八 命令 ②
「お待たせしてしまいましたね」
いつものようなににこやかな笑顔を浮かべ、アルトベッリが現れた。個人的な付きあいがあるといっても、枢機卿の位に就いている。二人そろって腰を上げかけるのを、手を振って止めた。
「型どおりの挨拶は結構ですよ。予定より遅れたのは私の方ですから」
そのままゆったりとした足どりでソファに座る。後を追うように、秘書がカプチーノを運んできた。アルトベッリは、二人にも飲むよう促してカップを持ちあげる。
「二人とも、よく来られましたね。リベラ神父は、この間はどうも。パオロは二か月ぶりになりますかね」
リベラが前回ここを訪れたのは本当に久しぶりだったが、ロマーノの方は少し前まで頻繁に足を運んでいたようだ。何しろ修練院時代はもとより、長いあいだ同じ教会で暮らし、ともに様々な聖務に携わってきた師弟の間柄である。折を見て公私の話でもしているのだろう。
「ええ。あれから少し経ちましたね。お元気ですか」
「正直なところ、相変わらず忙しいのです。特に近頃は、あまりここにもいられなくて。今日も会議が入っていましたが、外出がない分だけまだいいですよ」
「昨日はどちらまで」
「バチカンまで行きました。一等車に乗れましたが、日帰りだと慌ただしくなってしまいますね。トリノからですとお世辞にも近いとは言えませんから」
「というと、今日のお話の件でしょうか」
「ええ。昨日、教皇猊下にご報告をして、ご指示を仰ぎました。少し失礼」
前置きもほとんどなく本題に入りかけたところで、アルトベッリはいちど立ちあがり部屋の扉を内側から閉めた。齢のせいはあるにしても所作の一つひとつが鈍く、くたびれているのがリベラにも分かる。話をするだけなら電話でも用は済むのに、わざわざ教皇庁で膝を突きあわせての対応とはただごとではない。部屋の空気がにわかに重さを増した。アルトベッリはソファに再び腰を下ろし、話を続ける。
「まずリベラ神父からの相談の前に、こうして三人で話をするのですから、昔の話でもしましょうか。あなた方が修練院に入る前、先代の猊下が第二のバチカン公会議を開催しようとしたのは知っていますね」
先代教皇のピウス十一世のある行動については、神父ならば誰もが知っている。第一次世界大戦が終わって間もなくのこと、枢機卿たちとカトリックの教義や典礼について全教会的な話し合いの場をもつ公会議の開催を打診したのだ。公会議はローマ教皇成立以降、一九〇〇年以上ある歴史の中でこの時点でも二〇回しか開催されていない、並々ならぬ意味を持つ会議である。リベラは黙って頷き、ロマーノは静かに答えた。
「当時の猊下に公会議開催のご意志があらせられたにも関わらず、多くの反対で断念されたのでしたね」
「実は現在の猊下は、その公会議を招集しようとかねてから準備をされています。リベラ神父の相談を持ちかけましたところ、そのようなお話がありました。これは枢機卿の中でも、ごく一部にしか知らされていません。あなた方も、くれぐれも口外しないように」
アルトベッリが息を潜め、じっと二人の顔に目をやる。まるでリベラの声に隠れて、自らの意思を伝えんとするかのような仕草だった。部屋の鍵を閉めたのも頷ける。公会議の再開を秘密裏に進めているのを下手に聞かれてはまずい。しかしなぜ大司教は儀式の諾否を告げる前に公会議の話を出すのか、リベラは不審に思う。
「たしかにはじめのバチカン公会議は、実質的な議論を交わさないまま終えられてしまいました。なぜ今になって再び開かれようとするのですか」
「リベラ神父。先の政権下で、我々が失態を演じてしまったことは知っていますね。バチカンの独立を急ぐあまりにムッソリーニと手を結んでしまった失態を。その結果、独裁政権に屈服し二度目の大戦を許した教会に、内外から少なからず非難の声があがっています。すでに教会の存在意義に疑問を呈し、信仰心をほとんど持たない人々もずいぶん増えてしまいました。もはや教会が口を閉ざしたままでいることは許されません。対外的に何らかの態度を示さなければならないときが来ています。また先代猊下も公会議の開催を断念されたわけではなく、密かに遺志を託された。現在の教皇猊下はそう私に仰せになりました」
教皇庁の意向は、奇しくもリベラの考えと重なるものがあった。教会権威の失墜は、聖職に携わる者なら皆が肌で感じとっている。それを取りもどすのは容易ではないが、教皇の力をもってすれば可能かも知れない。また成功するか否かは別にして、会議の開催を試みる義務はある。黙っていると、今度はロマーノが口を開いた。
「では、すぐにでも公会議を開かれると」
