第九話 「中庭と魔物」
ミリリアは走った。
暗い廊下を。
ただただ夢中で。
どこへ向かっているのか、確かな目的も定めないままに。
囚われた人たちを助けようとしない----してくれないシェロナやルートに、少しの憤りも感じないと言えば嘘になる。そんな彼らを説得できない自分にも、たくさんの人たちを連れて逃げる力のない自分にも、情けなさと同時に怒りを感じないわけではない。
しかし、
今こうしてひたすらに走る少女の胸の内にあるのは、居ても立ってもいられない、衝動に近い感覚だけだった。
自分の望みがどれだけ困難か、理屈は分かる。分かるのだ。
それでも放っておけなかった。放っておいていいはずがなかった。
ミリリアは思う。
できないからといって、やらなくていいことにはならない。
できなくても、やる。
それがどれだけ不可能なことでも。
例えその結果、命を落とすことになったとしても。
挑まなければならない時はある。
少なくとも、ミリリアはそう思うのだ。
自分が間違っていたとしたら、それをシェロナたちにも求めたことだろう。そう考えるのも、人々を助けたいのも、彼女の勝手な気持ちで、それをシェロナにまで押し付けてはいけなかった。
同じような想いから、やはり勝手を言って付いて来たのはミリリアだ。
ならば自分の力でやらなければならない。
だから、ひとり走った。
たくさんの人が無理なら、王女様だけでも救い出す。
他でもない、自分がやる。
そう決意して突き進むミリリアの行く手に、影が立ち塞がった。
暗い闇から浮かび上がったようなその影は、ミリリアの姿を捉えると、けたたましい笛の音を廊下いっぱいに響かせる。続いて聞き慣れた鞘走りの音。それから鋭い声で「止まれ!」と命じる。魔物の兵士だ。
ミリリアはここまで形振り構わず走ってきた。その途中にも、横手の廊下で驚いたような魔物の声を聞いた気がする。それさえ置き去りに走ってきた。今のところ、背後から迫る物音は聞こえない。
ミリリアは顎を引いて、自身の少々乱れた呼吸を意識する。
駆ける速さは少しも緩めず、輪郭のぼやけた影を睨み、腰の愛剣に手を掛けた。
「!」
待ち構えていた魔物の兵士の横薙ぎの一閃。
浅く息を吸うと同時に身を低くしてかわす。
前に踏み込む足を止めず、ミリリアは魔物の太股に刃を走らせた。
魔物を相手にするのは、人間を相手にするのとは勝手が違う。
そもそも人間と魔物とでは肉体の構造が異なる。
人間よりも優れた運動能力。人間にはない身体の部位----尻尾や角や棘、時には毒さえ使って攻撃してくる。その上、法玉も呪文も必要ない魔法のような固有の力を使うのだ。様々な種のある魔物の特徴を瞬時に見極め、対応しなくてはならなかった。
経験の少ないミリリアには、厳しい相手だ。
できれば手数をかけたくない。
そうした意味で、今、脇を擦り抜けている兵士が、固い鱗や強靭な筋肉に覆われた身体でなかったことに、ミリリアは少なからず安堵した。非力なミリリアの剣では、魔物のそうした皮膚には太刀打ちできない。
背後に回り身を返し、間を置かず突きをくり出す。
一つ、二つ。
一撃目は背中にあった羽を裂いただけ----驚いたことに、兵士の背には蝙蝠のような黒い翼が生えていた! 二撃目は痛みに体勢を崩しながらも振り返った兵士の剣に弾かれる。
続いてミリリアを追う刃を、後ろに一歩、ちょうど間合い分を飛び跳ねて避ける。と、着地と同時に再び攻撃に転じ、突く!
鎧の隙間を縫った細い刃は、がら空きになった左の肩を過たず貫いた。
兵士が、こちらは蝙蝠に似ないギョロ目を、大きく歪めて呻く。
ミリリアは直ぐさま剣を引いて、深く踏み込みながら両手に持ち替え、薄い鎧にもかまわずその上から力の限り脇腹を打った。
羽があって空を飛ぶからか、この兵士の鎧は金属を多用した重厚なものではなかった。それならば、腕力の無いミリリアでも充分な痛手を与えられるはず。
痺れる両腕を堪えて振り返る。
兵士が膝を付いて、床にうずくまるところだった。意識はまだあるが、直ぐには動けそうにない。
ミリリアは跨ぐようにその兵士の脇を通り抜け、また駆けた。
長居をすれば応援が来る。
背後からコウモリ兵士に飛び道具で狙われないように、廊下を曲がっておく。
そんな簡単な事柄に、やっと思考が回るようになっていた。
不意の----否、当然だったのだろうが、兵士との遭遇で幾らか頭が冷えた。
感情だけに満たされて、逆に思考が空っぽになっていた頭に浮かんできたのは、ルートの言葉だ。
----行き当たりばったりというわけにはいかない。
----冷静に状況を判断できなくてはダメだ。
ミリリアはここにはいない魔法使いにうなずいてみせた。
肩越しに後ろを振り返って追っ手が無いのを確かめ、周りに魔物の気配が無いのも確かめてから、緩やかに足を止める。胸に手を乗せ呼吸を整えながら、頭を働かせてみた。
己が向かうべき場所はどこだろうか?
