十二 糸口 ③
リベラはトリノの教会に帰ったあと、自室の本棚から学会の論文集を引っ張りだしていた。資料の数が多かったためなかなか見つからず途中で諦めかけたが、「フリウリ」「豊饒祈願」「異端審問」といった語彙を頼りにして探したところ、部屋の床が論文集で埋まりかけた頃にようやくそれが見つかった。とある歴史学者が一人だけ、存在に言及していたのだ。
「一六世紀後半のフリウリ地方、チヴィダーレの修道院へある報告がなされた。近辺の村で年四度の斎日期間中、決まって木曜日、夜になると幾人かの男たちが野原を獣とともに徘徊し、茴香を武器として人々に害をなす魔術師を退治するのだという」
「彼らはベナンダンティと呼ばれ、生まれてきたときに羊膜を纏っていた者だけで構成される」
「この報告は修道院を通して教皇庁に届き、修道院からベナンダンディを自称する者に対して幾度かの尋問がなされた。検邪聖省は彼らに異端の判決を下し、極刑には処されなかったもののそれらの習慣を禁止した」
「以後、異端審問にベナンダンティ、もしくは類似の記録は見られない。最終的に人々は教会の追求を恐れ、長いあいだ保持していたベナンダンディの伝統を放棄したものと思われる」
ニコリの話に誤りはなかった。フリウリ地方を中心にかつてベナンダンディなる祈祷集団が存在し、たしかに五穀豊穣や病気の快癒を祈願した。論文も出鱈目ではないだろう。著者は目立たないながらも学会で不正をした経歴はなく、出典はヴェネツィアとモデナの文書館が所蔵している裁判資料と記されている。どちらもフリウリ地方からそう遠くない場所に位置していることを鑑みるに、まず信用してよさそうだった。
実際、タブロイド紙〈ストリラ・ディ・トルエ〉の出版社に連絡を入れると、さっそく反応があった。リベラが教会神父であり、かつエクソシストでもある自らの身分を明かし、メイヴの一件を報じた記事について質問したい旨を告げるや相手も二つ返事で快諾。すぐさま日時が決まり、その四日後には早くもミラノ郊外の喫茶店で顔をつき合わせる運びとなった。
「あなたがお電話くださった神父さまですね」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。電話でもお話があったと思いますが、私の方で〈ストリラ・ディ・トルエ〉で当該記事の取材と執筆を担当させていただきました」
二人とも名前は名乗らない。リベラの方から互いに名前を伏せておいた方が無難であると申し出、相手方も了承した。だが向こうは知らなくとも、リベラは記者の顔に見おぼえがある。マンションの前で口論をした挙げ句、大家に叩きだされたあの痩せた若い男の記者だった。
「では、神父さまからどうぞ。お知りになりたいのは、どのようなことで」
さすがに続報を期待しているだけあって、以前に目にしたときと比べて物腰は別人のように丁寧だ。リベラは普段着を纏っている。店内にはそこそこ多くの客がいるが、二人の話に耳を傾ける者はいない。安心して話ができた。
「この記事、アスティの悪魔憑き事件が広く知れわたる前から御社で報道されていますよね。どういった経緯で書かれたんです。といいますのも、普通、依頼を受けたエクソシストはこうした話を外には漏らさないものですから」
リベラは鞄を開け、記事の写しを広げた。そこには「テーブルを浮かせたチェゼーナの少年」、「金の彫像を吐いたサレルノの女性」、「プルフェロで母親が息子に降魔術」、「カリアリの悪魔崇拝」といったおよそ教会関係者の記憶にない事件が列挙されている。
「実は私、今の会社に務めて三年になるんですが、今年に入って社に匿名の投書がありましてね。本物の悪魔憑きがいる、アスティのどこそこだなんて具体的な住所まで書かれていたので、直に確認しに足を運ぶと実際に騒ぎがあったらしいことが分かったんです。当然、記事になると編集長も私も判断しましたから、また次の投書にも飛びつきましたよ。するとそこには過去に類似のこういう事件があったから、まずそれらを記事に掲載しろ、そうすればアスティのマンションを借りる手筈を整えてやる、費用も口座に振り込んでやると書かれていたんです。でもそのあとが散々でしてね。社命で部屋を借りたはいいんですが、あそこまで大事になると他の新聞社も飛びついてきて、結局は特だねでも何でもなくなってしまいましたよ。おまけに投書はそれきりで途絶えた挙げ句、大家には追いだされるわ、編集長から怒られるわで」
