第十七夜 丘の上
「太陽の下を歩けない、ニンニクを食えない、十字架に近寄れない、人の血を吸わなければならない。そうなってでも、不死というのは魅力的だ」
「何言ってるの、どう見ても変な格好じゃない。あっち行ってよ」
「小玉鼠の妖力を注入した。三分後に爆発するから、逃げた方がいいぜ」
「悪いのは、僕一人でいい」
妖怪、それは人の世に潜む異形の者。
そして人に仇なす妖怪を人知れず始末する
彼らもまた、怪物と呼ばれた──
昼になっても、巧は戻らなかった。
「あの小僧、また見張りサボってどこ行った」
苛立った様子の憂介が言う。しかしそれは、心配からくるものだった。
「巧くんは、そういう人ですから」
焦る彼と対照的に、平然と瑠璃は言った。
「まずいとは思わないのか」
問う憂介に、目を合わせないまま彼女は語る。
「信じてますから。何か事情があったとしても、彼はきっと大丈夫です」
「理解できんな」
「憂介さんだって、本当はそう思っているんでしょう」
瑠璃に見つめられ、彼は思わず顔を逸らす。
「アイツほど危なっかしい奴はいない」
「じゃあ、見張りを任せなきゃよかったんじゃないですか」
「それは俺が寝るために仕方なくやっているだけだ。だいたい、ヤツは俺が雇っているんだぞ。無断欠勤や独断専行に文句を言うのは当然だ」
「なら解雇すればいいじゃないですか」
「それはだな、アイツが粘着質だからだ。あとは」
一瞬だけ言葉を止めてから、小さな声でポツリと呟いた。
「アイツは、俺の飯を美味いと言った」
その言葉を聞くと、瑠璃の表情が緩む。
「安心しました。ここにも一人、巧くんの味方がいることに」
人気のない小道を、一台のバイクが走り抜ける。後ろに乗った瑠璃が、運転している憂介に訊く。
「どこに向かっているんですか」
「さっきも言っただろう。次の隠れ場所だ」
「だから、それってどこなんですか」
瑠璃が拐われた一件で、妖怪連合に場所が知れていると発覚した。そのため場所を変える必要があったのである。憂介が答えを返す。
「丘の上の病院だ」
「別にどこも悪くないですけど」
「まあ、あそこがごく普通の病院だったのは昔の話なんだがな。今もヌシはいるが」
「ヌシって、なんですか」
訝る彼女に、彼は補足する。
「勝手に住み着いてる変な奴だ。性格に難はあるが、腕だけは確かなドクターだ」
「でも、その人を巻き込んじゃうんではないでしょうか」
「大丈夫だ、俺が言った腕には腕っぷしも含まれる。どうせ殺しても死なないような奴だ、少しくらい迷惑をかけるとしよう」
「あの、もしかして」
ふと、彼女の中に一つの考えが浮かんだ。
「その人なら、妖化した人を元に戻すこともできますか」
「さあな。本人に訊かないことには」
バイクを止める。周囲は草木に囲われた道、道路の舗装が途切れていた。
「歩くんですか」
「いや、飛ぶ」
ハンドルの中央に開けられたスロットに、車輪と氷の円錐を差し込み回転させる。車輪が空中に道を作り、その上を最高速度でバイクは走っていく。見下ろすと、街を一望することができた。
「あの街のどこかに、巧くんはいるんでしょうか」
「もう今頃、誰も知らないような遠くにいるかもな」
「ですね。お人形さんが探してくれていますが、見つかる様子はありませんし」
彼女は、遠い異国で暮らす巧を想像する。そこには寂しさだけでなく、少しの違和感があった。彼がどこまでも遠くに逃げて、どこに安息の地があるのだろうか。彼はもはや、人間の姿をしていないのだから。
「でも、大丈夫」
自分に言い聞かせるように、彼女は口に出す。
「絶体絶命のピンチの時、誰かが泣きそうになる時、彼は必ず現れた」
「信じるのは勝手だが、盲信するのは危険だ」
憂介の言葉が、瑠璃の不安を呼び戻す。そして次の瞬間、それは彼女を駆り立てた。
「例えばここから落ちたら、巧くんは助けに来ますか」
「おい、やめろ」
憂介が叫ぶ。瑠璃は半分冗談のつもりだった。もう半分は本気だったが、冗談かどうかは彼女にとってどうでもよかったのだ。もし巧が来なかったら、そのまま死んでも誰も悲しまないと思っていたから。それだけに、彼に引き止められたことに驚いたというわけだ。
「なんで、そんなこと言うんだよ」
憂介の声は震えている。
「いいじゃないですか、別に。巧くんが来ないなら、私が死んでもいいじゃないですか」
「いいわけないだろ。俺は、これ以上失いたくない」
「失うって、私あなたのものじゃないんですが」
「なら、守りたいって言えばいいか」
「あなたが守りたいからって、勝手に守らないでください」
「断る。同じ釜の飯を食った仲だろ」
「いつぞやの丸焼きパーティーの時だけですけどね」
「細かいことはいいんだ。ほら、着くぞ」
バイクが丘の上に降り立つ。そこには洋風の、古びた白い建物があった。憂介は玄関の扉を開け、中に入る。瑠璃もそれに続く。日中だというのにひどく暗い。が、ホコリやカビの匂いはせず清潔であることがうかがわれた。と、闇の中から声がする。
