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第十六夜 翳りゆく月

「女は預かった。返してほしくば今日の午前六時、ベルトとモンスターシンボルを全て持って指定の場所に一人で来い」


「何も、できないのか。僕は」


「もう、帰れないみたいです」


「じゃあさ、一緒に逃げよう」


妖怪、それは人の世に潜む異形の者。

そして人に仇なす妖怪を人知れず始末する

彼らもまた、怪物と呼ばれた──

 鬼火に照らされた地下室の中、二人の男が立っている。一人は瑠璃の義父、もう一人は黒戸だった。黒戸が口を開く。


「なあ、浄御原。不老不死は、可能だと思うか」

「さあな、興味ない」

「死の恐怖から解放される。生きとし生ける者の夢だろう」

「俺は今この瞬間を、瑠璃が幸せに生きていてくれれば満足だよ」

「その割には、彼女を妖怪にしたようだが」

「ただ寿命が長いだけで、妖怪にだって死は訪れる。目的はそこじゃない」

「理解に苦しむよ」


黒戸がため息をつく。それを見た浄御原は、懐から円錐形の部品を取り出す。天板は蝙蝠の形をしていた。


「そうそう、手に入れてきたぞ。例の物」

「ほう、これが」


顔を近づけ覗き込み、語り始める。


「何かを得るためには、何かを捨てなければならない。私は妥協という言葉が嫌いだが、目的のためなら何をも捨てる気でいるよ」

「つまりどういうことだ」

「太陽の下を歩けない、ニンニクを食えない、十字架に近寄れない、人の血を吸わなければならない。そうなってでも、不死というのは魅力的だ」

「俺は御免だがな。弱点が増える」

「残念だ、君も眷属にしてあげようと思っていたんだが」

「歪な力に価値はない。だいたい、お前にやるとは一言も言ってないだろう」


見せびらかすように、円錐を持つ手を振る。顔には表れないが、語調に苛立ちを滲ませた黒戸が訊いた。


「なら、どうすればいい」

「方舟を作ってほしいんだ」

「人間を庇うなど、あのお方に知られたら殺されるぞ」

「でも欲しいんだろう。何を犠牲にしてもいいんだろう」

「もし、私が裏切ったら」

「そんなこと出来ないさ。吸血鬼は人の血を吸う、人間がいなくなったら困るはずだ」

「なるほど。食えない奴だ」



 朝が来た。巧は眠れずに、虚空を見つめている。彼の眠りを邪魔していたのは、あまりに鋭くなった感覚。薄明の中、眼には塵の一つが浮かぶのすら見え、微かな黴の臭いさえ鼻をつく。そして何より彼を苦しめたのは、外から聞こえてくる音だった。街からは離れた場所だというのに、あちこちからの生活音が耳に入ってしまう。自分は人間ではなくなったと、再認識させられるようで胸を痛めた。


「はあ」


天井を見上げ、小さな溜息をついた。と、遠方から悲鳴を聞く。そして彼は一人駆け出す。彼の背中を、朝日が照らしていた。



 声がした場所には、走る男の子がいた。表情は恐怖に染まり、涙と鼻水を流している。それを追うのは骨の男。


「来たか、巧」

「なんで僕の名前を。あと気安く呼ぶな」


巧が殴り飛ばす。そして少年に笑いかける。


「もう、大丈夫だよ」


少年が笑い返した。それを見た巧は安堵する。自分が人を救えたこと、姿が変わっても自分がまだ人間であることに。そこに女が現れる。


「うちの裕斗に何するの」


女がヒステリックに叫ぶ。巧は動揺する。そしてどうやら誤解されているらしいと気づいた。だから、弁解して分かってもらおうとしたのだ。


「違うんです、怪しいものじゃないんです」

「何言ってるの、どう見ても変な格好じゃない。あっち行ってよ」


それ以上何も言えなくなる。現に、彼はすでに人間ではなかったから。これが普通の反応だろうとは知っている。それでも、辛くないわけではなかった。自分は人の世から拒絶される存在だと、そう思い知らされたことが。自分がまだ人間であるなど、幻想でしかなかったことが。トボトボと立ち去る。涙は流れなかった。



 少年と女は、動き出しつつある街を歩く。


「違うんだよ、母さん。あの人は僕を助けてくれたんだ」

「あら、私ったらひどい勘違いを。謝りに行かないと」


その時、二人の進路上に骨の男が現れる。少年が叫んだ。


「あいつだよ。あいつが僕を」

「さっきから、何なんですか。あなたたち」


女が骨の男へと向かい走る。男が円錐を刺すと、女は膨張し変形していく。少年は訳もわからず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


「小玉鼠の妖力を注入した。三分後に爆発するから、逃げた方がいいぜ」


状況が分かっているわけではなかった。それでも、目の前の膨らみ続ける何かが母親であると、少年は信じていたのだ。両手で抱きとめ、膨張を止めようとする。だが、それも無意味だった。


