ――ほんの少しだけ、と目を閉じる。
夢を見た。
小さな工房。
今よりずっと狭く、埃っぽくて、魔法の匂いよりも木の匂いが強い場所。
そこに、幼い自分がいる。
膝の上には、小さな猫。
『ねえ』
子供の声が言う。
『いつか死んじゃうの、さみしいな』
猫は、じっと見上げている。
『遠い国にはね、長生きした猫は、しっぽが二本になっておばけになるって言い伝えがあるんだって』
幼い指が、猫の背中を撫でる。
『おばけでもいいからさ。ずっと一緒にいたいな』
それだけの、夢だった。
老魔法使いは、ゆっくりと目を開けた。
そこには、茶色のしましまがあった。
いつの間にか膝の上に乗ってきて、さきほどと同じように丸くなっている。
夢の余韻は、すぐに溶けていった。
残ったのは、ただ――
「……まだおるな」
そう呟いて、猫の寝顔を見る。
猫は、相変わらず喋らない。
忠誠心も示さない。
魔法を使う気配もない。
ただ、そこにいる。
工房の奥で、弟子が部屋の扉を開けた音がした。
今日もまた、いつもの一日が始まる。
老魔法使いは立ち上がって湯を注ぎ、湯呑みを手に取って椅子に戻る。
……椅子から降りる気は、ないか。
揺り椅子の上で、猫は丸くなって眠っている。
老魔法使いは、今日も猫に起こされた。




