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天馬ゆくところ  作者: 天ノ川清
第八章 ジャルマ雪中行
32/55

08-03 カイザン


 突然カイザンが脚をよろめかした。尽きることのない体力を持っているかにみえた悍馬も、疲労が限界にきている。無理もない。もう二十時間ちかくも吹雪の中を歩きつづけているのだ。

 祐介は鞍からおりた。

「わっ」

 雪の中に腰まで沈んでしまった。もし崖の縁だったら、このままつき抜けて落ちていたかもしれない。なんて不注意だ。

 祐介は雪の上に仰向けになり、腰に留めたかんじきを外した。体重を分散させるよう注意しながら脚を片方ずつ抜きあげ、かんじきを長靴の底に取りつける。

 背負子を負っているので、立ち上がるのがまたひと苦労だった。馬の上で取りつけておけばこんな無駄なことはしなくてすんだのに。疲労で頭がまわらなくなっている。

 背負子の位置を直し、手袋の上に巻いた腕時計を見た。正午まであと四時間もない。位置表示器によれば、ジャルマ野草園まではあとわずか十五キロメートルほどだ。だがカイザンを心臓麻痺で倒れるまで歩かせるわけにはいかない。

 ロナンとレーナは、動けなくなった場所においてきた。燕麦の袋を自分で食べられるよう首に吊してきたので、あとは祐介が薬を届けて戻ってくるまで無事で待っているのを祈るしかない。

「ごくろうだったな、ここからは一緒に歩こう」

 祐介はカイザンの頸を撫で、手綱をひいて歩きだした。狼がいるかもしれぬ雪の林の中に置き去りにするのは、やはり忍びない。

 あと四時間で薬を届けられるとしても、引き返すのはやはり明日になるだろう。それまでロナンとレーナは無事だろうか。三頭の愛馬と自分の命をこんな危険にさらしてまで引き合う価値のある仕事だったのか。木原に追いつこうと焦って前が見えなくなっていたのではないか。

 いや、今はとにかく一歩ずつ前に進むこと、それだけだ。ここで考えこんでいては凍死する。

 ときおり吹雪の勢いが弱まっても、視界に入るのは黒い樹木か白い山肌ばかり。位置表示器だけが頼りだ。

 祐介は歩いた。腰で雪をかき分け、ひと足ごとに体力を奪い取られながら。

 おれは機械だ。祐介は呪文のように自分にいいきかせた。機械だから何も考えない。ただ足を前にあげ、下におろす。その動作を繰返すだけだ。

 頭の隅では、いくら焦っても汗をかくほど急いではいけないと冷静な声がしている。この寒さで汗をかけば、たちまち凍って体温を奪われてしまう。


いきなり誰かに背負子を押され、肩から雪の中につんのめった。顔が雪の中に埋もれ、おかげで意識がはっきりした。どうやら立ち止まって居眠りをしていたらしい。あやうく凍死するところだった。

「誰だ」

 見上げると、長い顔が祐介をのぞきこんでいる。カイザンだった。

「おまえ、起こしてくれたのか」

 苦労して起き上がり、時計を見る。十時半をまわっている。位置表示器によれば、あと七キロ。ということは、二時間半かけてわずか八キロしか進めなかったのか。

 祐介は歩きだした。正午に間に合うかどうかより、とにかくジャルマ野草園にたどりつかなくては死んでしまう。

 カイザンは頸に袋を吊したままだ。時々顔をつっこんでは燕麦を食っている。祐介も服をさぐり、最後の棒食を取りだした。これを食べてしまえば、野草園で補給するか死ぬしかない。

「そういえば、野草園の食事が、食中毒の原因、だったな」

 祐介は眠気を払うため、息を切らしながら大声で言い、その食事をあてにしている自分を嗤った。


 ふたたびカイザンに押し倒されて目が覚めたとき、時刻は十一時をまわっていた。あと六キロ弱。半時間でたった一キロ。この調子では野草園に着くのは午後二時だ。報酬がなくなってしまう。

