第十一部 泥中蓮花《十一》
それが修羅界に漂い始めた時、いち早く気づいたのはほんの僅かな邪神達だけだった。
「何事?」
何処からか感じる冷氣。冷たい風が部屋の隅から入り込み、華風丹の足元を流れて行く。此処は修羅界の奥にある、禍々しいまでの氣を放つ邪神の王が住まう宮殿だ。そこに邪神のモノではない全く違う氣が入り込み、我が物顔で宮殿の中を通り過ぎている。
「何が入り込んだの!」
華風丹の声に答えたのは、友禅だった。
「わかりません華風丹様、今苧環が調べに行っております」
「華風丹様はひとまず奥の部屋へ避難を」
護衛の千寿が、華風丹を奥へと先導する。
「この氣、どこかで…」
振り返った華風丹は、どこか覚えのある氣に首を傾けた。
「何に入り込まれた! 此処は王の宮殿だぞ!」
連翹の声がして、部下を引き連れ部屋を出ようとする。だがそれを止めたのは蜃景だ。
「待て。この氣、覚えがある。これは鬼神の氣だ、そう…あの化け物の氣だ」
「まさか、此処に入り込まれたのか!」
「違うわ望月、私の力には何の変化もない。いたとしても此処じゃない、何処か遠くよ」
紫苑が、宮殿の窓から遠くを見つめ呟いた。
「原因がわかりました。泉からです、泉から冷氣が立ち昇っています」
「泉から、だと」
「そうだ。どうしたわけだか、今まで黄泉と繋がっていた泉が駄目になってる。その泉の周りには亡骸らしき残骸があって、中を覗いて見たが黄泉には霧がかかったようになっていてよく見えなかった。そしてそこからかなり離れた場所にある別の泉から、辺りを凍らせる程の冷氣が溢れ出しているんだ」
苧環と千寿の会話を聞いた友禅が、何か言いたげに華風丹を見つめる。
「華風丹様…。確かあの黄泉と繋がる泉は、先日から若様が…」
「何かやらかしたのね兄上が、そしてあの化け物を怒らせた」
「化け物、でございますか?」
「そうよ、気づかない爺や。これはあの化け物、沙麼蘿公女の氣よ。おそらく兄上が、黄泉に手を出したんじゃないかしら。今黄泉にいるのは現天帝、鶯光帝の妹だもの。兄上が余程のことをしない限りは人間界にいる公女を怒らせるようなことはないだろうけど、黄泉で聖宮を盾に取り何かしたのかも知れないわ」
「それで怒りをかってこのザマとは」
「やりかねないな、あの若様なら」
華風丹と友禅の話を聞いていた苧環と千寿は、あり得そうな話に頷くしかない。
「修羅界にまで入り込まれたんだ、何らかのお咎めがあってもいいんじゃないか」
「これがあの一ノ若様じゃなきゃ廃嫡もんだろう」
「今回は王も、何かおっしゃるかもね」
部屋を出ることなく連翹を囲み、望月や蜃景や紫苑が会話を交わす。
いつかはやらかすと、誰もが思っていた。もしそうなれば、修羅界の勢力図が変わるかも知れない。その引き金を引いたのは一ノ若様本人であり、黄泉からわざわざ冷氣を修羅界にまで送り込んできた沙麼蘿だ。
辺りを、ヒリヒリと痛みを伴うような冷たい冷氣が漂い凍りついて行く。“喰らい尽くせ” そう氷龍に命じた沙麼蘿は、妖魔や邪神達が冷たい炎の海から逃げることを許さなかった。
それだけではない。どこか此処とは違う、別の黄泉と修羅界の泉が繋がったらしい場所から此方に向かって来ている妖魔達の全てにですら、逃げることを許さず氷漬けにし閉じ込めた。その冷氣はこの辺り一帯だけにとどまらず、離れた場所にある空の上の修羅界と繋がる場所にまで及び、冷氣はその空を突き破り修羅界の泉にまで届いていた。
それでも止むことのない冷氣は修羅界の奥、王の宮殿にまで漂う。それはまるで、誰であろうと黄泉に手を出す者は許さないとでも言っているようだ。
通常なら皇が風龍を使い、氷龍を制御し氷や冷氣が漂う場所を決める。だが今回皇が風龍に命じたのは “母のいる結界と、行き場のない魂達がいる場所、そして冥府と繋がっている場所には近づけるな” ただそれだけだった。それはすなわち、あとは氷龍の好きに喰らわせろと言うことだ。
皇にとってこの黄泉は、母の魂が留まる大切な場所。出来ることなら此処は、他の何処よりも安全な場所であって欲しい。いつか輪廻の輪に戻れる日まで、母の魂が傷つくようなことはあってはならない。
それには、黄泉と繋がる修羅界の泉は邪魔でしかなかった。全て凍りつき、粉々になってしまえばいい。二度と再びこの黄泉には手出しができないように。
氷でできた雲と薄い薄い黄緑色の雲から現れた二頭の龍は、辺り一面を氷の世界に変えても尚飛ぶことをやめず、空に向かって咆哮をあげる。
「ぴゅ、ぴゅぴゅ〜」
“今日の氷は、何時にもまして綺麗だね〜” と金角の肩に乗った玉龍が、その場に不釣り合いな少し間延びした鳴き声を上げる。細氷のようにキラキラと輝くそれは、まるで結界に降り注ぐ粉雪のようだ。
少し前まで冷たい炎の海が波打っていたその場所は、今は氷でできた妖魔や邪神の標本のような場所になっている。その中央に立ち沙麼蘿は、ニヤリと笑って握りしめていた剣の柄を掌から離す。
