後編
小刀を手にしながら少女を睨みつけるようにして立つ男と、地面にへたり込み恐怖におびえる少女。一見すれば誰もが男を“悪”と断じたであろう場面だが、今この時に追い詰められるべきは少女の方であった。
景久に自傷をしようとしていたところを見られ、そして目にも止まらぬ早業で小刀を奪われるという驚愕の連続に忘失としていた稲荷だが、徐々に驚きから正体を取り戻すと共にその重大さに打ちのめされ、顔をみるみる内に青くする。
怯える少女に対し問い詰めなければならないという状況に、景久は僅かに罪悪感を抱くも、それをはるかに超える怒りに小さな罪悪感は容易く押しのけられる。
「……何をしようとしていた?」
「えと…… あの、これには、やね……」
絞り出すように低い声が響き、稲荷の身体が一瞬、ひときわ大きく震える。慌てて取り繕い、誤魔化そうとするも、先の状況を説明できる“言い訳”を稲荷は持たない。そしてその様は景久の新たな怒りを誘う。
「何を、しようとしていたッ!!」
「――――っ」
再び、今度は叫ぶような景久の言葉に込められていた感情は煩慮の怒り。心配だから許せないと言う優しい怒り。だからこそ稲荷は言葉を放つ事が出来ずにいて、だからこそ景久は無言のまま有耶無耶にする事を許さない。
……折れたのはやはり稲荷だった。静かに、だが僅かに震えながらため息をつく。胸の中を狂おしい程に渦巻く感情は恐怖。
あぁ、そう、怖い。とても、怖い。自らの事情を語るのが、それにより訪れるであろう拒絶が、結末が。けど、“もしかしたら”と言う淡いすがる様な期待を込めて稲荷は自分の真実を語ることを決意する。
「全部、話すから……怒鳴らんといて」
「怒鳴りもする!よもや自害など」
「ウチ自殺なんてせぇへんわ」
「ならば何をッ」
「……説明するさかいに、小刀、返してぇな」
言われて、返却を求める手を差し出されて景久は悩む。自害しようとしていた相手に小刀を返すなど、悪手もいいところだ。だが、彼には稲荷が自殺をするような絶望を抱いている様には見えなかった。むしろ悲痛なほど切な生に対する執着、全身を震わす恐怖を押し込める決意を抱いている、そう、見えるのだ。
それは何秒の逡巡だったか、景久は一度小刀をギリッと鳴る程強く握りしめた後、刃を返し、その柄を稲荷の手のひらに置く。
受け取った稲荷の手が小刀に移った景久の体温を感じる。この熱は、景久の煩慮の熱だ。自分の事を思って込められた熱。稲荷はその暖かさに賭け、深く深呼吸をして覚悟を決める。
「ちゃんと、見といてな。これが“ウチ”や」
「――ッ」
「大丈夫やって。ほら、見てみ」
言うが早いか、稲荷は手にした小刀を撫でる様にして自らのその二の腕を斬りつける。再び怒りと、そして後悔をにじませた表情で景久が飛びかかろうとするのを、稲荷の言葉が優しく止める。差し出された手、白い肌に浮かぶのは赤い血。傷としてはそこまで深くないのか、滲むように浮かぶその鮮血が、二の腕を伝い地面に向かい――
血が、“パラリ”と落ちた。
そう、パラリと、固く小さなものを撒いたかのような音を立てて落ちた。
稲荷の細い手首に走った裂傷は深く、心臓の脈に合わせてにじみ出る様に滴る“血”が、落ちる最中に“白米”となって落ちたのだ。
景久は言葉を失う。妖狐にこのような能力があったなど聞いた事は無い。
「これ、は――」
「“贄姫”って言うんやて」
――贄姫祭。
それはこの国でおよそ十年に一度、行われる祭事だ。
