10-01 ハンメルダールの嵐
外には爽やかな初夏の風が吹いているのに、ハンメルダール侯スタルノの居室は、季節の変化を拒むように窓をしめきっている。
「父上にはお顔色もよろしく、恐悦に存じます」
そういってベールヘーナ公女は片膝を折った。
「ああ、そこにかけるがよい」
寝台に上体を起こしていたスタルノは、書見台を脇にのけて横の椅子をすすめた。同じ宮殿に住みながら顔を合わせるのはひと月ぶりだ。しばらく見ぬ間にスタルノの眼は穴のように落ちくぼんでいる。
去年の暮からスタルノは、寝たり起きたりの生活をしている。中年からの不摂生と漁色がここにきて衰弱を早めたようだ。だがその眼の光は、身体の衰えが頭脳にいささかの翳もおとしていないことをしめしている。
若くしてハンメルダール侯家を嗣いだスタルノは、政略結婚によって南回廊と南方草原をむすぶ同盟国の鎖を築きあげ、一代で商圏を倍に広げた。
――娘で国を買った。
と陰でささやく者もいるが、戦争によらずして大きな経済圏を確立し、繁栄をもたらした功績は誰にも否定できない。いたずらに女を食い散らかしていたわけではないのだ。
「さきほど国内の全貴族に動員令をだすよう指示した」スタルノは前置きなしでいった。
ベールヘーナもすでに独自にその情報を得ていたが、初めて聞いた顔で、
「もしやアルブダール伯の動きになにか」
「アルブダール伯国内の全軍管区が、昨日から警戒態勢に入ったと報告があった。演習でなければ、これは大規模な軍事行動をおこす前準備だ」
アルブダール伯国はハンメルダール侯国と同じ、いわゆる〝ケルト八国〟の一つで、ビスビュー家をふくむこの八国の初代は、共に南回廊の開発にたずさわった仲間だ。
「名目はやはり、わたくしとの縁談を拒絶されたということでしょうか」
「おそらくな。しかしあの縁談はそもそも断わられることを目的にしたものだった。余もいろいろな手は使ったが、女にふられるのを利用するというのは……。アルブダール伯め、よほど肚が太いか、とんでもない恥知らずだな」
ベールヘーナは黙ってほほえんだ。娘の縁談で大領主たちを手玉にとってきた老人が、今度ばかりは逆手にとられたのだ。
ベールヘーナが婚約したのは十七歳の冬で、相手はルーブレー子爵の十一歳になる公子だった。だが心身ともに虚弱な公子は婚姻の儀を待たずに死亡し、自然、婚約も解消された。ベールヘーナはついに相手と顔を合わせることもなかった。
いわくつきになったとはいえ、その後も寄せられる縁談は多く、なかでもモールベン家からは長男フェルデの妻にと強く申し込まれている。いずれもベールヘーナその人を望むものだが、アルブダール伯ばかりは、公女との結婚を足がかりにハンメルダール侯国を乗っ取る魂胆を隠そうともしなかった。
「周辺諸国の動きはいかがですか」
ベールヘーナは腹心の外務卿から情報を得ているのを侯爵に気づかれぬよう、あえてたずねた。スタルノのことだ、閣僚たちの間で次期国主にベールヘーナをかつごうとする動きがあるのはとうに察知しているはずで、ここで実権が自分の手から離れつつあると感じれば、ただちにベールヘーナを排除するだろう。死病の床にあってなお、この老人は公女の運命を握っているのだ。
「案の定だ。静観するつもりらしい」
ハンメルダール侯国の商圏拡大を歓迎していなかった周辺諸国にとって、アルブダール伯国との戦いで侯国が消耗するのは悪いことではない。仮にアルブダール伯国が勝って侯国を占領したところで、長続きするとは思えない。むしろ混乱に乗じて自国の勢力を拡大する好機だ。
「おそらくアルブダール軍はルエルグ河に沿って北上し、スカーイッヒの関で国境を越えようとするだろう」とスタルノは予想した。
スカーイッヒ山地は〈大変動〉で熔岩が湧きあがって生まれた小火山群だ。ハンメルダール領とアルブダール領の境界にあって、高さこそないが、割れた硝子のかけらを掃き集めたような複雑で険しい山容が、人々や浮揚筏の自由な往来をはばんでいる。
山地の南北をつなぐ街道は、山間を縫って流れるルエルグ河沿いの一本のみだ。自然、このルエルグ渓谷は南回廊と草原地帯とを結ぶ物流の要路として、これまで両国間で幾度も争奪戦がおきている。