 急がなくては。焦燥が祐介の尻を蹴りつけ、鞭打った。

「行くぞ、カイザン」

 とにかくなるべく速く足を前に出すこと、それだけだ。

 カイザンが鼻面で背を押す。二度、三度。後押ししてくれているのかと思ったが、そうではないらしい。

「乗れといっているのか」

 祐介は頭巾をとって馬の胸に耳を押し当てた。心臓の鼓動が力強く規則的に響いてくる。これならもう少し乗っても大丈夫だろう。

「ありがとう、しばらく頼むぞ」

 祐介はかんじきをはずして左足を(あぶみ)にかけ、疲れた体をなんとか押しあげた。

 カイザンは祐介の焦燥がわかるのか、疲れを忘れたような足どりで進みはじめる。祐介は胸が熱くなった。


 が、ついにカイザンも限界にきた。真っ白に吐く息の荒さでそうと察した祐介は、馬をとめてそっと雪の上におりた。十一時四十分。ジャルマ野草園まで約一キロ半。

「よく頑張ってくれたな」

 祐介はカイザンの頸を抱いて礼をいうと、手綱を握り、気合をいれて歩きはじめた。

 たちまち息があがる。額の生え際に汗が凍りつく。祐介は眉に凍りついた雪を指先で払い落とした。

 もう汗のことなどかまっていられない。ひと足ごとに下着が肌にはりつく。これで立ち止まったらすぐに凍死だ。だがその前に野草園に着けばいいだけのことだ。

 あと少し。喘ぎながら胸の中で調子をとり、ひたすら足を持ち上げつづける。

 もしかして位置表示器が故障しているんじゃ……。とたんに恐怖と焦燥に手足の動きがばらばらになり、思わずよろめいた。いや、今はそんなことを考えてはいけない。考えては……。


 白い幕の切れ間になにやら長い影が見える。あれは――。もがくように雪をかきわけ、足を前に運んだ。やった! 塀だ。

 祐介はよろめきながら門にたどり着くと、扉の横の通話器に触れた。

「薬だ、開けてくれ」

 大声のつもりが、かすれ声しかでない。

 錠前のはずれる音がした。だが電気が通じていないのか、門扉(もんぴ)が動かない。祐介は取っ手をつかみ、体重をかけた。

 門扉がゆっくりと横に滑る。祐介はわずかに開いた隙間に体を入れ、肩と足で扉をこじ開けた。

 ようやくカイザンが通れるだけ開き、祐介は手綱をひいたままころがりこんだ。建物の一部が見える。全体の大きさは吹雪に隠れてわからぬが、一キロも先にあるようだ。

 くそ、ここまで来て足がもう上がらない。手で雪をかくようにして、よろめきながら一歩ずつ前に進む。

 と、いきなり両脇から腕をかつぎあげられた。

「しっかりしろ、もう大丈夫だ」

 それはこっちの台詞(せりふ)だ、と思う気力はまだ残っていた。吐き気をこらえ、やっと、

「食中毒の、薬、持ってきた」

 とだけささやいた。無意識のうちに相手と同じ〈森林語〉を使っている。

「連絡はうけている。よくきてくれた」と右側の男が言った。

「おい、まだ子供だぜ」と左側。

「爺さんだってかまわんさ。とにかく早く中に入れるんだ」

「カイザン――おれの馬、頼む」

「安心しろ、廏舎に連れていった」


 建物のなかは、吹雪を一昼夜歩きつづけた祐介には、むっとするほど暖かかった。薬の入った箱を渡したとたん、重い疲れがどっとのしかかった。

 玄関脇の長椅子に腰をおろそうとして、はっと気がついた。門をくぐったときに時刻をたしかめるのを忘れていた。今、時計は十二時三十四分をさしている。

「おれが門をくぐった時刻、わかりますか」と、そばにいた中年の職員にきいた。

「警備装置に記録が残っているはずだ。それより今部屋を用意している。ゆっくり休んでくれ」

「おれの馬は、無事ですか」

「ちょっと待ってくれ」

 職員は電話をすると、

「かなり疲れているが、休ませれば快復するそうだ。うちの職員が世話をしている」

「――よかった。ありがとう、ございます」

 ほっとして長椅子に腰をおろした。とたんに眠りこんでしまった。



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