世界に豊穣を祈願する為に、神へ、“贄姫”の役目を担った一人の少女を捧げる祭り。この時代、この世界において、人柱を立てるという事はさして特別な事ではなかった。むしろそのお役目は光栄だと、名誉だと考える風潮があった。その中でも取り分け“贄姫”の役目は誉れであり、ましてや妖怪である化け狐が担えるものではないはずだ、と景久の常識ではそう認識されている。
「何でウチが贄姫にされたか、から話そか。
……ウチは、この時代の、この世界の人間やない」
“伏見 稲荷という少女は、この世界の生まれではない。彼女は、呼び出されたのだ。
本当の彼女は、日本という国の京都と言う町に住む、平成という時代に生まれ、大学に通い始めたばかりの平凡な少女だ。その髪は黒色で狐の耳も尾も無く、怪我をすれば普通に血は流れるしそれが食物になったりする事も無いただの少女。スマートフォンを弄るのが好きだし、人並みにおしゃれもする。誰かと付き合ったりしたことは無かったけど、片思い位はしたことある。そんな人並みの少女だった。
ただ一つ、少しだけ違うところがあるとすれば、京都にある“伏見稲荷大社”の旧社屋の血を引いていて、偶然伏見家に生まれ稲荷の名を授かった、ただそれだけ。
「“贄姫”の条件はな、神様の依代になれる人間や」
神社の名を持ち、その神に縁のある少女。神を降ろす依代としては十分すぎるだろう。ただのゲン担ぎだったその名は社となり、僅かに引いた神へと連なるものの血は触媒となり、ある神をその身に降ろす。その神の咒は――
“保食神”
或いは“宇迦之御魂大神”とも呼ばれるその神は二十二社の一つ、伏見稲荷大社の主祭神だ。その神咒の意味は“穀物・食物”。豊穣を司る中でも最大の信仰を集める一柱。
「妖狐になったんは、多分その神さんのせいやな。その神さんの使者は“お稲荷さん”ゆうて、狐やから」
「ならば何故、命を狙われる……?降ろされた神を何故、わざわざ殺す必要がある?」
「んー、それはこの神さんの性質と言うか謂れのせいやね」
話が長くなるけどゴメンな、と前置き稲荷は母が童に語り聞かせる様に、優しく、演じる様に語り始める。
「むかーし、むかし。遙かむかし……」
それはかつて昼と夜が、日と月が分かれる前の遙か昔の話。
天照大神の命により、葦原中國に降りた三貴神の一柱、月の主神、夜を統べるもの“月夜見尊”に“保食神”は、“身体から食物を産む”能力を以てもてなす。それを目の当たりにした月夜見尊は穢らわしい、悍ましい!と怒り一刀の下に保食神を斬り殺す。それに憤った“天照大神”は“月夜見尊”と決別し、かくして昼と夜は別れたのだ。
そして殺された保食神の屍体からは牛馬が、粟が、蚕が、稗が、稲が、麦、大豆、小豆が生まれた。それを天照大神は喜び、それらは田畑の種となる――。
「酷い話。殺されて、その身を糧となる事を喜ばれる。まるで死ぬんが生まれた意味みたい」
死にたくない、それは人であろうと神であろうと違わず願う、切なる渇望。まるでそれを体験談の様に語る稲荷の姿に、景久は二の言を継げずにいる。そして、「何故降ろした神を殺す必要がある?」と言う景久の問い。それを如実に語るその“謂れ”を察する事が出来ない程、景久も愚鈍ではなかった。
「数年前までは豊かだった地が、ここ最近不作が続いてるのは知っとる?」
「…あぁ」
「贄姫祭の後、豊作となっとるんは?」
「……知っている」
まるで尋問官が罪人を問い詰める様な質問攻め。人柱の目的は、本来神を慰める為にあるものだ。だが、これはなんだ?慰める所か、降ろした神を殺す?不敬にも程があるだろう。選ばれる少女もだ。人柱にされたものには名誉と、その親族には多大な報酬が与えられなければならない。
