目覚め
何てことはない日常だった。
いつものように学校に行って、授業を受けて、友人とくだらない話をして、ご飯を食べて、お風呂に入って床につく。
朝起きれば学校があり、学校が終われば家に帰る。家に帰れば夕食を食べて、風呂に入って、適当な動画を眺めながら眠りにつく。
今日も今日とて、何の面白みもない日常。
尤も、そんな非日常的なことが頻繁に起こっても困るわけであるが……。
毎朝起きたら部屋が宇宙船になっていたとか、学校に行ったら校舎が巨大ロボットに変形したとか、そういうイベントが毎日のように発生したら、それはそれで疲れるだろう。
平穏が一番。刺激なんて、たまに夢の中で味わうくらいでちょうどいい。
そう。本作の主人公であるこの少年は夢が好きだった。
現実ではあり得ないことが、夢の中なら何でも起こる。
空を飛ぶこともできるし、魔法だって使える。剣を振り回して怪物と戦うこともできる。何より、自分の思い通りにならない現実とは違って、夢の中では何者にだってなれる。
だから少年は、眠ることが嫌いではなかった。むしろ好きだった。
今日もまた、どんな夢を見るのだろう。そんなことを考えながら眠りについた。
「─────い! おい!」
誰かが少年を呼んでいる。
誰だ。父親か、母親か。はたまた、ちょっと気の強い姉か。
誰でもいい。誰でもいいから、せっかく夢を見かけているのだから起こすのはやめていただきたい。
夢というものは、いいところで終わる。それが夢というものだ。
映画なら二時間かけて物語を楽しめるというのに、夢は十分そこらでクライマックスを迎え、そして目覚まし時計によって強制終了させられる。
「─────おい!」
また声が聞こえた。
うるさいなぁ。もう少し寝かせてくれ。
そんなことを考えているうちに、少年の意識が徐々に浮上していく。
最初に戻ってきたのは触覚だった。足元が硬い。ベッドではない。
次に聴覚。何やらざわざわと、人の話し声が聞こえる。
嗅覚。知らない匂いがする。
味覚……は、特に何もない。むしろあったら怖い。
そして最後に、視覚。
「………あれ?」
少年の頭に疑問符が浮かんだ。
目を開ける。そこには知らない天井があった。いや。天井ですらない。
視界いっぱいに広がっているのは、青い空だった。
「…………」
少年はしばらく黙って空を見上げた。
そして、ゆっくりと首を動かす。
まず目に入ったのは、一人の男だった。三十代くらいだろうか。筋肉質で、いかにも軍隊の教官をしてそうな顔をしている。
手には分厚い紙の束。こちらを訝しげに睨み付けている。
その後ろには、大勢の人間がいた。百人……いや、それ以上いるかもしれない。
十代後半くらいの少年少女たち。
しかも全員、同じような服を着ている。制服……なのだろうか。夢でまで学校とか辛い。
しかし、自分の知っている学校の制服とは明らかに違う。
白を基調とした服に、見慣れない紋章。剣を腰に下げている者までいる。
「…………」
少年はさらに周囲を見回した。
巨大な石造りの建物。円形に広がった観客席。中央に立つ自分。まるで中世のコロッセオだ。
ただし、コロッセオなんて実物を見たことはない。テレビやネットで見た知識しかない。
それでも、明らかにここが自分の知っている場所ではないということだけは分かった。
「何を惚けている?」
目の前の男が口を開いた。
「…………え?」
「話を聞いていたか?」
「いや……」
聞いていたも何も、今起きたばかりなのだが。
男は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「次はお前の番だ」
「俺の番……?」
「まさか、何の話も聞いていなかったわけではないだろうな?」
いや、だから。
話がいきなり始まったのだから当たり前だ。
本を読むのに、いきなり真ん中のページを開いて読み始めたって内容を理解できるわけではない。
少年が何も答えられずにいると、男は深いため息を吐いた。
そして手元の紙へ視線を落とす。
「ミナモ・レイ。三月七日生まれ、十八歳。出身はエイト村。これに間違いは?」
「…………」
誰やねん。それ。
少年は心の中でそう呟いた。
ミナモ・レイ。そんな名前ではない。もっと平々凡々とした名前だ。
三月七日生まれでもない。誕生日は夏くらい。
十八歳でもない。まだ十七だ。
そもそも、エイト村なんて聞いたことすらない。どこやねん。
何一つ合っていない。
では、何故そんなことを聞かれているのか。
分からない。さっぱり分からない。だが、一つだけ分かることがある。
この状況で「全部違います」と答えていいのかどうか、それすら分からない。
ならば、余計なことは言わない方がいい。
「…………間違い、ありません」
おずおずと答える。
自分でも分かる。
まるで裁判にかけられた犯罪者が、罪状を確認されているような返事だった。
「ならば、早くしろ」
「え?」
「魔法を放て」
「…………はぁ」
魔法。
その単語を聞いた瞬間、少年はようやく足りない頭で一つの結論に辿り着いた。
「………あ、夢か」