それはもちろん、王女様のいる場所だ。
ミリリアは王女様を救い出そうとしているのだから。
しかし、どこにいるのか分からない。
ミリリアはちょっと眉をしかめて唇を尖らせる。早速暗礁に乗りかけたミリリアの困った脳味噌だが、直ぐに思い出した。そう言えば、ルートは城の背後にある塔のどちらかが怪しいと言っていた。それはいかにもありそうだ。きっとそうに違いない。
ミリリアはもう一度うなずいた。
左右の塔どちらかまでは分からない。とりあえず、近い方から行ってみよう。
そう決めて、ミリリアは歩き出そうとした。
その一歩目で、首を傾げることとなった。
……ここは、どこだろうか?
足を戻して、きょろきょろと首を巡らせる。
ここまで、あまりにもがむしゃらに走ってきてしまった。真っ直ぐ突き進んだわけでもない。目についた方の道を選び----つまりなにも考えずに、縦横に駆けて来てしまった。その為、自分が今どの辺りにいるのか、見当もつかなくなっていた。頭の中にある地図の上に出発点を置くことはできる。ではさてここは……?
石で造られた城の狭苦しい廊下は、地下の道と同じようにどこともあまり違いが見出せない。現在地を見分けるのは難しい。こういった城も、侵入者をすんなりと奥へ通さないように造られているものだそうだから、当たり前なのかもしれない。
左手側には扉が並んでいた。名札が下がっているわけではないから、なんの部屋なのか分からない。右手側には上の方に鉄柵のある四角い窓があった。そちらの壁伝いに視線を辿っていくと、窓の途切れた場所があって、折れた方に廊下が続いているようだった。その先は妙に明るい。
物言わぬ扉の群を見ていても埒があかない。
誘われるように、ミリリアは光の方へと足を向けた。
廊下を曲がったその先は、外へと続いていた。
石壁がぱっくりと割れて、植木と芝生の庭が見えている。石畳の小道に出ると、四方を建物に囲まれた空間だと分かった。恐らく、東西にある中庭のどちらかなのではないか、とミリリアは考えた。いつの間にか地上へ下りていたようだ。思い返せば、階段を下ったような記憶もある。
奥に向かって長方形になっている庭には、花壇や植木や木製の椅子が置かれていて、雰囲気よく造られていた。壁には窓がたくさん並んでいるから、仕事の合間に目を楽しませてくれるだろう。しかしそれらは全て、空に渦巻く暗雲の薄暗がりの中にあって、どこか元気が無いようにミリリアには見えた。
そうしてぐるりと見渡したミリリアは、一点に目を留め首を傾げた。
馬車がある。
馬はいない。
少し上等な、屋根の付いた馬車が置かれている。
外なので屋内よりは見通せるが、ちょうど背の高い木が邪魔をしていた。なんとなく場違いに見えるその馬車に、ミリリアは体を斜めに植木を避けて目を凝らす。馬車には改造が施されているようだった。
本来ならば馬が引く為にある横木が、前だけではなく後ろにもある。前後に馬、というのは変だから、もしかして担ぐつもりなのだろうか。それはつまり、輿のように使うということか。
想像を巡らせて興味を惹かれるままに、ミリリアは一歩、足を踏み出していた。
馬車に注がれる視線の角度が変わる。
暗い色の馬車の傍らに、魔物がいた。
「----!」
ミリリアは息を呑み、咄嗟にしゃがんだ。
手の平で口を覆う。声は上げなかったはずだが----。
それが分かっても、口を押さえずにはいられなかった。そうしていなければ、呼吸や鼓動の音さえ聞かれてしまいそうだった。全身で気配を探る。運良くも、ミリリアがうずくまった場所は低い植木の陰だった。小さくしゃがんでいれば姿は見られない----はずだ。
持ったままだった剣を握る手に力が籠る。
一瞬目に入った限りでは、兵士は余所を向いていた。
気付かれただろうか?