「“死と屍を以てこの世に豊穣をもたらす。”
それがウチの役目、この世界に生み出された理由」
「そのようなもの……」
「ふざけんとる、舐めとる、人を何だと思っとるんや。
恨んどるよ、怖いんよ、この世界の全て」
そこに秘められた目論見は簡単に推測できた。異界の神を降ろしたものなら、その神の不興を買うことも無く神の恵みを最大限引き出す事ができ、死ぬ事が条件であれば軋轢の種になる事も無く、親族への補填も必要が無く、異邦人一人死んだとしても誰も悲しむことは無いだろう。
――成程、反吐が出るほど効率的だ。
「なぁ、景久は、月夜見尊?」
稲荷の手が、優しく景久の頬に触れる。普段の明るい表情とはかけ離れた、憂いと哀を帯びたその表情と、頬に伝わる少女の手のひらの熱と柔らかさに、景久はビクリと僅かに、怯えたかのように震える。
「自分が口にしたんは、ウチがこうやって生み出したモノや。
穢らわしい?賤しい?そこの刀を取ってウチを斬り殺す?ハハ、まるで伝承の後追いやな」
僅かにたじろいだ景久の様子に心を落とし、自嘲しながら稲荷は無理やり自分の境遇を嗤う。もしかしたら景久なら、化け物へと堕ちた自分を受け入れてくれるのではないか、という淡い期待があった。それは世界中の人を敵に回すことで、許されるものでも受け入れられるものでも無い事など分かり切っていたのに。
「……俺は」
「バレてもうたんなら自分との生活もここで終わりや。もうリハビリも十分やろ?」
……これ以上景久と共に居るのは辛いだけだった。
振り向いて背で拒絶を示す稲荷。その背を呆然と眺めていた景久は、ギリっと歯を鳴らす。
「――俺はッッ」
「なっ、きゃっ」
突然叫び、手を取った景久の行動に、稲荷は小さな悲鳴と共に振り返る。その目元に浮かんでいたのは、零れそうに貯められた涙。そのうるんだ瞳を見て景久は先の自分を斬り伏せたくなる衝動に駆られる。
ふざけるな、俺よ、命を助けられて、これ程の献身と救いを与えられ、その相手に怯えるなど、それでも男か!景久は心の中でそう叫ぶ。
「ひやっ!?」
再び稲荷の悲鳴。何をされたか、分からなかった。軽く切った腕を這う柔らかな感触。ジクジクと無視するには大きな痛みを上げる傷に接吻を落とされたのだと気付くにはしばらくの秒数を要した。気付いた瞬間、羞恥に瞬時に耳まで朱に染まる。
「ちょっ、やめ、やめぇ!くすぐ、ったい!」
「俺を救ってくれたこの血を穢らわしくなど思うものか!
あぁ、そうだ。感謝している、大切だと思っている、護りたいと思っている。
……稲荷、お前が好きなのだ」
口内で変化したのであろう生米をガリと噛み砕きながら、景久の真剣な視線が稲荷の眼を貫く。その真摯な思いが、愛の吐露が胸を貫く。受け入れて貰えた――そう理解した瞬間、先ほどとは違う意味の涙と、違う意味の頬を熱くする感情が込みあがってくる。縋り付いて泣き出したくなる衝動を抑えるため、そして燃え上がりそうな感動と、気恥かしさを誤魔化す為、そっぽ向いて言い放つ。
「……ッ、景久、自分の行動が相当変態っぽいって、理解しとる?」
「――――!」
言われて景久は冷静になって自分の行動を客観的に見る。うら若き少女の、白磁の様な手首を取り、そこに唇を落とした。景久の勢いに押されてしりもちを突く体勢になった稲荷の華奢な身体と、それを覆いかぶさるように詰め寄る景久の大きな背。羞恥に、耳まで鬼灯の様に赤く染めた稲荷のかんばせと、口の中に広がる生米と僅かに残る鉄の味が背徳と蠱惑の色香を放ち……
「済まない」
一瞬で振り切れそうになる理性に全力で喝を入れて、景久は慌てて稲荷から離れる。