なるほど教会関係者が記事を掲載するよう話を持ちかけ、思いどおりの報道をさせるため金をちらつかせたわけだ。その時点で目的が達成されたとなれば、直後に手を切られてもおかしくはない。記者も相当に落胆していたと見え、大きく溜め息をついた。
「とんだ災難でしたね」
「仕方ありません。うちは大手じゃありませんからね。こうした垂れこみを見逃すわけにはいかないんです。編集長も引っ越し代やら何やら面倒な手続きがあったんでしょう。怒られても文句は言えません」
「それで、あなたが書いた記事にいまお話に出た類似の事件が列挙されていますね。このうち、投書で掲載するよう指示があったのはどれですか」
「全部ですよ」
「その四つは、全て裏が取れているのですか」
いかに取材内容が魅力的とはいえ、記者が裏も取らずに記事にするとは思えない。列記された四つの事件のうち、ある一つは裏が取れているだろうとの見込みがあった。期待といってもよい。それが外れれば、こうして記者に会う手間も徒労に終わる。息を呑んで答えを待っていると、記者は鞄から一冊のノートを取りだした。貼りつけられているのは、やたらと古い日付の新聞記事だった。
「これだけですよ」
「見せていただけますか」
リベラはノートを受けとるなり、貪るように記事に目を通す。複写機で写しとられたもののため多少は読みづらかったが、気にしている暇もなかった。
「オーストリアとの国境プルフェロにて、腸チフスにかかっていた八歳と七歳の兄弟が放置されていた。専業主婦の母親は病院へ連絡する必要があったにも関わらずこれを怠ったため、保護責任者義務違反の容疑で逮捕。兄は死亡し、弟は一時重体だったものの後に回復」
「プルフェロの息子兄弟を放置した事件について、取り調べを受けた容疑者は『木曜日に夢の中で病魔を祓うつもりだった』と供述。これを受けて薬物取締法違反の容疑で捜査も行われたが、家宅捜索で物的証拠は発見されず、立件は見送りとなった。なお、生き残った弟は事件発生時に出稼ぎに出ていた父親が引き取って同地を出たが、容疑者は親権について争う構え」
記事の年号は一九二〇年。当時七歳だとすると、いま生きていれば三十八歳。年齢も一致する。そして記事には生き残った子供の名前も記されていた。そこにはロマーノ・バルトロッティとある。羊膜をしまっていた箱に書かれていた姓と同じだった。本来の姓を名に変えて改名したものの、自らの出生に関わるためだろう、捨てられずに素性を覚られないよう元の名前の方だけを消して手元に置いておいたのだ。リベラはこの資料をこそ求めていた。列挙されている事件に、ロマーノと関わりがあるものが混じっているとすればカリアリでもチェゼーナでも、サレルノのそれでもない。可能性があるのはフリウリ地方の小さな村、プルフェロしかなかった。それにこの事実を突きとめられたおかげで、あの儀式の際に取り憑くものが見せたこけおどしが何だったのかに合点がいった。またロマーノが挑発に乗ったのか理由にもだ。あれが死んだ兄だとすれば本来はドイツ語でなければいけないのに、あのときはイタリア語で語りかけてきた。まやかしなのは明らかだった。
「ありがとうございます。ところで、この記事はどこで」
「フィレンツェの国立中央図書館です。それらしい年代の記事を総当たりして、ようやく見つけたんです」
リベラはメモ帳に記事の紙名、日付を写しとると、静かにノートを閉じて記者に返す。ロマーノの素性を裏づける貴重な資料だった。あとで然るべきところに提示する際に役に立つ。
「他の三件については、裏付けはあるのですか」
「あってないようなもんです。残りは昔のゴシップ記事を引用しただけでしてね。私はしっかり裏が取れているプルフェロの件だけを掲載したかったんですが、編集長から投書に従えと物言いが入ったんです。ですからお恥ずかしいことに、残りはそのまんまですよ。禄に下調べもしないで記事を垂れながしただけです」
「手紙をよこした匿名の人物とは、本当に連絡が取れていないのですか」
「ええ、それがまったく。二度とも投書でしたから、元を辿りようがありません。一度目の消印がナポリ、二度目がフィレンツェ。口座に振り込みがあったのもここミラノからですから、出どころが分かるとよほどまずいんでしょう。ところで、そろそろいいですか。私の方から」
