日本、家族、現実7
引き続きややホラー風味です。
ガタガタと音がする。
内側から鍵を閉めた教室の前後のドア、その窓から多くの人影が覗いていた。廊下側の壁の下部に付いている換気用の窓にも何かが当たる音が途切れることがない。机でバリケードを張ったそれらの向こうにいるのは、血の気を失い、皮膚が破け、濁った目をしていた。
生徒や先生の残骸のようなゾンビは、左手の甲に負った怪我を保健室で手当しているときに現れ始めた。先程までの静けさは消え、腐臭が漂い、襲ってくる死体の群れから逃げ回り、5階にある1年生の教室に立て籠もってもう何時間だろうか。窓の外は朝焼けか夕焼けか、またはそのほかの理由かで真っ赤に染まっている。
恐怖に高ぶった神経が鎮まると、今度は不安と悲しみが止めどなく溢れてきた。窓際の席を借りて震えをこらえていると、怪我をした部分が鋭い痛みを持っていることに気がつく。手の甲を少し抉るような傷はガーゼと包帯を巻いて止血していたが、そこを中心に肘のあたりまで、青緑色に手が変色している。指先は黒っぽく、いやな冷たさをしていた。
右手で恐る恐る触ると痛みは鋭いくせに、触れているという感覚がない。じわじわと色を広げるそれに絶望を堪え切れなくて、声を上げて泣き続けた。
ここには私を助けてくれる存在はいない。フィカルもおらず、もし現れたとしてもそれは偽物なのだ。夢だとわかっているのに、醒める方法もわからない。悪夢を見たときのように強く目を瞑ってみても、大きく動いても何も変わらない。次々と恐ろしいものが現れては、現実と変わりない五感に惑わされてしまう。
泣いて泣いて、頭痛がするほど泣き続けて、熱を持った頭を持ち上げてみても私はまだ教室にいた。腕の付け根まで変色して左手が動かなくなってしまった頃には、ぐったりと疲れ切って悲しむ気力も残っていなかった。
教室のあちこちを嗅ぎ回っていた黒い生き物が、私が泣き止んだのに気が付いて足元に寄ってくる。爪の付いた足でソックスを履いた私の足に登ろうとする。右手だけで抱え上げ、机の上に置くと一度クルリとあたりを見回すようにその場で周り、黒くて丸い瞳で私を見上げた。
右手で左腕を持ち上げ、痛みを堪えながら青緑色になったそれを黒い生き物の隣に乗せると、尖った鼻先がふんふんと熱心にそれを嗅いでいる。
「……食べないの」
私もお父さんと同じように食べればいいのに。このまま腐って全身が気持ちの悪い色になって苦しむよりは、いっそ頭から食べられて楽になりたかった。感覚のない左腕に頭を乗せるように机に凭れ掛かると、横を向いた顔を濡れた小さい鼻が検分している。
「私も食べなよ。もう嫌だ。こんなところにいるくらいなら、死んじゃいたい」
ぽろりと残っていたらしい涙が腫れた目から溢れると、黒い生き物が頬をペロペロと舐めた。涙を拭き取るようにせっせと伸ばされる小さな舌は、黒い生き物の中で唯一ピンク色をした部分だった。頬を舐められるたびにふんふんと小さな鼻息が顔にかかる。
温かな舌は必死になって涙を追っていた。
「……嘘。こんな気持ちで死にたくない」
動く右腕で黒い生き物を囲い、ふわふわした柔らかさを頬に寄せる。ひくひくと動くお腹に、顔を動かすもののじっとしている手足。息を吸い込むと、日光にあてた布団のような匂いがした。
この世界は、私が恐ろしいと思うもので出来ている。家族の豹変、誰もいない街、モンスター。忍び寄る死。助けは来ない。魔術師ルタルカは、絶望しろと言った。私が絶望するようなことしか起こらないのだろう。会えたと思った家族が偽物なのも、逃げ場がないのも、それを証明している。