それはもう、すごい勢いで。
「……アホ。でもまぁ、気持ちは伝わったわ。
ありがとな、うちもや……」
呟く稲荷の声はか細く、それが景久に届いたかどうかは、彼女には分からなかった。
次の日の朝、稲荷の様子は明らかにおかしかった。妙にソワソワし、景久の方をチラチラとみている。かと言って景久が視線を合わせようとすれば、あからさまに目を背けて視線が交わらない様にしている。
何度目か口を開こうとして、そのまま声を発さずに口を噤んだ様子を視界の端で見据え、景久はため息と共に問う。
「……どうした?」
「あ、あんな?昨日寝ながら、ふと思ったんやけど……」
もじもじしながら、指を合わせたり絡めたりしながら恐る恐る問う姿は可愛らしいものである。一拍置いて、意を決したように稲荷がその疑問を口にする。
「ウチら、今、恋人同士なんかな?」
景久が……は?と口に出さなかったのは奇跡に近かった。景久にとっては少々倒錯的だったと言え愛の告白をし、稲荷からはか細い声でも返事を貰えたのだ。それを今更恋人同士か否か聞くなど……
「うっ、ウチの勘違いやったら言ってくれてええんやで!」
「……いや、違う」
色白のかんばせを真っ赤に染めながら慌てて取り繕う稲荷の姿に、景久の心にムクリと嗜虐心と悪戯心が湧く。
「そ、そか……!せやね、ウチ“人間”やないし……いつか殺される身やしね……」
「まだ、聞いていない」
「へ……?」
「稲荷。お前の心を、聞いていない」
「ふぇぇっ!!?」
そうだ、返答を貰っていない。愛していると伝えた。自分もだと言ってもらった。だが、その気持ちを言葉にしてもらっていない。そんなものは不公平だろうと。
「俺の思いは、昨日伝えた。感謝している。大切だと思っている。護りたいと思っている。
……お前を、好いている」
「あっ……えっ……あー……」
「お前は、どうなのだ?」
「ウチ、は……」
再び語られた言葉に、稲荷の頬が再度紅くなる。
言葉にしなければ許してもらえぬだろうと観念した稲荷は、2、3度の深呼吸を付く間に乱雑に、桃色に染まった頭の中を整理して、言う。
「ウチも、好いとるよ。化け物になってもうたウチに普通に接してくれて、優しくしてくれて感謝しとる。
寂しかったし怖かった、心細かったウチを救ってくれたんは、景久や。
……ぁ、えっと、あ、愛し、とる」
「そうか」
「か、景、久?」
ならば問題ないだろうと、景久の顔が眼前に迫る。優しく後頭部を撫でられ、金色の髪がサラリと靡く。この先の展開が分からぬ程稲荷は初心でも無ければ、恋に疎くも無い。
静かに目を閉じれば、その分他の感覚が鋭くなる。唇に触れる感触は想像以上に柔らかく、身体の芯を甘く痺れるような感触が走った。
◆◇◆◇◆◇
「……ホンマに?!」
「あぁ、間違いない。“贄姫祭”だった」
稲荷の信じられないという驚愕に、間違いないと断じる景久。それは、日用品を買いに、街に降りた景久が見たものの事だ。
景久が見たのは間違いなく贄姫祭であった。縁日の屋台が並び、太鼓と笛の音が鳴り響き、神社では御神楽が行われていた。そして贄姫祭の最大の特徴である“贄姫”を乗せた神輿行列も、街を横断していたのだ。
「つまりは、ウチ以外の誰かが犠牲になったんか」
「……気に病むな。責を負うべきはお前ではない」
贄姫の命が捧げられなければ、贄姫祭は完結しない。贄姫が逃げ、見つからないのであれば…… 単純だ、新たに呼べばいい。
これで稲荷の命が狙われる事が無くなった。だが、二人はそれを手放しに喜ぶ気にはなれなかった。
「……祭りってまだやっとるん?」