どっどっどっ、と自分の心音が耳元で脈打つ。
どこか遠い喧噪と、小さな話し声に耳を澄ます。
ミリリアはそっと目を上げて、枝葉の隙間から様子を窺った。
----大丈夫。動いてない。
夜のように暗い陰の中で、いま見た魔物が変わらず馬車の横に立っていた。細部が黒く沈んだ影の兵士は、ミリリアの位置からでは見えない誰かと話し込んでいるようだ。彼女に気付いた様子はなかった。
ミリリアは一旦そこから目を離して、細く、細く、ほそーく、胸に支えていた息と鼓動を抜いた。いくらなんでも、今の行いは無防備過ぎた。ここはまだ敵地のど真ん中だ。いかなる場合も気を緩めていいはずがない。一つの事をやり出すと、他の事が疎かになってしまいがちなのは、ミリリアの悪い癖だ。これまでも散々注意されてきた。反省だ……。
それにしても----。
一度固く閉じた瞼を開き、胸の上に押し当てた拳を下ろして、ミリリアは再び植木の隙間から目を凝らした。
あれはいったいなんなのだろうか。
じっくり見直してみても、輿もどきの馬車だ。
兵士が動かず見張っている、ように見えなくもない。もしかしたら大事な物なのかもしれない。そう言えば、どういうわけか魔物がたくさん張り付いているからと、盗賊のアルドが避けて通った場所があった。それが西の中庭だったはずだ。そしてそれは、王女様を魔物の国へ送る為の準備なのだと、人質にされている人たちが言っていなかったか。ということは、あれに乗せて王女様を運ぶつもりなのだろうか。そうであれば、この緊急事態に兵士が動こうとしないのもうなずける気がした。
「……」
そう考え合わせながら、ミリリアはじっと馬車と兵士を見つめる。
兵士は頻りに城の壁のあちこちに首を巡らせている。表情は分らないものの、その仕草は戸惑っているように見えた。
馬車は沈黙したまま。しかし見ていると、僅かに揺れた気がした。中に誰かいる。あの中に----もしかして王女様がいるのだろうか? 馬車の改造は終わっていて、準備万端、今まさに連れ去ろうとしていたのか。だから兵士が守っているのか。
「…………」
思い付いてしまえば、そうとしか考えられなくなった。
ならば確かめてみれば良い。
魔物は二匹。二匹くらいならば、まだなんとかなる。
ミリリアは植木の後ろ側を辿って、馬車の近くへにじり寄った。
厄介なのは魔法と飛び道具だ。間合いに飛び込んでしまいさえすれば、戦える。
芝を擦る僅かな音にまで気を遣って、
充分な距離に近付いた----と思ったところで、
兵士が「ん?」と振り返った。
魔物には人間よりも五感の鋭い者がいる。
だから手前で気付かれることも想定していた。
そもそも、不意打ちの類はミリリアの趣味ではないのだ。
少女は立ち上がって姿を露にした。
踏まれた草が鳴る。兵士の驚きの顔。
それから身を沈め、駆けた。
「敵襲!」
兵士が吠える。
側で見れば、町の巡回をしていた額に角の生えた狼に似ていた。
ミリリアは打ち下ろされた刃を横に跳ねて避け、
そこから一歩、脇を目掛けて突く。
弾かれた切っ先に未練はない。今度は反転、逆側の空いた足を浅く裂き、背後に回る。
そこで、死角になっていた馬車の陰にいた兵士を見付けた。
慌てて槍を拾い上げるもう一匹の兵士は、先の兵士よりも小柄だった。一線横に引いたような大きな口に、岩のようなごつごつとした皮膚のまだら模様の顔。半分そちらに背を向けているミリリアに向かって、渾身の一突きをくり出すが、ミリリアはひらりとかわしてみせた。
そのまま細剣を振り下ろす。
長く伸びた槍の柄が、ぱくりときれいに二つになった。
ミリリアの愛剣は、家に出入りしていた名工が、彼女の発展途上にある腕を見込んで一から鍛えてくれた特注品だ。小さな体躯に合わせた軽さと細さながら、その分心許なくなってしまった強度を魔法によって補っている。ちょっとやそっとのことでは折れも曲がりもしない。ミリリアの頼れる相棒だ。
そこにミリリアの繊細な技が加われば、こんな武器破壊くらいお手の物だった。
がま口の兵士は舌打ちをして、残った槍の柄を捨て腰の剣を抜き放つ。
そして----。
馬車が、胸を逆撫でするような音を立て、大きく揺れた。