「いいえ。先代猊下の際、なぜ公会議の招集が頓挫したかは知っていますね。意見がまとまらず、場合によっては保守革新それぞれの極端な派閥によって、会議の結果が大きく左右される恐れがあったからです」
どの宗教でも、教義の解釈は人それぞれで一様ではない。カトリックといえど例外ではなく、末端の教会ではあまり表に出てこないものの、近代以降のバチカンでは保守派と革新派の対立が目立つようになってきている。前者は先の政権における世俗への歩み寄りを大きく否定し、古代の色をいっそう強め、古典や伝統を重んじようとする者たち。後者は信仰の間口を広げ、より多くの信者との交流を重視する、新しい教会のあり方を提示しようという者たちである。
「教皇猊下はどのようにお考えなのですか」
「非常に悩まれています。古色を強めすぎれば中世への回帰ととられかねませんし、世俗に歩みよりすぎれば伝統の放棄と誹られかねません。そこでリベラ神父の報告です。猊下は例の件を一つの判断材料にされようとしています」
「キリスト教徒以外にも、我々の手による治療が可能か否かをもって、でしょうか」
「悪魔祓いに関しては、そうです。悪魔憑きと報告を受けた場合には必ず精神疾患の可能性を疑うようにと、教皇猊下はすでに内部通達の文書でご意志を示されています。これは悪魔憑きとそれ以外を見分ける方法として非常に有効であるとの考えからですが、今回の件によって悪魔祓いのあり方そのものを見直そうとされています」
アルトベッリは見直すと一言で表現したが、実際にそれを行うのは決して簡単ではない。治療の儀式は聖書に由来する、教皇インノケンティウス一世以来、一五〇〇年間にわたり守られてきたカトリックの伝統であるからだ。どのように見直すのかと考えを巡らせるリベラに、アルトベッリが話を振る。
「リベラ神父、カトリック教徒であるか否かを問わず、多くの人が悪魔祓いをどう捉えていると思いますか」
「国民の大部分がカトリック教徒を占めるこの国でさえ、儀式の実態はほとんど知られていません。幸運にも平穏な生活を送っている人々からは、ときに異教徒やカルトによる民間療法のそれと混同されることもあります。学者や研究者の方には、形が違うだけで本質は同じではないかとも言われますね」
リベラは自説を出来うる限り押しころし、民族学で得た知識をもとにつとめて客観的に意見を述べた。同席している二人はリベラの微妙な立場を理解しており、この答えにべつだん悪い顔はしない。特にアルトベッリは、リベラの労をねぎらうように語りかけてくる。
「ですからこの一件、あなたが受けた相談は、そうした考えの人たちからすれば悪魔祓いの対象外になるでしょう。何せ悪魔憑きと思われる娘さんは、神を信じてすらいないのですからね。しかし私たちの立場からは、その娘さんを悪魔憑きと言わねばなりません。あなたの詳細な報告は私の意見も申しそえて教皇猊下にお伝えし、それから教皇庁検邪聖省で諮問にかけた結果、悪魔憑きとの答えが出されたのです。録音したテープも含めて、娘さんの起こした反応のいずれもが紛れもなく顕著な悪魔憑きの兆候を示していると」
検邪聖省。公にそう名付けられてはいても、リベラはあまりその呼称が好きではない。現在は教理の研究や解釈を担ってはいるが、かつては異端審問をも管轄していたいわくつきの機関だ。その検邪聖省がキリスト教徒以外の悪魔憑きを認めるとは何たる皮肉。何にせよ教皇がわざわざ諮問にかけて結論を出した以上、もはや判断を覆すのは不可能だった。いよいよ儀式執行の許可が下った二人を前に、アルトベッリはテーブルの隅に置かれていた一枚の紙を広げる。
「そして、これが教皇猊下のお言葉です。『もともと悪魔憑きは精神疾患や神経症との見分けがつきにくく、過去には両者を取りちがえて人々を救えなかったこともありました。医学が進歩した現在、より明確に双方を区別しなければなりませんが、それらとは別に人々を苦しめる悪魔は存在します──少なくとも聖務に奉仕する我々の見解はそうです。たとえ苛まれる人が神を信じていようといなかろうと。我々にとって真実は一つです。聖書のマルコ伝にも、キリスト教徒以外の方への治療について言及がなされています。人々が得体の知れない何者かに苦しんでいるとしたら、それは盲信に満ちた異教が語る魔物の類の仕業ではありません。神に叛いた悪魔の仕業であり、人々を苛む悪そのものなのです。今日、私たちは困難に立たされていますが、今回の事件はカトリックの伝統として受けつがれてきた悪魔祓いの是非を問う得がたい機会です。悪魔に苦しめられている娘さんを救えるかどうかを、判断の材料にしたいと考えております』」