“耳を塞げ!!” 結界の中に妾季達の声が響き渡り、沙麼蘿の手を離れた氷龍神剣はまっすぐに氷でできた地面に突き刺さる。途端、氷にヒビが入って行くのと同じ様にその場に閉じ込められていた妖魔や邪神達の魂がヒビ割れ、苦痛にも絶望にも近い数多の悲鳴が響き渡った。
そしてその悲鳴が、修羅界の奥にある邪神達の宮殿にまで届いたことを知る者は、笑って空を見つめている沙麼蘿しかいない。魂を喰らい尽くした氷龍が細かな粒子の粒となって風龍と消え、後にはそれまでの光景が嘘だったように何もない黄泉の世界だけが広がっていた。
「母上」
結界の中で全ての人々が耳を塞ぐ中、聖宮だけが皇と同じ様に眉間にシワを寄せその声を聞いていた。これが、心がないと言われる沙麼蘿の声なき声。
その後、近づいて来た双子のような子供達は、聖宮が知る嘗ての幼子達ではなかった。立派に成長した、もう逢えないと思っていた何よりも大切な息子。
「皇、こんなに大きくなって。さぁ、顔を見せて」
聖宮の手が優しく皇の頬を撫でる。幼いあの日、聖宮は確かに命の火を燃やし尽くし幽冥界へと旅立ったはずだった。それが冥府の外れにある黄泉に流れ着いたことにより、長い時の果てにまた息子達と再会できた。
「こうして貴方達に逢うことができた幸運に、感謝しなければならないわね。でももう時間がないわ、焔摩天がお怒りよ。早く地上へ戻らなければ」
そう、此処は焔摩天の管轄である冥府へ向かう途中にある。冥府に害は及ばない様にしたつもりだが、自分の管轄にも等しい黄泉でこれだけの騒動を起こされたのだ、怒りもするだろう。
「修羅界の泉に繋がる道は全て潰した。私がいつか必ず、此処にいる全員を輪廻の輪の中に戻す。それまで、待っていて欲しい」
邪神達が玄奘三蔵を黄泉に引きずり込んでまで欲した聖宮の魂は、まだ此処にあり続けなければならない。沙麼蘿がその力を取り戻すまでは。そして、聖宮はこの場所にいる誰一人を見捨てることはできない。だから聖宮を輪廻の輪に戻すためには、同じ様に全員を戻さなければならいのだ。
「私の可愛い子供達、待っているわ。でも無理はしないで、貴方達が幸せであること、それが私には何よりも大切なことなのよ」
聖宮はそう言うと二人を抱きしめ、玄奘一行を見つめた。まだ小さな子供までいる玄奘一行を、この黄泉に呼び寄せた原因は自分にある。例えそれが、邪神達の一方的な行動だったとしても。
「玄奘三蔵法師、そして皆さん、この度は大変なご迷惑をおかけしました。どうかお許しを。此処にいるのはこの魂だけ、食べることも寝ることも必要もない者達です。こんな私達では、なんのお返しもおもてなしもできません。焔摩天が怒りを表す前に地上へ」
「だが、どうやって」
確かに玄奘三蔵と言う高僧が、この黄泉への道を開く一つであったことは間違いない。だがその方法を玄奘三蔵本人ですら知らないのだ。
「皇」
「わかっています母上。我が母を助けるため力を借りた、借りは返す」
この場にいる玄奘一行の誰もが、結界の中にいた聖宮達を守るために戦った。皇の言葉に、その横にいた沙麼蘿は玉龍を見つめる。
「玉龍、時間だ。根性を見せろ」
この黄泉に来た時とは違い、今度は鞄の中に手を入れる暇がある。玉龍は斜め掛けしている鞄の中から力の源にもなる黄仙桃を取り出すと、それをパクリと食べた。
「キュウゥゥゥー!」
真っ白な龍神に姿を変えた玉龍に、来た時と同じ様に玄奘一行が乗り、金角と銀角は須格泉と琉格泉の背に乗った。皇は聖宮の後ろに控えるようにしていた二人に声をかける。
「花薔、百花羞、母上を頼む」
「お任せくださいませ」
「もちろんでございます」
皇と蒼宮軍に囲まれ、玉龍と須格泉と琉格泉、そして皇と沙麼蘿の身体が浮上する。次に会うのはいつか、今世かそれとも来世か。今はまだ誰も知る由もない。
そして玄奘一行は地上に辿り着く。辿り着いた大地は最初にいた場所ではなかった。遠くに街の光が見える、そんな場所だった。
廃嫡→嫡流を継ぐ相続権を廃する。または廃されること
咆哮→ほえさけぶこと
細氷→大気中の水蒸気が昇華してできた、ごく小さな氷晶が降ること。ダイヤモンドダスト
幽冥界→あの世
知る由もない→物事の真相を知るための手がかりや方法が全くないことを意味する表現
これが今年最後の投稿となります。今年も一年、お付き合いくださった皆様ありがとうございましたm(_ _)m
近年の恒例ではございますが、ここで少し長いお休みをいただきます。来年の投稿は2月下旬か3月上旬を予定しておりますが、日にちがまだ決まっておりません。1月末までにはこちらの方に記入させていただきますので、その後ちらりと見て頂けますと幸いです。
今年も一年、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。来年が皆様にとって素晴らしい年となりますよう、心からお祈り申し上げます。
それでは皆様、良いお年をお迎えくださいませ。
次回投稿は2月26日か27日が目標です。