オオカミ顔の剣を受け流していたミリリアは、見た。
馬車の扉が開かれる。
その戸口いっぱいに、のっそりと姿を現した三匹目の魔物。
天井口に手を付いて窮屈そうにつかえながらも、丸太のような足を片方ずつ捻り出す。暗い空を背に大きな影となって目に映るその魔物に、ミリリアは思わずあんぐりと口を開けて見上げた。
額に大きな三つ目の瞳。
口から牙をのぞかせた悪鬼面。
つるりとした頭頂の下半分にだけある縮れ毛を、ミリリアと同じ三つ編みにしているのがなんだか嫌だった。鎧など不要と言わんばかりのがっしりと盛り上がった筋肉が、存在をこれでもかと主張する。上背など、アルドよりもさらに大きい。あれが馬車の中にどうやって入っていたのか。よく入ったものだとミリリアは不思議に思う。
「なんだ。掛かったのはチビだけか」
「侵入者には違いない」
「冗談のつもりだったが、ドルの言う事もたまには当てになる」
圧倒されていたミリリアは、巨漢の兵士が側に積まれた太い材木を手にしたことで我に返った。左右からのびたカエルとオオカミの剣を、慌てて後退して避ける。
あんな物で殴られたら----……ミリリアの全身の骨は、粉々になってしまう。
「……----」
ミリリアは片足を引いて、慎重に構え直した。
ここにはない空色の瞳が見据えるその前には、魔物の兵士が三匹。
息を呑み込む。
背筋を冷たい汗が伝う。
そんなものを振り払うように、ミリリアは高く声を上げた。
力強く、踏み込む。
▽ ▽ ▽
遠くどこかで、笛の音が聞こえる。
勇者だとか言う人物と共に城内を逃げるアルドは、ひとまず手近にあった部屋に身を隠した。何に使われていたのか分からない。別に知らなくたっていい。ほんの少しの間、魔物の目から逃れてやり過ごせれば。
アルドは扉に耳を張り付かせて、廊下をうるさく走り過ぎて行く足音を聞いた。
その手には、始めに倒した魔物から奪った剣が、いちおう握られている。----自分の大剣は、獲物をびびらせるのには有効だが、忍び込むのには向いていないのでここには持ってきていなかった。
が、これもあまり使わなくて済みそうだ、とアルドは息を抜く。
なにも一緒に来た勇者を頼ろう、というのではない。正直、この勇者の実力というのは怪しいモノだ。それ以上に人柄もこの上なく怪しいのだが。
そうではなく、城から逃げ延びるまでの間に、魔物と戦う必要がなさそうなのだ。というのも、不可抗力から三手に別れたことで、敵は混乱しているようだった。
もともと士気が低くまとまりのない連中ではあった。そこへ来て、予期せぬ笛の音だ。人間が攻めて来ることなどそもそも想定していなかったのか、兵士は動揺してただ群がるばかりで単発的。まるで統制がとれていない。その上あちこちで侵入者を発見しては笛を鳴らすものだから、後続はどこへ向かっていいのやら、分からない始末だ。
よっぽど指揮官が無能----じゃあねぇか、人望がないんだな。と、アルドはほくそ笑むより先になんだか同情してしまう。
なんにしても、逃げる方としてはありがたい状況だった。
ミリリアが何も考えずに走り回ってくれたのも、良い方に作用している。こうなってみると、彼女が血気に逸って単独行動に出たのは良策だったかもしれない。まあそれも、お互い無事ならの話だが。
そんなことをつらつらと考えながら、アルドは傍らの勇者を見遣った。
「この調子なら、問題なく城を抜けられそうだな」
何を考えているのやら、いまいちよく分らない角の生えた勇者は、ここでも何事かは考えているらしかった。ほとんど無表情の端正な顔に形の良い指を添え、恐いような冷たい目で一点を睨んでいる。ここまでアルドの指示に文句も言わず付いて来たが、その得体の知れなさがアルドにはなんとなく無気味に思える。
「考えてみれば----」
アルドの言葉にひと呼吸遅れて、勇者はどこか上の空に言った。
「見付かったからといって、逃げる必要はない」
「んん?」
勇者の眼差しがアルドを見る。
その意味を量りかねて、アルドは首を捻った。
勇者はひとりうなずいて続ける。
「敵は混乱し、こちらは手薄だ。
この機に隊長とやらを探して討ち取れば、それで事は終わる。