「助けて」


そう叫んだ少年の声が、巧の耳に届いた。巧が飛んでくる。が、その光景を見た彼は絶句してしまう。目の前で膨れ上がっているのは、おそらく少年の母だったから。


「なんだよ、これ」


口を衝いて出た言葉だったが、骨の男が返事をした。


「小玉鼠だ。刺激したら爆発して、少なくともこの街は消し炭になるぜ」

「じゃあ、どうすれば」

「何もしなくても爆発する。あと一分後くらいか」


その一言で、動けなくなる。もしそれが嘘だったとしても、不用意な行動はできるはずもない。しかし、動かなければ多くの人が泣くことになる。板挟みの中で、巧は思考する。どうすれば爆発を止められるか。今から遠いところに運ぶには時間がないし、第一妖怪にされた彼女を死なせてしまう。というのも、妖化された人間を元に戻す方法はまだ見つかっていないのだ。ならば、爆発を封じられないか。その時、彼の中に一つの考えが生まれる。それは多くの被害を防ぐことができるはずの方法で、同時に一人を救えない方法だった。それでも、それが最善なら。空の円錐を懐から取り出し、膨れた女に突き立てる。ギチギチと歪んでいき、人の姿に戻ったとき彼女はすでに息絶えていた。


「母さん」


少年が駆け寄り、揺さぶるが返事はない。


「なんで、なんでだよ。なんで、助けてくれなかったんだよ」


巧に掴みかかる。仕方ないんだ、巧はそう言ってしまいそうになる。しかし、言葉にすることはできなかった。仕方ないという言葉が、ひどく言い訳がましいものに思えたから。


「ごめん、ごめん」


無抵抗なまま、謝り続けることしかできない。彼の中に、ドロドロとした暗い感情が巡る。きっと仕方なくなどなかったのだ。もしあの時、骨の男にトドメを刺していたら。少なくともこんなことにはなっていなかった。典子が死んだのも同じことで、黒戸を野放しにしておいたからだ。人であろうとするなどと飾っても、結局は自分の手を汚すのが怖かっただけ。アキを殺したあの日から、潔白ではなかったというのに。アキが死んだのも、怪物のくせに人を好いてしまったから。妖怪のくせに人のフリをした、醜い怪物だったのだ。僕が人であろうとして誰かが泣くのなら。巧は、自分の中の何かが切れる音を聞いた。


「大丈夫。君のお母さんを殺したアイツは、すぐに死ぬから」


少年は困惑し、怯えてすらいるようだった。巧の体が、獣のように変わっていく。四足で走り出し、骨の男を追う。そのまま首を刎ねようとするが、骨に弾かれた。


「ようやく分かってくれたのか。お前は人の世に交じれない」

「ああ。だが、お前らの味方になるわけじゃない」

「人間にも妖怪にもなりきれず、どこに行こうというんだ」

「どこにも行けなくていい。ただ、誰かが泣くのは嫌なんだ」


巧がそう言うと、男はベルトの円錐を回す。フルドライブ。ベルトが告げると同時に、地面から一本の巨大な骨が生えた。それを引き抜き、男は両手で構える。


「骨刀というやつだ。かつては儀式のために使われたと聞く」

「それが何だ」

「仲間にならないなら、せめて贄になれってこった」

「断る」


巧が突っ込む。男に一撃を加えようというところで、右肩に激痛を感じた。骨が突き立てられている。軌道を予測し、あらかじめ構えていたのだ。男が骨を上下に動かし、腕を切り落とす。痛みと動揺に悲鳴を上げる。


「まずは抵抗できないよう、手足を削ぐとしようか」


巧が怯んでいる間にも、男は次の攻撃の準備をする。利き手を失い、攻撃の手段を一つ失った。傷口に妙な感覚がある。何かが今にも吹き出そうな感覚。傷口にぐっと力を込めると、それは噴出した。新たな腕が生えたのだ。


「どうやら僕は、まだ死ねないらしい」


再び男に飛びかかる。


「まさか俺に、これを使わせるとはなぁ」


そう言うと男は、ベルトの円錐を何度も何度も回す。ベルトの音声が幾重にも重なる。フル・ドドド・ドライブ。ベルトが告げ、地面から生えた骨が壁を形成する。街の中に出現した壁は、道路や家屋を破壊しそびえ立つ。


「なんてことを」


巧は壁を殴ってみるが、打ち破るにはあまりに硬い。かと言って、回り込むには高く広い。彼が壁の向こうに回り込んだ時、すでに男は姿を消していた。男の立っていた場所に血溜まりができている。


「文字通り、最後の手段だったわけか」


血溜まりの中から、血の匂いを嗅ぎ取る。そして匂いを頼りに彼を探す。と、こちらに向かう足音に気付いた。それは朽縄、蛇の女だった。


「久しぶり。そしてようこそ、こちら側へ」

「否定はしないよ。きっと同類なんだ」

「気持ちいいでしょう。自分の力と欲求に素直に生きるのは」

「ああ。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろうな」

「行きましょう。あなたがアダムで私がイブ、これから忙しくなるわ」


ふらふらと、彼女の方に近づいていく。手が届く距離になった瞬間、巧は彼女の首を跳ねた。鮮血が飛び散り、千切れた首が転がる。それを見下ろし、彼は誰にともなく語る。


「いいよなぁ、死んだら許されたような風になるからなぁ。だから、お前らが死ねばよかったんだ」


それから血に染まった手を見つめ、呟いた。


「悪いのは、僕一人でいい」


街の影の中に走り去っていく。それを見ている者はいなかった。

逃げて、逃げて、逃げた先に安息はあった。

たとえそれが仮初でも。


次回「丘の上」


君のいない夜を駆ける。

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