「第一問。あなたは治療を受けたいと思っているか」
「いや、まだ誰も怪我していない」
「第二問。なら冷やかしに来たのか」
「まさか。ここに泊めてもらおうと思ってな」
「第三問。ここをホテルか何かと勘違いしていないか」
「ああ、相応の料金は払うよ。悪くない話だろう」
「第四問。そんな態度の奴を、私がここに置くと思うか。これはサービス問題、ポイント八四四二七倍だ」
「はよしにな、って医者が言う台詞かよ。悪かった、だがいつ怪我するか分からないんだ。お前の力が必要なんだ、頼む」
「正解」
声が止んだところで、瑠璃が質問した。
「あの、例えば、人間が妖怪のもとを流し込まれて妖怪になったとして、それを治すことってできますか」
「第一問、虫になったグレゴールにつける薬はあるか」
「治せない、ってことですか」
「正解」
それ以上何も言えなくなる。
「上に行って休んでいいぞ。俺はもう少ししたら行く」
「第一問。それは客人が言う台詞か」
憂介に言われるがまま、二階への階段を上がる。闇に目が慣れ、暗くとも移動することができた。二階は病室のようで、長い廊下に扉が並んでいる。瑠璃は扉を開ける。カーテンとベッドと椅子と棚、殺風景な部屋を窓からの光が照らす。いくつかの区画のカーテンが閉まっていることから、何者かの存在がうかがえた。ふと、彼女の中に一つの疑問が芽を出す。この中にいるのは、人間だろうか。あるいは別の何かなのだろうか。それがいけないこととは知っていた。しかし好奇心には逆らえず、彼女はカーテンの中を覗き込んだ。そこにいたのは、人骨に似たもの。はじめのうち彼女はそれをただの骸骨だと思った。しかしよく見てみると、その骨は寝息をたてているのだ。脚がギプスで固められている。骨折しているようだった。彼女の中で、疑問が解決する。そう、ここは妖怪の病院だったのだ。
「面白いですね」
次々とカーテンの中をのぞいていく。三つ目の病室に入ったところで、突然砂をかけられた。
「さっきからうるさいんだよ。足音も丸聞こえだし」
目に砂が入り、前が見えない。前も後ろも分からないまま逃げ出そうとするが、その前に摘み出された。
廊下に倒れた瑠璃を憂介が発見したのは、日が傾きはじめた頃だった。
「おい、何してんだ」
「別に何もないです」
「何もなかったら、廊下に倒れてないだろ」
彼女は困惑していた。自分を心配してくれる人がいることに。瑠璃にとって、自分自身に価値はなかった。自分が死んだところで、泣いてくれる人などいないと思っていたから。だからこそ、誰もに手を差し伸べるヒーローになろうとしていた巧に惹かれたのだ。そして、彼のために生きていこうと決めたのだ。しかし、巧は消えた。だから生きる意味も消えたと、彼女は思い込んでいた。それなのに、まだ自分に生きてと言う人がいる。自分が生きていていい存在だと、そう認めるのを彼女は恐れていた。他者が自分に生きてと言う以上に、立派に生きられる自信がなかったから。巡る感情が口から溢れ、空気を震わせる。
「生きてていいですか、私」
「急にどうしたんだよ」
その言葉を聞き、憂介もまた困惑する。そして、次にかける言葉を探す。綺麗な言葉をかけてやりたかったのに、吐き出した言葉は程遠い。
「俺だって、自分が生きてていいとは思ってねぇよ」
瑠璃は何も言わない。間違えてしまったのだろうと、彼はそう感じていた。それでも、声になった言葉は戻らない。ただ、流れ出していく。
「俺が小さい頃、俺の両親は死んだ。妖怪に殺されたんだ。親と喧嘩して部屋に閉じこもったら、その間に死んでいた。親父もお袋も立派で、大きな農場を経営していて、美味しいものを作って人の暮らしを良くしていた。誇りだった。継ぎたくないってあの日言ったのが不思議なくらいに。思ったよ。なんで親父やお袋じゃなく、俺が生き残ったんだろうって。代わりに俺が死ねばよかったって。それでその妖怪を追って仁さんが来て、俺を拾ってくれた。その妖怪も封印されて、帰る場所もできて、それでよかったはずだった。なのに、死んだんだよ。妖怪に取り憑かれた仁さんを、俺が殺した。俺が死ねばよかったのに、仁さんが死んだ。そして今度は典子だ。生きてていいかなんて知らないが、君が死んだらまたそんな思いになる。それは避けたい」
「ありがと」
瑠璃はただ一言そう言って微笑んだ。
「今、タメ語じゃなかったか」
「気のせいですよ」
「そうか、ならいい」
「タメ語じゃ駄目なんですか」
「俺の方が年上なんだから敬え。あと、あまり距離感が近いとどう接していいか分からん」
「年上には見えません。何年生ですか」
「二十一歳」
「四つも上なんですね。ちなみに最終学歴は」
「仁さんが死んだのが高二の時で、その時に学校をやめた。だから中卒だな」
「じゃあ実質同級生ということで」
「まあいい。ここにいれば暫くは大丈夫だろうから、今日はゆっくり休め。柔らかいベッドもあるしな」
夜が迫っていた。
少女は鎖を選びとる。
次回「訣別」
君のいない夜を駆ける。