そこで今度は記者が質問に回る。今日の話は何もリベラからの一方的な要請によるものではない。相互の情報交換が条件となっていた。
「なぜ、この記事についてお訊きになるのですか」
「列記されていたいずれの事件も、私の知っている悪魔憑きの実例になかったためです。あのような現象は、長いあいだ聖務に就いている者でもほぼ目にすることはありません。エクソシストが実際に体験したとなると間違いなく教会で噂になるほどのものです。私たちの言葉で表現するならば、ほとんど奇蹟といっていいでしょう。それに先ほど申しあげましたように、あなたがたに情報が渡った経路が不明でしてね……」
用を済ませたリベラは再び気を引きしめたが、記者からの質問は実に拍子抜けしたものだった。死んだのは実際にロマーノであるかどうかの確認以外は、悪魔祓いはどのようにして行うのか、今回の件のように死者が出た例はあるかなど一般的な内容がほとんどだったのである。どうやらエクソシストと話をする機会そのものが貴重であるらしい。唯一、記者の会社に寄せられた投書についての質問もあずかり知らぬところだった。
「ここにうちの社に送られた投書がありますが、この字に見覚えはありませんか。聖職者といっても、かなりの人数だと思いますが」
「すみませんが、分かりません。あなたの仰るとおり、国内に限定しても教会関係者は相当数おりますので」
「ではうちに投書した人物は、何が目的だったんでしょう。思いあたるところはありませんか」
「私たちは聖務の一環としてこうした治療に当たっていますが、今回はキリスト教徒でない方が対象です。どこからか噂を聞いて──ご存じのとおり教会関係者には様々な考えの者、あるいはそうした派閥があるものですから──おそらく儀式を妨害しようとしたのでしょうね。少なくとも私たちは、治療を行ううえで新聞その他の報道は避けるよう心がけています。それを知って敢えて情報を流した可能性は十二分にあります」
余裕をもったリベラは回答ついでに、投書をした人物へ細やかに抵抗するつもりで記者に教会内部の対立を示した。あるていど宗教行政や政治回りに敏感であれば、容易に辿りつく考えである。詳細まで語らなければ、その背景にあるロマーノの経歴まで嗅ぎつけられる恐れはない。記者も現役エクソシストに取材が出来、満足したと見えノートを閉じる。
「いやあ、ありがとうございます。やっぱり、きな臭い話でしたか」
「あくまで推測ですよ、推測です」
「それにしても、エクソシストの方はこうした報道があると敏感なんですね。神父さんと同じ質問を、ロマーノ神父からもされましたよ」
「えっ」
倣って話を終わらせるつもりでいたリベラは、立ちあがるのを止める。記者にとっては何気ない一言だっただろうが、まったくの初耳だった。
「それは本当ですか」
「ええ。ご説明が遅れましたが、亡くなった方のことを勝手にお話しするのはまずかったですかね。まあでもこの際です、ロマーノ神父からもこの記事について詳しく訊きたいと連絡がありまして。記事を出してすぐです。私も、もしかしたら投書の主じゃないかと思ってお会いしたんです。そうしたらいいえという答えで、予想とは違ってました」
「そのとき、何か言っていましたか」
「いいえ。逆になぜそのことをお訊きになるのか質問したら黙りこんでしまって、実際にお会いしたといってもすぐに帰られてしまったんですよ。私がロマーノ神父について知っているのは、それくらいです」
これでリベラの抱いていた確信は、ほとんど事実の確定に変わった。ロマーノが電話口で記事の存在を確認したあと、記者に掲載の経緯を問いただしたのはまさに自身に関わる内容が記述されていたために他ならない。ただの憶測ではなく、おそらくは事実を確かめたうえで苦悩の末、施術の方針を変更したのだ。
「重ねがさね、ありがとうございます。それと場合によっては、またこちらからお電話をするかも知れません。その際は、私も素性を明かすことにします。いかがでしょうか」
リベラは別れ際、記者に新たに依頼を持ちかけた。これからアルトベッリと話をするに当たり、必要となる詰めの交渉だった。記者はすぐさま頷いた。
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