九 疑念 ①
ところが、リベラに落ち着く暇はなかった。ロマーノが半ば身代わりを買って出たことなどお構いなしに、アルトベッリの言うとおり身辺に異変が起こったのである。最初は脅迫文だった。助祭が持ってきた郵便物に、差出人不明の手紙が交じっていたのだ。
リベラが封筒を他の郵便物と同じように口を開いて下に向けると、先に手紙ではなく無数の細かな黒い塊が机に転がりおちる。はじめ何であるのか分からなかったそれは、鼻を近づけて臭いを嗅いでみたところ正体が判明した。リベラは急いで机の郵便物を脇にやり、下の階に向かって助祭を呼ぶ。
「ちょっと、早く来てください」
普段は穏やかなリベラが珍しく大きな声を上げたのを聞き、助祭のフランコ・フィオーレが階段を駆けあがって部屋に来る。
「いったい、どうされました」
「鼠の糞です」
「何ですって。今、すぐに掃除します」
どの生物の糞も清潔ではない。しかし鼠のそれは感染症の原因となりうる菌を多く保有しており、とりわけ人体に害をもたらしやすい。フィオーレは踵を返して掃除用具を取りに階下へと降り、リベラは急ぎ足でトイレへ向かう。そうして丹念に手を洗いながら、まだ肝心の手紙を読んでいないことを思いだした。碌に手も拭かず部屋に舞いもどり、まだフィオーレが洗剤と雑巾を持ちだし掃除を続けている傍ら、もう糞が付いていないのを確かめて折り畳まれた便箋を指で広げる。そこには次のように書かれてあった。
「件の悪魔祓いは、結果の如何に依らず典礼書に則ること。さもなければ、身の安全は保証しない」
通常であれば、誰に何を言われるまでもなく典礼書に従う。なのにこのような脅迫文が送られてきたのは、本来は秘匿にされているはずのメイヴの件がどこかから漏れているために違いなかった。
「どうかされましたか」
手紙を掴んだまま宙を見つめていると、いつの間にか掃除を終えていたフィオーレに声をかけられる。メイヴの一件はもちろん教皇の書簡も機密事項であり、たとえ同じ教会の人間であっても知られるわけにはいかない。
「いいえ。気にしないでください」
リベラは、一度めはさあらぬ体でその場を取り繕った。様々な思想の持ち主によって教会へ脅迫文が送りつけられたことは過去に何度かあり、今それが来たのは偶然かも知れなかったからだ。
しかしその期待は早くも裏切られた。翌日から同様の手紙が、毎日のようにリベラのもとに送りつけられるようになったのである。それも一通とは限らず、二、三通が手元に届く日もあり、うち幾つかには動物の汚物や虫の死骸が同封され、中には差出人の欄にイエズス会からシトー会、フランシスコ修道会、ドミニコ会など修道会の名前が記されているものも交じりはじめたのだ。内容も典礼に則るようにとの脅迫ばかりではなく、ほぼ同程度の割合で逆に典礼を覆すようにとの要求もあり、おまけに修道会の思想と主張がかなりの率で異なっているせいで差出人の名前を鵜呑みにもできない。およそ把握できるのは、メイヴの件を巡ってカトリックの内部で勢力争いが繰り広げられていることくらいだった。
リベラは脅迫文が届けられているのを知られぬよう、開封時に汚物を撒き散らさぬよう気をつけていたが、ゴミ箱は数日と経たぬうちに封筒で一杯になってしまった。やむなくフィオーレを部屋に呼ぶと、虫や小動物の糞が入れられた封筒を目にして不審の声をあげる。
「リベラ神父、心当たりがあるのですか」
リベラから見てフィオーレは義理堅く、聖務に忠実なうえ非常に口が固い。それを見込んで、再び封筒を始末させるために部屋に呼んだのである。全ては隠しとおせぬものと割り切り、必要な部分だけを打ち明けた。
「ええ、あります。しかし込みいった事情で詳細をお話しできません。分かりますね。同じ教会にいる者同士でも、守らなければいけない秘密があるのです。それからこのことは黙っておいてください。私も極力、あなたに危害が及はないように務めますから」