私がこうやって悲しんでいることで、星石を取り巻いていたような黒い魔力が作られているのだろうか。
それは、すごく、癪だった。
あんな奴の思い通りに私はぬか喜びして、逃げ回って怯えて、絶望して死にたいと思うだなんて、それであっちの世界の星石を壊す手伝いをしているだなんて、死んでも死にきれない。
右腕で顔をごしごし拭って立ち上がると、左腕に鋭い痛みが走った。痛みはひどくなっているのに、さっきより気にならない。悲しみも不安も絶望も、どうやら品切れだった。
残っているのは怒りである。私は大きく息を吸ってそれを膨らませた。
「魔術師ルタルカのバーカ! もう絶対絶望なんかするかー!! 卑怯者! スーの尻尾に潰されてしまえー!!」
私の叫びに呼応したかのように、教室の壁が炎に埋め尽くされた。火の粉は熱く、空気は喉を焼く。黒い生き物が机の上でオロオロと回っている。教室は炎の明かりでほとんどが見えなくなってしまっていて、四方から迫ってくる炎に体がヒリヒリした。苦しさに蹲りたくなる気持ちを吹き飛ばすように、今まで座っていた椅子を片手で掴んで正面にぶん投げる。
「ここで死ぬんだとしても、絶対に絶対に絶望なんかしない! 笑って成仏してやる!!」
これが肝が据わるということだろうな、と妙に冷静に考える。
どのみち死ぬんだったら、途方に暮れて悲しみながら死ぬのはごめんだと思った。あがいても無駄なら気持ちくらいは好きにさせてもらう。
怖いCMを見て眠れなくなった子供の頃、お父さんとお母さんが一緒に寝てくれたこと。夏休みに旅行したこと。バレンタインに弟にチョコを渡したら鼻で笑っていたのに冷蔵庫に入れていた余りの分まで食べていたこと。高校の入学式で、小学校の頃の友達と再会したこと。あこがれの先輩に頭を撫でられて3日くらい浮かれていたこと。数学の課題がわからなくて落ち込んでいるところを見つかって、家族皆でワイワイ言いながら悩んだこと。おじいちゃんの喜寿のお祝いで中華料理を食べに行ったこと。
フィカルと2人で、四苦八苦しながら料理をしたこと。埃が溜まった部屋でシーツを払ったら揃ってくしゃみが止まらなくなったこと。山菜摘みに熱中して足が痺れた私をフィカルがすごく困惑した顔で助けてくれたこと。私の脇に手を入れて持ち上げてぎゅっとするフィカルの温かさ。頬にキスされるとちょっと照れること。
幸せな記憶は沢山ある。もし家族と会えないままでも、この気持ちはなくなることはない。フィカルと会えないまま死んだとしても、手の温かさは鮮やかに思い出せる。どんな些細な喜びでも、思い出せば胸が暖かくなる。
どう見ても本物に感じる炎に焼かれかけたって、絶望しなきゃいけない決まりはない。焼かれて苦しみにのたうち回ってるとしても、その寸前まで幸せな思い出に浸ってやる。
そう覚悟していると、机の上にいた黒い生き物がいきなりジャンプした。
「あっ」
自分から炎に飛び込んだその姿に驚いていると、炎に巻かれて見えなくなると思った姿は消えることなく黒いシルエットを保っていた。熱くて目も開けることが難しくなってくる中で、その黒いシルエットはどんどん大きくなっていく。最初は黒い生き物が巨大化しているのかと思ったけれど、そうではなかった。
「……食べてる?」
モッモッモッモッと小さな音を立てながら、黒い生き物が小さな口を開けて炎をもぐもぐと吸い込んでいく。ほんの少しずつ、けれどもその小さな体にしては驚くほどのスピードで、炎を食んでいった。炎が食べられたあとは真っ暗闇しかない。
黒い生き物と同じ混じりけのない闇はどんどん広がり、天井も覆い尽くし、最後には私の意識も染め上げる。
最後にバチバチ、と何かが弾けたような音が聞こえた。