「ん、あぁ、明日までの筈だが?」
「お願いがあるんやけど……」
祭りとは、神仏を慰めるもの。崇め、祈るためのものだ。
稲荷は名も知らぬ、だが、誰よりもその境遇を同情し、誰よりも罪悪感を胸に抱く少女の為に、その慰霊を行いたかった。だから――
「ウチ、祭り行ってもええ?」
長めの楊枝二本をその丸々とした身に突き刺し持ち上げれば、柔らかさを主張するかのようにたわみ、熱々の蒸気と屋台の提灯の灯りにタレが照らされる。用心深くフーフーと息を吹きかけ、意を決したように半分程齧り付くも、あわや口内を焼くような熱さに僅かに涙目になる。だが、熱さと共に伝わるパリッとした外皮の触感、追いかける様にしてどろりと適度に蕩ける身が流れ出る。噛みしめる度に醤油ベース出汁の旨味が広がり、青々としたネギの触感と爽やかな風味と合わさって幸せな気分になる。だけど、これはまだ前座だ。再びもう一口、残る半分を口に頬張る。再び広がる出汁の旨味、そしてプリプリとした蛸の触感。とろふわの身の中から強く主張するその触感と新鮮な蛸の旨味が合わさり、先ほどの幸福を超える感覚に包まれる。
「はふ、やっぱお祭りと言えばたこ焼きやんなぁ」
ハフハフと、未だに熱さを誤魔化すように口の中に空気を送り冷やす稲荷。だが、そのほほえましい様子を見る景久の視線は、かなり困惑しているものだった。
「……なんや?」
反応の薄い景久に、少々機嫌を損ねながら稲荷が問う。しかし、景久の反応も無理も無いものだった。正直、今の稲荷の姿と、いつもの稲荷の姿を結びつけることが出来ないからだ。
まず、黒い。流れる絹糸の様な黄金色の髪が、烏の濡れ羽色と呼ぶにふさわしい程艶やかな黒色に染まっている。
天に向く三角形の狐耳も、フワフワの綿毛のような柔らかさと豊満なボリュームを持つ狐尾も、まるで跡形も無く消え去っていた。
袖を通しているのは黒地に桜色の蝶が舞う、上品な浴衣だ。稲荷の白い肌と黒い浴衣は、どちらもがもう一方を鮮やかに強調させ、上品ながらも眩むような色香を発している。長い髪は後頭部で巻き上げられ、玉のようなかんざしに止められ、普段は隠されている白くスラリとしたうなじが覗く。
浴衣美人、と誰もが呼ぶであろう。隣に寄り添うように歩けば悪い気がする男はいない。現に、周りの男たち、いや、女ですら思わず見とれてしまっている美しさだった。
「……いや、上手く隠せるものだな」
「あぁ…… ゆーて、多分隠せるのは二時間程度やから、あんまりゆっくりは出来へんけどなぁ」
「その短い変化を使ってまで来たかったのか?」
「せやな~。折角恋人出来たんやし、デートの一つくらいしたいわ」
「でー……?」
「……秘密や」
機嫌を更に一段階悪化させた稲荷が、唇を突きだすようにして拗ねたように言い放つ。フイと視線を逸らした先に見つけたのは、縁日では定番である“わたあめ屋”だ。白くフワフワとしたわた飴だが、上手く巻くにはコツが必要で、屋台の中では作ることの難易度は高い。稲荷も自分の能力で材料を生み出すことは叶っても、作る事が出来ないわたあめは魅力的に映る。
「ほらほら、景久、わた飴!次あれ食べようや!」
「食い物ばかりか」
「家で作って食べても美味しないで?食べ歩きするからこそや!」
「そうだな……稲荷」
さっきまでの不機嫌さはどこへ行ったのかわた飴を見てはしゃぐ稲荷。そんな彼女を、幸せそうに目を細めて見ながら、景久は呟く。
「綺麗だぞ」
「……遅いわ、アホ」
稲荷は先ほどよりも努めて一際不機嫌そうに見える様に、大きな不満を込めて言い放つ。だがその声色には、待ち望んでいた言葉を得た喜びと、幸福が溢れ出しており、その表情もはにかむ様な笑みが浮かんでいた。