スタルノも若い頃、先代アルブダール伯と戦って渓谷を守り抜いたことがある。その後スタルノは渓谷の支配を強固にするため、南側つまり伯国への出口寄りに砦を築いた。それがスカーイッヒ城だ。伯国にとっては庭先に泥靴で踏みこまれた気分だろう。
「しかしスカーイッヒ城には七百の守備隊がつめております。アルブダール軍も容易には突破できぬと存じますが」
「あの守備隊は平時の押さえだ。国をあげての攻撃となったら、わずか七百では心もとない。増援部隊を二千ばかり派遣しようと考えている。で、誰を守備軍の司令官とするかだが――」
ベールヘーナの頭の中に警報が鳴り響いた。
「本来ならスワランに命ずるところだが、やつはあのありさまだ」
侯爵のただ一人の公子スワランは、もともと享楽的な性格のうえに、どこから手に入れたのか麻薬中毒にかかっており、人格も肉体も半ば崩壊している。妃とは二、三年前からまったくの他人同然で、子供もいない。
「父上、お願いがございます」とベールヘーナはいった。
「それでスカーイッヒ守備軍の司令官を志願されたのですか」
呼ばれてベールヘーナの邸を訪れたストレイは、公女の説明を聞いて考えこんだ。
「姫さまが司令官ということになれば、兵たちの士気はさぞ高まるでしょうが――」
これはお世辞ではない。司令官はいわば軍の象徴で、その身分が高いほど軍の格式も高くなる。そうでなくとも若く美しい公女を司令官にいただいて、兵士らの意気が揚がらぬはずはない。むろん実戦の指揮は軍団長以下の職業軍人がとるのだ。
「姫さまには軍の指揮よりも、これまで通り殿のご名代として外交交渉に専念されたほうがお力を発揮できるのではありませんか」
「いえ、志願してよかったのです。しなければ今ごろ縁談が決まっているところでした」
公女の志願を受けてスタルノは、
――ならばイマズ伯の後添いの件は見送るか。
とつぶやいたのである。
「イマズ伯は、かなりのお齢ではありませんか」ストレイが驚いていった。
「六十七歳です。たしかわたくしと同じ年頃の孫がいらっしゃるはず」ベールヘーナは長い指の先を合わせて溜息をついた。「父上はわたくしを試されたのです」
貴族とくに国主階級では、美しい娘は政略結婚の切札なので、情が移らぬようことさら父親とは疎遠に育てられる。ベールヘーナも物心ついて以来、父娘の愛情などとは無縁に生きてきた。
それでもほかの公女は、母親とその実家が父と娘をつなぐ鎖になっている。だがベールヘーナの場合、母オースタはむしろ父との間に挾まった絶縁体といっていい。
――あの女だけは余の失敗だった。
とスタルノが親しい貴族にこぼしたとベールヘーナは耳にしたことがある。よりによってその娘の手に侯国を遺して逝かねばならぬというのも、見方によってはオースタの復讐といえぬでもない。
「それで赴任はいつごろになりますか」
「未定です。人事そのものも正式に決まったわけではありません。数日中にも発令があるはずです」
ストレイはうなずいた。詩が好きで水彩画に才能をみせるこの公女が、ひそかに政治、経済、軍事の勉強にも努めているのをわずかな側近たちだけは知っている。それでもベールヘーナの軍服姿はストレイには想像しにくい。
「ところで姫さま、アキツ・ユースケをおぼえておいでですか」
ベールヘーナは瞬きをした。それからゆっくりと、
「ユースケが、どうしたのです」
「先日ベセスタで行なわれた防弾外套と甲冑の入札に、イワマ交易という会社の社長として参加していました。やはりただの坊主ではありませんでしたな」
「もっと詳しくわかりませんか」
「そうおっしゃられるだろうと思い、報告書をお持ちしました」
ストレイは書類鞄から紙挟みを取りだして公女に渡した。
「関係者の話によりますと、イワマ交易の品はどれも造りのしっかりした新品ばかりで、品質は参加した業者のなかで最高だったそうです」
「ユースケらしいわ」公女は報告書に眼を走らせながらつぶやいた。「その品はスカーイッヒ城への増援軍に優先的にまわしてもらいましょう」
「それが……」
「どうしました。わたくしから直接に軍務卿へ要請してもよろしいですよ」
「実は、落札したのはイワマ交易ではありません」




