第一話 医療猫
その日の朝、いつも老魔法使いを起こしに来る猫がこなかった。部屋にいるのは、老魔法使いひとり。
「珍しいのぅ。猫や〜」
工房に来てみるが、こちらにもいない。
ここも静かすぎた。
いつもなら、おはようの挨拶より先に
「昨夜の実験結果ですが」
「師匠、大魔法使いなら睡眠は不要なはずです。長く寝るのは非効率です」
などと、容赦なく理屈を投げつけてくる十三歳の弟子が見あたらない。
部屋に行ってみると、弟子の布団に猫がいた。
弟子と思われる膨らみに、ぴったりくっついている。
ぬくぬく寝ているわけではなく、見守っているといった感じだ。
これは……。
「おーい、弟子やぁ」
「……ぉきて、ぃます」
声をかけると、布団の中から小さな返事がした。
いつもより低い、ガラガラとした声。
老魔法使いが布団の膨らみに手を伸ばすより早く、猫が目を細めて「ニャッ」と鳴いた。飲む物を用意しろ、という催促である。
「はいはい、分かっとる」
薬草茶を用意してもう一度部屋に戻ると、弟子は身体を起こしていた。
ぼんやりした顔のまま、こっちを見て、老魔法使いが手に持っている物に気づいた途端に眉をひそめる。
「現時点で、熱は軽微です。水分補給は合理的ですが――」
「いいから飲みなさい」
弟子は一瞬だけ迷ったが、猫が真横からじぃっと見上げるのに負けたのか、素直に受け取ってこくりと飲んだ。猫はそれを確認すると、ようやく顔を下げた。
「……猫が診断を下すの、早すぎると思います」
「ワシより信用されとるのが悔しいのぅ」
弟子は何も言い返さず、布団にもぐった。
猫はその腹のあたりに丸くなり、ぴたりと動かない。
近所では、この猫を医療猫と呼ぶ。
具合の悪い者のそばに張り付き、必要なことだけを、必要な順で要求するからだ。
その日の夜、今度はワシの方が倒れた。
弟子の看病を優先しすぎたらしい。
布団に入ってから、嫌な汗が出た。
「猫や〜。ワシの方が重症かもしれんのじゃが〜」
声に出してみたが、返事はない。
猫は窓辺で、月を見ている。
「おい、医療猫」
呼んでも、知らん顔だ。
仕方なく目を閉じた。
どれほど経ったか分からぬ頃――
ふと、視線を感じて目を覚ます。
猫がいた。
ベッドの真上。
真顔で、じっと見下ろしている。
月の青白い光に照らされて、いつもは茶色のしましまが、銀色がかって見えた。
「……寝首をかこうとしておるのか?」
瞬きひとつしない。
「それとも、『主もついに死ぬところか』と観察中か?」
しばらくの沈黙のあと、猫は静かに向きを変え、枕元に降りてきて丸くなった。ふわふわで、お日様の匂いがした。体の重苦しさが、少し引いたように感じる。
翌朝。
弟子は、だいぶ楽になった顔で起きてきた。
「師匠」
「なんじゃ」
「猫が、夜中に師匠の様子を見に行っていました」
「……そうか」
弟子は少し考え、それから言う。
「見守る優先順位を、切り替えたのだと思います」
「理屈っぽいのぅ。他に言うことはないんかの」
「理屈ではなく、事象の報告と考察ですよ」
猫は日向で毛づくろいをしている。
今日もふわふわの毛並みだ。
ワシはその様子を眺めながら、ぽつりと言う。
「……お前、ワシより長生きするつもりじゃろ」
猫は答えない。
代わりに、毛づくろいをやめてふぃっと背中を向けると、窓の外の光をのんびりと楽しんでいた。
読んでくださって、ありがとうございます。
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