何でやねん。
いや、気持ちはわかる。
寝て起きたら見知らぬ場所にいて、知らない男に知らない名前で呼ばれて、挙げ句の果てには魔法を使えと言われる。
そんなもの、夢以外に何がある。
日頃からアニメや漫画を見て、異世界ものを読み漁り、主人公が異世界で無双する展開を妄想してきた。
その成果が、今日こうして夢として現れたのだろう。
なるほど。納得だ。
………いや、やっぱ何でやねん。
「わかりました」
少年が答えると、背後から何人もの声が聞こえた。
「ようやくか」
「遅い……」
「次がつかえてるんだけど」
どうやら少年はかなり待たせていたらしい。
申し訳ない。しかし、少年だって状況が分からないのだから仕方ない。
少年は右手を前へ突き出した。大体これで何とかなる、と安直な考えである。
しかし、魔法。当然、使ったことなどない。そもそも現実には存在しない。
だが、夢なら話は別だ。漫画やゲームでは、魔法を使うときは手を突き出したり、何やら詠唱したりする。
ならば、とりあえず手を突き出せばいい。
………もう一度言おう。ただの安直な考えだ。
「…………」
何も起こらない。やっぱり無理か。そう思った瞬間だった。
突き出した手のひらに、淡い光が集まり始めた。
「…………え?」
光が円を描く。
複雑な文字のようなものが浮かび上がり、幾何学的な模様が次々と重なっていく。
「おぉ……」
魔法陣。間違いない。ゲームやアニメで何度も見たことがある。実際に見ると、とても感動する。
「おぉ……!」
少年の声が自然と漏れた。何が出るのだろう。
炎か。雷か。それとも風か。
まさか、伝説の聖剣とか、とんでもない魔物とか。
期待が膨らむ。
魔法陣が強く輝いた。
「おぉ!」
光が弾ける。
そして、その中から現れたのは――。
青色の、プルプルとした何かだった。
「…………」
少年は固まった。
それはゆっくりと地面に落ちる。
プルン。
そして、もう一度。
プルン。
青色の半透明な身体。
丸い。
目立った手足はない。
警戒すべき要素がまったくない。
「…………スライム?」
誰かが呟いた。
少年も思った。スライムだ。間違いない。
ゲームなどで見れば、正しく雑魚。序盤に出てきて、主人公に一撃で倒される。
経験値も少ない。お金もあまり落とさない。
そんな存在。
こんなものにチートだのエロだのを考えついた輩は、素直に称賛したい。
発想力が凄すぎる。
少年がぼんやりスライムを眺めていると、男が紙に何かを書き込んだ。
「ミナモ・レイ」
男が淡々と呟く。
「ランクF」
「…………F?」
その瞬間だった。
背後の空気が変わった。先ほどまで自分を見ていた少年少女たちの視線。
好意的ではなかったが、それでも、まだ人間を見る目だった。
だが今は違う。
まるで道端に落ちている石でも見るような目。
あるいは、それ以下。
「邪魔だ、F。次は俺の番だ」
不意に若者の一団から一人の少年が出てきた。
肩を押される。
よろめきながら、その場から退く。
「…………」
何が何だか分からない。Fとは何だ。スライムがそんなに駄目なのか。
そもそも、ここはどこなのか。何故自分はここにいる。
何故「ミナモ・レイ」と呼ばれている。
疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。
そのときだった。
足元にいたスライムが、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
プルプル。
そして、レイの足に身体を擦り付ける。
まるで甘えているようだった。
「…………」
可愛い。
さっきまで雑魚だと思っていたが、実物を見ると案外可愛い。
レイはしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。
プルプルと揺れる身体。
触ってみたい。
そんな気持ちで手を伸ばした、その瞬間。
スライムの身体に、何かが映った。
「…………?」
青く透き通った身体。
その向こう側に映るもの。人間の顔。自分の顔。
レイは手を止めた。
そして、自分の頬に触れる。スライムに映った顔も、同じように頬へ触れた。
右頬。左頬。髪。目。鼻。口。
何度確認しても同じだった。知らない顔。
「…………」
心臓が、大きく跳ねた。
違う。この顔は違う。俺の顔ではない。
それまで頭の中にあった疑問が、一気に一本の線で繋がっていく。
ミナモ・レイ。三月七日。十八歳。エイト村。
そして、この顔。
全部。全部、俺じゃない。
「…………嘘だろ」
声が震える。
夢なら。
夢なら、目を覚ませばいい。
そう思って頬をつねる。痛い。
「…………痛い」
もう一度つねる。痛い。
夢なら痛くない、というのも何となく聞いた話だ。
だが、痛いものは痛い。
心臓が早鐘を打つ。
待て。落ち着け。これは夢だ。夢に決まっている。
大きく息を吸う。吐く。
もう一度吸う。吐く。
そして、三度目。肺いっぱいに空気を吸い込んで――。
「嘘だろぉぉぉぉぉ!!!」
世界に、レイの叫びが響き渡った。