――今が永久に続けばいいのに。この無上の幸福を抱いたままずっと過ごせたらいいのに。
稲荷の胸に、そのような馬鹿気た願いが浮かぶ。この幸せが永遠に続けばいい、そんな願いは叶う訳が無いと知っていたのに。
「――――見つけたぞ」
黄昏は終わり、破滅の足音が鳴る。昏き夜が訪れ、“月”が昇り“保食神”の首を斬り落とさんと這い寄る。
それは初めから、そう、昼と夜が分かれた時から、決まっていた事なのだから。
(……尾けられているな)
初めに気付いたのは景久であった。武道の心得の無い稲荷では事が起こるまで気付かぬであろう程、精巧に隠匿された気配に気づいたのは。どちらにせよ、良い理由の目的だとは思えなかった。
努めて平常心を装い、稲荷の言葉に適当に相槌を返しながら歩き、曲がり角を曲がった瞬間――
「稲荷、走るぞッ」
「えっ、ちょっ!?」
景久が稲荷の手を取り、走り出す。気付かれていると思っていなかった男達は、景久の突然の行動に面食らい、一手、動きが遅れる。
そのままどれだけ走り続けただろうか、男たちの気配を振り払いながら走り続け、走りつかれた稲荷が音を上げるまでその鬼ごっこと呼ぶには不穏すぎる競争は終わりをつげた。
走りつかれたせいで変化は解け、金色の髪と耳と尾を揺れている。ゼェゼェと荒い呼吸をしながら、稲荷は必死に走りながらもずっと考えていた疑問を吐く。
「はぁっ、はぁっ、なに、なんなん?」
「何者かは分からんが、尾けられていた」
「はぁっ!?嘘、なんで!?贄姫祭は終わったんじゃ?」
「――終わってないからだよ」
冷たい、氷を思わせる冷ややかな声が響く。
現れたのは、その声の印象に違わぬ、冷酷な目をした男。その視線は此方を塵を見るかのように見下している。その表情に浮かぶのは嫌悪の表情。
男に続いてぞろぞろと新たな男達が現れる。数瞬後には背後からも現れた男たちによって、景久と稲荷は完全に包囲された状態になっていた。
「愚人は夏の虫、飛蛾の火に入るが如し、ああ前任共の何と無能な事よ。吾の手に掛れば容易くあぶりだすことが出来たぞ?」
「……誘い込まれた、か」
「如何にも。さぁ贄姫よ、役目を果たす時が来たぞ」
「っぜ、はぁ……っ、どういう、ことや……贄姫祭が、終わってへんって?」
やっと息が整い始めた稲荷が男に尋ねる。だが、尋ねずとも、二人には既にこの状況が何を指しているのかは分かり切っていた。
「そうだ、終わってなどいない。贄姫が縊られ、その身を糧となるまでは、贄姫祭は終わらんよ」
「ブラフ、かいな。いけずやな、あんた」
「ぶらふ?……まぁいい。頭の足りぬ化け狐がまんまと釣れた訳だ。さぁ、祭りの続きをするとしよう」
そう言い放ち、男が数歩前に進む。それに伴い、周囲の包囲が同じ歩数幅、縮まる。
刀を持った男達の姿に、稲荷の脳裏に月夜見尊の姿が過る。それだけで喉が枯れ、汗が吹き出し、腰を抜かして今にも倒れそうになる。
「ひっ……く、来んな!」
「安心しろ、貴様も一応女だ。最後位は着飾ってやる」
――ザリ。
怯える稲荷を視線から護る様に、視線を稲荷に向けさせない様に、景久は地面を踏みにじりながら、稲荷の前に身体を運ぶ。
「……何だ貴様は?」
「稲荷に、寄るな」
「ハッ、狐に誑かされたか?良いか良く聞けその娘は――」
「黙れ」
景久の無知を、行動を痴れ者だと笑い、嘲るように言い放とうとする男の言葉を、景久は静かに、だが重い声色で断じて捨てる。台詞の途中で割り込まれた男が不快そうに眉をしかめた。
「……貴様」