フィオーレは静かに頷き、何も言わずゴミ箱を部屋の外に持っていく。以降、この手の郵便物が来たときは封筒の処理を全て同じように任せることとした。中の手紙はリベラが抜きとっている。事態はこれより大きくはならないはずだった。
それでも手紙の差出人、あるいはメイヴの件を知る者たちは効果が見られないのを不満に思ったらしい。汚物入りの手紙が送られはじめて一週間ほど経ったあと、今度はリベラのもとに電話がかかってくるようになったのである。
「もしもし、リベラと申します」
電話主は何も言わず、受話器の向こうで黙っていた。音声から回線が切れているのではないのを確認し、リベラは再び相手に名乗る。
「もしもし、こちら〈賢者の賜〉教会です。私が神父のリベラです」
なお相手が何も言わないために、仕方なく受話器を置いた。電話を繋いだフィオーレが、近くでその様子を眺めていた。
「どうしたんですか」
「何も言わないんです」
「本当ですか。たしかにリベラ神父に替わってもらうよう言ってたんですが」
わざわざフィオーレが嘘をつく必要はない。たちの悪い無言電話と捉えるとともに、多分に脅迫の一種であろうと予感した。そしてそれはすぐに確信に変わる。またもフィオーレが数時間後に、今度は相手を検めたうえで電話を繋いできたのだ。
「アルバの〈洗礼の泉〉教会からです。モンテリーゾ神父と仰っています」
同じトリノ教区にある〈洗礼の泉〉教会とは、これまでに何度もやりとりがある。主任司祭は比較的高齢のモンテリーゾで誤りはないはずだ。本当に無言電話なのかどうかは別にして、もし本人であるなら出るべきだろうと踏んで受話器を取る。だが、第一声を聞いて異変に気づいた。記憶にあるモンテリーゾの声と明らかに違う。老人の声ですらなく、もっと若い男のそれなのだ。
「メイヴ・コノリーへの悪魔祓いを止めろ」
相手はその一言だけで電話を切ったが、リベラはしばらくその場から動けなかった。不意を打たれたというより、相手の執拗さに恐怖を覚えたのである。一週間前から送りつけられている手紙では、こちらに反論する機会はない。いっぽう電話では、その可能性がある。なのに抵抗の危険を顧みず、こうまで立て続けに脅迫をしてきたのだ。相手の強い意志の表れだった。
「やはり、いたずら電話だったのですか」
リベラが受話器を置くと、フィオーレが申しわけなさそうに頭を垂れる。教会に来て年数も浅い。責めるのはお門違いだった。面識もなく、たとえ名前を知っていたとしても声だけで真贋を判断しろという方が無理な話である。
「手が込んでいます。どうか、このことも内密に。頼みますよ」
リベラはそれだけ言って部屋に戻るも、不安は消えなかった。手紙を送りつけられたときもうすうす感じてはいたが、何らかの方法で屈服の意志を示さない限り、脅迫の主は同様の行為を続けるつもりなのではないか、意にそぐわなければひたすら事を荒立てるつもりなのではないか。事件を公にし、教皇庁の目論見も暴露したうえでこの試みを潰すつもりなのではないか。くわえてリベラの身にも何らかの危害が及ぶのではないかとの恐怖が、じっさい脅迫に曝される度にふつふつと湧きあがってくる。むろん、電話もこの日かぎりで終わらなかった。まるで最初の電話を他の誰かも知ったように、様々な要求の電話が次々とかかってくる。
「どうあっても典礼の規則は破るな」
「従来のやり方で失敗しろ」
「お前の腕で何が何でも成功させるように」
「方法は問わない。対外的に成功したように報道させるだけでいい」
「教皇庁の意向を教えろ」
伝達の手段が変わっただけだが、人の声を聞くとなると緊張の度合いが増す。ゆえに何の用件か予測はできても、後々の影響を考えると一言も反論できなかった。電話の頻度も一時間おきにかかってきたかと思えば半日ほど静かになったり、間を空けずに鳴りつづけたりといつ止むのかも分からない。時間帯も昼夜を問わなかったため、ついには夜の八時以降は電話線を引き抜くようになった。