リベラもロマーノも、教会の建前は今さら言われるまでもなく分かっている。しかし書簡を通してとはいえ、教皇の意向となると重みがまったく違った。とりわけ示された根拠が明確なだけに、職責は二人にとってより大きな重圧となる。「信仰なき我を助け給え」。メイヴの件は、マルコ伝の記述そのものだった。だからといって治療が成功する保証はない。あれはイエスだからこそ為し得たまさに神の御業と言える。その前提に改宗の有無が絡んでもいた。当然ながら二人はイエスではなく、ただの人間であるがゆえに力も遠く及ばず、さらにこの難題に関しては母親とメイヴに改宗する気がない。揃って押しだまる間にも、アルトベッリは人に見られないよう手紙を懐に隠して付け加えた。
「それから手紙にはありませんが、こうも仰っていました。この件の結果如何によっては、悪魔祓いを廃止するかも知れない、と。教皇猊下ご自身も教会を現代社会に適合させる必要を感じており、悪魔祓いに関しては、異教の魔術儀式などとの区別ができない場合、続けるべきではないとのお考えです。また私は、こうした難しい話がアスティで起こったのは偶然ではないと思います。エクソシストとしては若く、なおかつ経験の豊富な二人がいるここトリノ教区というのがです」
二人に課せられた役目は、きわめて重大だった。メイヴの治療の可否が、人ひとりの命運だけでなく一五〇〇年も受けつがれてきた伝統の存廃をも握っている。その是非を問われても、リベラは明確にどちらかを選ぶつもりはない。民族学の観点からは両者を区別できないが、人々の役に立っている。これまでに何人もの治療を成功させているロマーノも同様だろう。どちらも答えに窮して口を噤んでいると、その意を汲んだのかアルトベッリが問うてくる。
「ときにリベラ神父、例の娘さんの容態はどうです」
「薬は処方されていますが、少しずつ悪くなっています」
「治療は進んでいないのですね。娘さんにとっては、まさに災難です。出来るだけ早く取りかからなければならないでしょう。ですが、問題が二つあります。ひとつは、猊下のお考えを快く思わない者がいるということです。この件をきっかけに教義や典礼を再考する動きを嫌って強引にそれを止めようとする者たち、現在、内部通達されている精神科医の助力を仰ぐ必要も、精神科の知識すらも必要ないと主張する者たちです。あるいはその逆もあります。このような機会を利用して是が非でも急進的な改革を進めるべしとの考えの持ち主も。どちらも教皇庁に何人かの内通者がおり、取りかかろうとすればすぐにでも激しい脅迫や妨害がはじまるでしょう。残念ながら、私にはこれらを止める力はありません」
かつて公会議の開催を止めようとした側、または開催に賛同した人間とそれに続く者たちがいる。彼らは極端に守旧的な、あるいは急進的な派閥を形成し、今なお教皇庁のみならず各地の司教座でそれぞれ聖職に就いていた。その中にはトリノ大司教の力をもってしてもどうにもならない相手がいるのだ。いったん事が動きだすとなれば、なりふり構わぬ行動に出るのは理解できた。それも課せられた聖務とあらば耐えなければならない。二人して息を呑んでいると、次にはアルトベッリからこの日に呼びだされた核心が告げられる。
「もうひとつの問題は、はじめに話を受けたリベラ神父と、事が起きたアスティの小教区を受けもつパオロ──ロマーノ神父のどちらが行うかですが」
リベラは自分が、とは言いだせなかった。コノリー親子の住むアスティはロマーノの管轄区域に該当するが、同じトリノ教区内における儀式の執行は小教区の縛りを受けない。場合によっては教区を越えて名のあるエクソシストのもとに通う信者もおり、ましてやメイヴの件はリベラがはじめに依頼を受けている。普通に考えれば、ここで手を挙げるべきなのだ。そうと分かっていながら、どうしても声が出ない。結果がどちらに転ぶにせよ、後々への影響と治療に漕ぎつけるまでの具体的な方法に考えを巡らせるだけで身体が強ばってしまう。妨害や脅迫が加えられるとすれば尚更だった。隣から投げかけられる視線にも気づかない。我に返ったのは、やや間を置いてロマーノが発した一声を耳にした直後だった。
「私が執りおこないます」
「パオロ、あなたが」
アルトベッリもやや驚いた様子で、ロマーノの顔を眺める。やはりリベラが名乗りを上げるものと踏んでいたらしい。
「今回の件は、事によっては後の規範となるものです。だとすれば誰が治療に当たるかは、原理原則に基づかなければなりません。これまで教区内で寄せられた依頼は、基本的には教区内のエクソシストが治療に当たってきました。その根拠はエクソシストが教区の司教よって任命されるものだからです。教区外からの依頼を否定するわけでもなく、私の場合はより細かな小教区単位の話にはなりますが、教区にしたがって活動するという原則は、特にこの件については守られるべきでしょう。さもなければエクソシストの任命権や身分が今後、あやふやなものになる恐れがあります」