「道を、開けろ」
「……構わん、この不敬者諸共、贄姫を狩れ」
男の堪忍袋は容易く破れ、周囲の者たちに命令を下す。男たちは素早く間合いを詰め、その距離は五足一刀と呼ぶべきか、五歩分の間合いまで詰められた。
「あぁ、出来れば贄姫は殺すな。見た目だけは良いのだ、祭りの元手もタダではない。その躰で返してもらおう。
色街で壊れるまで使い尽くしてから処理しても罰は当たらん」
「……下衆が」
さも名案を思い付いたように男が、稲荷の“使い道”を語り、周囲の男たちがその様を想像して表情を劣情に歪める。その姿を不快そうに見て愚痴りながらも、景久は冷静に周囲を警戒している。
「あ、アホ!景久!勝てる訳ないやろ、1対9やで!?あんただけでも逃げぇ!こいつらの狙いはウチや、景久まで……!」
「女ひとりを身代りにして逃げろと?論ずるに足りぬ」
稲荷の必死の懇願に一顧たりともせず、景久は断じて捨てる。あり得ぬだろう?己の女を身代りにしてのうのうと逃げおおせる男など。そんなものは男でない。嗚呼、それに――
「それに……1対“8”だ」
景久が、手に持つ刀をカチャリと握りなおす。そう、握りなおした。抜身の刀を。
そして稲荷は、周囲の男たちは気付く。その刀に、鮮血が滴っていることに。
「――――」
周囲を囲んでいた男の一人が、刀を構えたままの体勢で身体を揺らし、前向きに無防備に倒れる。
受け身が取れるはずも無い。死んでいたのだから。男たちは稲荷を弄ぶ様子を想像し、そちらに意識を向けすぎていた。その隙を見逃す景久ではなかった。
「何を呆けている。往くぞ、“一刀斎”の剣、その身で味わうがいい」
「貴様ァァアアアッ!!!」
仲間を殺された怒りに駆られた一人が、咆哮と共に斬りかかる。悪手だ。一対多である現状において、策も無く先行すれば結果は無論……
「ァ?ガ……ギィヤアアアァァァ!!?」
男が一命を取り留めたのは偶然ではない。景久は無謀にも単独で斬りかかった男の手首を斬り落としていた。振りかぶった手を狙うことは容易く、手首から先を失った男は激痛に絶叫し、狼狽えながら暴れる。包囲している状況で、一方向を塞ぐ“盾”を手にした景久は、その盾を背に向けて他の男達に向き合う。
「オッ……オォォォォオオオ!!」
次に斬りかかって来た男たちは、先の男よりも幾分冷静だった。一瞬目配せを行い、掛け声と共に景久に3人同時に斬りかかる。一対多数の戦いにおいて、多方向からの同時攻撃は最も有効な攻撃だ。本来なら為すすべなく斬り伏せられる状況であるが、景久の磨き上げられた“武”はそれを僅かに上回る。掛け声と同時に斬りかかったのは景久も同様であった。走り抜ける様にしながら三人のうちの一人に斬りかかり、その命を奪いながらも残る二振りの斬撃を紙一重で躱す。崩れた包囲を抜けた景久は、手近に居た男を袈裟切りに斬り伏せる。先の一撃で決まると思っていたのか、油断していたその男を斬り伏せるのは余りに容易かった。
(あと、五人)
摺り足でその軌道を惑わしながらも、景久の足が止まる事は無い。付かず、離れずの間合いを保ったまま、男たちが再び景久を囲う事のない様に動いている。
――思えば先の攻撃が、男たちにとっては最後の勝機であったのかもしれない。動き回る景久の動きは疾くも不規則で、見切る事が困難だ。迂闊に斬り込めば返り討ち、されど待てばその俊足に詰められ、斬り殺される。戦場の空気は、既に景久の手の内に堕ちていた。
一人、唐竹に斬り伏せられた。
一人、右薙ぎに首を裂かれた。
一人、逆袈裟に切られ、返す刀でまた一人、斬られた。
「あ、あぁ……」
