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自宅から一歩外に踏み出した瞬間に、海雪は後悔した。やっぱりやめておけばよかったと。
お気に入りのノースリーブワンピースからはみだした肌に、日焼け止めをこれでもかと塗りたくってきたのに、肌を焼くどころか突き刺すような強烈な直射日光を前にしては外出を尻込みしたくなるのも当然のことだろう。ましてや数ヵ月後に結婚式を控えて、できるだけ色白を保ちたいのに。
けれど母に見送られて出かけた手前、すぐに回れ右するわけにもいかない。日傘を差し、門を出て道路に出ると、アスファルトから立ち上る熱気がゆらゆらと揺れるようだった。
閑静な住宅街からバスに乗って、市街地に向かう。冷房がきいた車内は快適で、日曜ということもあって乗降客も少なく、混雑する平日よりも随分と早く着いたような気がする。
駅前のバスターミナルに着くと、バスを降りた海雪はジュエリーショップのあるデパートに向かった。
デパートの入り口で足を止めたが、逡巡するかのように動かない。やがて動き出したその足はデパートを素通りし、その向こうの違うバス停へと向かった。
はたと足を止めた起点の停留所には既にバスが止まっていた。別の住宅街行きだ。バスの側面にいくつか並んだ経由地の中に、海雪が通っていた高校の名前がある。
今度は躊躇うことなく、そのバスに乗り込んでいた。
空いた座席に腰掛けるとすぐにエンジンがかかり、バスは滑らかに発車した。見慣れたような、それでいて七年の月日を感じさせる街の変化を眺めながら、海雪は窓に頭を持たれて休日の小旅行気分を味わっていた。
同じ市内にありながら、駅の反対側にある母校へは卒業以来足を運んだことがない。学校祭に行くチャンスは何度かあったものの、所用で機会を逃してしまうこと数回、ついに行かなくなってしまった。恩師も別の学校に転勤となり、今は母校にはいない。
二十分ほどかかったところで、高台へ向かう坂を上り、頂上の交差点を右に曲がってしばらく行った場所に母校はある。
学校の校門横にある停留所をただ一人降りると、バスは排気ガスだけを残して行ってしまった。何となく置き去りにされたような気がして、海雪は日傘を差すことも忘れてバスが見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
校門の前に立ち、前庭と三階建ての校舎を眺める。休日とあって、人影は一つも見当たらない。だが遠くの体育館から部活動らしき掛け声が微かに聞こえてくる。
大した特色があるわけでもない、ごくごく普通の公立高校である。壁の色は真新しい白に塗り直されていたが、校舎の形はそのままだ。夏服のセーラー服に身を包み、若さにまかせてこの門を駆け抜けていったあの頃が鮮明に蘇るようだ。
甘酸っぱさ半分、ほろ苦さ半分。
真っ青な空と真っ白な校舎の鮮烈なコントラストに目を細めながら、年月を重ねてこそ味わえる妙味を噛み締める。
くすぐったいような、締め付けられるような、そんな胸のざわつきを覚えて海雪はわずかに喘いだ。息苦しさから天を仰ぐと、ギラギラとした太陽と目が合いそうになって、眩しさに目を閉じた。
暗転した世界が、一瞬歪んだように思えた──
すぐに目を開ける。めまいを起こしたかと頭を振ったが、それほどのふらつきは感じられない。そういえば日傘を差すのを忘れていた。この暑さで熱中症になりかけているのかもしれない。
そう思って海雪は手に持っていた日傘を持ち上げた──はずだったが、手にしていたのは紺色のスクールバッグだった。
「あ、あれ?」
見覚えのあるバッグ。海雪が高校時代に使っていたのと同じものだ。
というよりまさに海雪のもの。横にぶら下がっている薄汚れた猫のマスコットがその証だ。
「なんで……って、ええっ」
下を向いて自分の服装を見た海雪はさらに驚いた。
ワンピースを着ていたはずなのに、いつの間にか夏服のセーラー服に変わっている。ご丁寧に白のハイソックスとくたびれたローファーまで履いて、すっかり「なんちゃって女子高生」になっている。
(いくらなんでも二十四でこれはキツイでしょ……)
海雪の頭は混乱して、的外れな心配をしている。そんなことを案じている場合ではないと、海雪は辺りを見回した。
目の前に広がるのは高校の前庭で、その向こうに三階建ての校舎。だが、校舎の壁の白がさっきよりもくすんで見える。
空は相変わらず青くて雲一つ見当たらないが、何となく周囲の空気がさっきとは違った感じがした。
「海雪! どうしたの? そんなとこでぼけっと突っ立って。遅刻しちゃうよ!」
背後から急に声をかけられて、海雪は飛び上がらんばかりに驚いた。振り返ると、見知った顔がそこにあった。
「……さ、佐緒里?」
高校時代の親友・佐緒里だ。今でも付き合いがあって度々会う機会はあるが、目の前に立つ佐緒里は幾分若く見える。大きな瞳とゆるいウェーブのかかった長い髪がチャームポイントで、男子の人気を集めていたことを思い出す。
彼女もまたセーラー服だ。自分が知らないところで一風変わった同窓会でも企画されていたのだろうか?
いや、そうではない──海雪は気付きはじめていた。
目の前に立つ佐緒里は高校時代の彼女そのものだ。つい先日会った彼女とは髪の長さが全然違う。背後にそびえ立つ母校も、前庭にある樹木の大きさがさっきより微妙に低い。それに加えて自分のこの格好……
海雪はおもむろにスクールバッグの中に手を突っ込んだ。記憶が正しければ、ここのポケットの中にあるはずだ。
「あった!」
取り出したのは、持ち手のついた小さな手鏡。丸い鏡面に自分の顔を映す。
(やっぱり……)
想像通りの顔が、そこにあった。
この間栗色に染めたばかりのショートボブではなく、真っ黒な髪を二つに分けてまとめただけのシンプルな髪形。
疲れとストレスでボロボロになりながらそれをファンデーションで必死に隠した肌ではなく、テニス部の練習で健康的に日焼けした張りのある肌。
己を見つめる二つの瞳だけは変わっていないと信じたい。
鏡の中の海雪は少し驚いていたが、高校時代の自分そのものであることは間違いなかった。
海雪はさらにバッグを漁った。中に入っている教科書は三年生のものだ。ノートの表紙にも「ⅢC 長岡海雪」と書いてある。
タイムスリップ──そんな言葉が海雪の脳裏をよぎった。夢にしては何もかもがハッキリしすぎている。とりあえずのお約束として頬をつねってみたが、この夢のような世界は何一つ変わらなかった。
どういう理屈かはまったくわからないが、二十四歳の中身だけが高三の夏に戻って来ているらしい。もしかして……
ふと思い立ち、海雪は焦ったように佐緒里の肩を掴んで揺すった。
「ね、ねえ……今日って何月何日?」
あまりの剣幕に驚いたのか、佐緒里は顔を引きつらせながらも答えてくれた。
「七月十八日……明日で学校終わりでしょ? 夏休みが待ち遠しくて頭おかしくなった?」
明日は終業式──ということは、まさか……
(今日は……あの日?)
茫然自失として立ち尽くす海雪を、佐緒里は本気で心配し始めたようだ。
「海雪、大丈夫? 顔色悪いよ?」
そう言って顔をのぞき込む彼女に、海雪は我を取り戻し、笑顔を作って見せた。
「……ううん、なんでもない。中入ろ!」
佐緒里の手を取り、海雪は引っ張るように校門をくぐった。