カトリックでは国と地域を問わず、教区ひとつにつきひとり置かれる司教が司祭を任命する。司祭の権限が教区内に限られるのはこのためであり、さらに教会行政の区割りとして下位に小教区が設けられている。司祭のうち一部の者がエクソシストに任命されるのだから、小教区内で起きた事案は同じ小教区の者が当たるべきという話は原則論としては正しい。エクソシストの活動にそこまで制限が設けられているわけではないにせよ、アルトベッリは納得した様子で、少しのあいだ手元に目を落としたあとで首を縦に振る。
「いいでしょう」
「ただしリベラ神父にも儀式には立ちあってもらい、補佐役をお願いしたい。被術者と医師の調整もリベラ神父に」
「分かりました。では本日をもって、メイヴ・コノリーの治療はロマーノ神父に移管することとします。リベラ神父には補佐役と、これまでの経過報告を含めロマーノ神父に引き継ぎを行うよう命じます。また先ほどもお話しましたように、この悪魔祓いの内容と結果は検邪聖省儀式課に報告しますので、後でそれが可能なように手配をお願いします。重ねがさねになりますが、これからお二人は幾つもの脅迫と妨害に遭われるでしょう。ですが、決して屈してはなりません。この試みは、教皇猊下のご意思なのですから」
話しあいが終わり、大聖堂の一角にある小部屋に通されたあと、リベラはロマーノの前で大きく息をついていた。アルトベッリは納得したものの、道理からすればメイヴの治療はリベラが主となって携わるべき事案だ。はじめに依頼を受けただけでなく、精神科医のシモーネと連絡を取りあって病状の推移を見つづけてきたのである。また被術者をあらかじめ忘我状態に導いてから臨むものとはいえ、儀式中の行為は紛れもない二者による対話でもある。どちらがメイヴの信頼を得られるかは明らかだ。脅迫や妨害が、主となって儀式を執りおこなう人物の方により激しく浴びせられるのも容易に想像できた。
「先ほどは済みませんでした」
「なぜ謝る。おそらく正しい判断だ」
にも関わらず、ロマーノにリベラを責める様子はまったく見うけられない。険しい顔つきは崩さないでいながら、むしろ声色は落ち着いている。リベラは申し訳なさのあまり、いつの間にか目を顔から背けていた。
「君が、なぜ自分で名乗りを上げられなかったか分かるか」
大司教の部屋にいたとき同じように、胸の内を見透かされている気がした。歳も聖職に就いた年数もひとつしか違わないのに、このときはどちらも十は上のように感じられる。
「分からないのですよ。果たしてどちらがいいのか、どうすれば治せるのか」
「どれが正解の治療法かは、たぶん誰も分からないさ。ただ俺の見たところ、君はいま普通の状態じゃない。色んな難題が重なりすぎて、冷静な考えが出せなくなってる。それじゃどう足掻いても無駄だ。エクソシストに自信がなければ、効果も薄い。相手への語りかけが大事だからだ」
リベラは何も言い返せない。ロマーノの口にしたとおり、件の悩みでメイヴを治療するに当たっての具体的な方策を決められないでいた。信仰と科学のいずれを取るかの迷いが晴れないため、本来もつべき自信もない。同じ話にしてもこんな時でなければ、躊躇せず自ら儀式を執りおこなうところである。まさに心中をずばり言いあてられた。
「ええ。しかしパオロ、あなたは自信があるのですか。キリスト教徒でない方に儀式を行って、治療を成功させる策が何かあるのですか」
「明確な策はない。ただ大司教の仰るとおり、教会の信用が失われかけている今、この件が舞いこんできたのには何か意味がある。あの娘さんは本当に気の毒だが、成功すればカトリックが信頼を回復する一助になるかも知れない。君も、悪魔祓いの伝統が絶えるのは望んでいないだろう」
リベラは、儀式による治療の必要性を実感していた。精神医学だけではどうにもならない患者を、これまでに数えきれないほど治癒している。ロマーノの指摘も一理あった。
「だから、今回は任せてくれ。とにかく君は諸々の事情に捕らわれすぎている。俺の方がしがらみは少ない」
リベラはロマーノの顔を見ながら、もしかすると自分よりもより教会の行く末を深く案じているのではと考えていた。言葉とは裏腹に、眼差しから策に迷いはないように思われる。まだメイヴに会ったことも、話をしたこともないのに実に堂々としていた。決して虚勢を張るような真似はしないこの男がである。リベラは仕事を任せた負い目を感じつつも、どこか重責から逃れられたのに安堵し、ひとまずロマーノに従うと決めた。
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