囲っていた男たちの最後の一人は、敵にすらならなかった。景久の人間離れした強さに怯え、ガタガタと震える手に力は入っておらず辛うじて刀を持っているばかり。せめてもの慈悲だと、景久は一刀のもとに心の臓を突き、終わらせる。
男達が全滅した後には返り血にまみれた景久が一人、立っているだけだ。手首を切り落とされた男もいつの間にか倒れたのか、血を失いその命を落としていた。
「……貴様が最後だ」
とうとう一人になったのは、あの冷酷な顔を浮かべていた男だった。景久の予想外の腕に顔を青白くさせ、手も足も出ずにいた。
「そ、そいつは贄姫なのだぞ!その娘を……」
「知っている」
その娘を殺さなければ――そう説明を続けようとした男の言葉を、論ずるに足りぬと景久は斬って捨てる。その言葉を聞いて、男は更に顔を青ざめ、恐怖と怒りに歪めさせる。
「貴様ッ、分かっているのか!コレを殺さねば、皆飢えて死ぬのだぞ!」
「分かっている。その上で言っている」
ザリ、ザリと一歩ずつ男に近づきながら、景久は断じた。
「稲荷の為、飢えて、死ね」
その言葉に驚愕したのは男と、稲荷。景久の言っている事は暴論だ。一は全の為にあるべきだが、全が一の為にあるのは在ってはならない事なのだから。
「ふっ、ふざけるな!人ですらないモノ一つの為に、この世の全てを犠牲にするなどと――」
「娘一人にその責を負わせ、のうのうと生き延びる世界など、滅んでしまって構わんだろう」
「な――!きさ……ガ」
これ以上語る事も無い。景久は間合いに入ってもなお、罵声を浴びせようとする男の首筋に刀を走らせる。その一振りは声帯を裂いたのか、何言か喋ろうとした男の声は出ず、鮮血を吹き出しながら倒れ、呆気なくその命に幕を下ろした。
「稲荷、立てるか。一人逃げた。長居は出来ぬ」
「あっ、えっ、なんと、か」
景久の手に支えられ、何とか腰を起こす。立上ってみれば呆然と驚愕により真っ白になっていた頭が少しずつ動き始め、稲荷は現状を嫌でも認識する。
――景久は何をやった?
役人を斬り殺し、国中から殺意を向けられる稲荷を救ったのだ。
そのようなものの末路、一族郎党皆殺しだけでも生温い処罰が待っている。
「ってちゃうわ!あっ、アホか自分!文字通り世界中を敵に回すんか?!殺されてまうんやで?」
「元よりお前に救われた身。ならば、お前の為に使い果たす」
「ふざ、けんなッ!ウチが必死に助けてやった命を無駄にやなんて……」
その言葉を遮る様に、大きな手が俺の頭を少し乱暴に撫でる。
「決めたのだ。だから、強がるのはよせ」
真剣なその眼差しに、どんなに言葉を投げかけてもその意思を変える気が無い事を悟る。
「……バカ」
「あぁ」
本当に馬鹿だ。
「アホ、ボケ」
「自分でもそう思っている」
こんな自分に、それほどまでに入れ込むなんて。まだ、恋人同士になって少しの月日しか過ごしてないのに。でも、それでも……
「……一緒に、居て」
「……おう」
稲荷の絞り出すような懇願に、景久が優しく応じる。
「お願い、ずっと一緒に居て、なるべく長く一緒に生きて、一緒に……死んで」
「望むところだ」
遠くで鳴り響く祭りの音が耳に届く。嗚咽の様な泣き声は幾分かその太鼓の音で掻き消えた事に、稲荷は感謝する。
祭とは、神を慰めるもの。
為ればこそ、この音色は贄姫の為の小夜曲に他ならない。
和モノ布教企画短編、完結です。
短編と言いながらも前後編に分け、22000文字を越えて執筆に一月掛かりました。
お題が『和食』と言いつつあまり和食っぽくなかったかもしれませんがご容赦を。
最後に一言、和モノ流行れ。