そしてさらにリベラを追いつめる事件が起こる。メイヴへの施術を翌週に控えたある朝、ミサを終えて信者たちと歓談を交わしていると、教会を出たばかりの雑貨屋の女将が息を切らして戻ってきたのだ。
「神父さま、大変よ。門のところへ来て」
まさかと思い手を引かれるまま扉の外へ出た先には、何羽もの鶏の死骸があった。どれも頸を切られており、赤く染まった血の色を見るに殺されたのはつい先ほどと判断してよい。何者かが計画的に鶏を集めて殺し、朝に信者が集まる時間帯を狙って棄てたのだ。リベラが立ち尽くしているところへ、ミサに参加していた他の者たちも騒ぎを聞きつけやってくる。
「どうしたんだろう。ひどいことするな」
「嫌がらせかよ。いったい何のために」
リベラはつとめて平静に、出来るだけ周囲を煽らぬよう息をつく。それからいかにも面倒臭そうな表情を作り、さも動揺していないかのように装ったうえで呼びかけた。
「困りましたね。市役所に電話することにしましょう。すみませんが、今日は告解はなしにします。皆さん、お早めにお帰りください」
ミサの参加者に早期の解散を促しながら、足下に転がる鶏の死骸に目をやる。儀式による治療は、あくまで依頼人を衆目から遠ざけて行うべしと指導がなされる。こうまで人目を引くよう事を荒立てるのは明確な威嚇だった。おそらく、今日の騒ぎはすぐにでも新聞かラジオで報道されるであろうとリベラは身構えた。
だが奇妙なことにこの事件は、翌日の新聞の地方欄にさえ掲載されなかった。わずかな暇を見て図書館へ行き、数紙を何度も読みかえしたがどれにもなかったのである。あのあと、少なからぬ数の野次馬が鶏の死骸を目撃し、市の清掃局も専用の車両で教会を訪れたはずなのにである。これは非常な圧力となった。というのも儀式が脅迫者の意にそぐわぬ結果となった場合、鶏の首を切りさく行為がリベラに対して加えられる仕打ちの予告のように思われたのみならず、脅迫を仕掛けてきた相手の中に報道の有無さえ左右できるほどの権力者がいることの証左に他ならないからである。それを裏付けるように、昨日の事件の代わりとばかりにメイヴの身に起きた異変が〈ストリラ・ディ・トルエ〉なる三流タブロイド紙に取りあげられていた。
そこには「現代の悪魔憑きか、少女の豹変」との記事がある。個人名こそ伏せられているものの、事が起こった経緯と日にち、場所からしてメイヴの件と考えてよい。同時に記事の中で過去に発生した類似の事件が列挙されていたが、それらはリベラが見るにひどいものだった。
いずれも「チェゼーナで九歳の少年がテーブルを浮かせた」「サレルノで二十歳の女性が金の彫像を吐いた」「プルフェロで母親が息子に魔術をかけた」「カリアリでは今も悪魔崇拝が残っている」などといった眉唾ものの話ばかりで、幾つかは異教の悪魔がらみのものが混じっていた。特に極端な事例はエクソシストの間で報告しあう仕組みが出来ており、キリスト教以外の儀式についても民族学会で研究がなされている。リベラには、記事に掲載されている事件はどれも見聞きした記憶がなかった。読者の目を引きたいばかりに真偽も確かめず、やみくもに噂話の類を寄せあつめただけだろう。
それに厄介なのは記事の内容というより、こうして新聞をはじめとした報道機関に取り沙汰され、好奇の目で見られることの方だ。被術者にとって無用の刺激となる。教皇庁からも同様の通達が下されている。にも関わらず不特定多数の目に触れる状態になっているのは、やはり何者かが情報を流したせいに違いなかった。
リベラは、そのやり方に怒りを覚えた。自分たちを脅迫するだけならまだしも、聖職者として救うべき被術者をも意図して苦しめるとは。相手は本当になりふり構わないらしい。コノリー親子が望ましからぬ形で衆目に晒されつつある深刻な現状を踏まえ、またここまでするからには同じような脅迫を受けているであろうロマーノの身も案じ、教会に戻るなり電話をかけた。
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