そうでなくても、さっき聞いた話を調べることはできる」
そう言う勇者はほんのり得意げだ。楽しそうなのは結構だが----。
アルドは「げえ」と顔を歪めた。
この城の状況について考えを巡らせていたのは同じだが、勇者の視点は少々違っていたらしい。アルドは肩をすくめて、手の平を上向けてみせた。
「それがどれだけ名案かは知らねえが、そこまでは付き合いきれねえ。
やるなら勝手にやってくれ」
そしてちらりと勇者の表情を窺う。
嫌な顔をされるか、食い下がられるか。
とも思ったが、勇者は案外あっさりした顔で簡単にうなずいた。
「おまえは既に取引分働いている。
そこまでは望まぬ」
その反応には、アルドの方がちょっと面食らった。
確かにあの時この勇者と交わした取引は、人質が押し込められている部屋までの案内だけだった。今こうして別の隠し通路を教えてやるのさえ含まれていない。これはアルドなりのおまけだが----それでも、難癖付けて同行を強要するものだとばかり思っていた。それが普通だ。少なくとも、嫌味の一つでも言われると思った。
見れば、勇者はもう次の考えに沈んでいて、アルドを気にもしていない。
アルドもまた、黙考する。
ここで別れれば、後金を手に入れるのは難しくなる。なにせこの勇者は金どころか荷物らしい荷物を持っていないのだ。その事を言い出さないのは、忘れているのか、死なない自信があるのか。なんとなく前者な気が全力でする……。
それはともかく。アルドとしても金は惜しいが、魔物の親玉なんぞと戦うのでは割に合わない。ここはとんずらが当然の選択だ。ならばヤツの気が変わらないうちに、さっさとお暇しよう。
そう決めたところで、アルドは物音を聞いた。
廊下ではない。その向かい側にある窓の外だ。
剣と剣とを打ち合わせる金属音。鋭い気合いと雄叫び。
それらは戦いの音だ。
ここでは魔物と人間以外ぶつかりようがない。子分たちならば加勢に行かなければ。そうでなくても状況は知っておきたい。
アルドは鉄柵のはめ込まれた窓に寄り、厚い遮幕に身を隠しながら慎重にのぞき見た。
この部屋は二階だ。逃げてきた道筋からすると、その窓から見えるのは西側にある中庭のはずだった。芝と植木の小洒落た庭の奥の方で、四つの人影が----正確にはその半分以上が人間ではなかったが、激しく動き回っているのが見下ろせた。
一番目立っているのは、やはり自分よりも大柄に見える、魔物の兵士だ。手にした木材を振り回す度、ここまで聞こえてきそうな風の唸りを想像させる。
そしてもう一つ。こちらは反対に他の二つの影よりもさらに小さい人影が----これは人間に間違いない、宙に三つ編みを踊らせながら手にした剣を閃かせ、自身も蝶か薄布のように華やかに舞い踊る。
「おい、あれ。
おまえのちっさいツレじゃねえか?」
顔だけ振り返って手招きする。勇者は小首を傾げると、反対側から窓の外を窺った。
遠目にはっきりしないものの、それはミリリアに間違いなかった。後を追ったはずの魔法使いは追い付かなかったのか、姿が見えない。
アルド自身があの娘に一太刀浴びせられたから、その剣の腕前は知っている。今も巨漢の魔物を相手に手こずりながらも、なんとか応戦していた。しかしその様子は、追い詰められているように見えた。
それはそうだ。魔物の兵士と戦うとなれば、並の人間の戦士が三人は束にならなければ相手にならないものなのだ。アルドも常々子分たちには、多勢対一でなければさっさと逃げろと言い聞かせてある。特にあんな、見るからに強そうな魔物とは、何があっても戦うなと。それだけ人間と魔物とでは、持って生まれた力に差がある。魔物三匹をたった独りで相手にしなければならない状況に陥れば、ふつう絶望する。動けなくなる。そういうものだ。
それをあの娘は……。
アルドは口の端を歪めて苦笑する。
状況はいっぱいいっぱいだ。にもかかわらず、ここまで伝わってくる少女の気迫は、まるで戦意を失っていない。どうにか打ち破ろうと必死に食らいつく。
だがそれも、いつまで保つか分からない。
アルドの声は、自分で思ったよりも緊迫していた。
「いいのか? やばそうだぞ」
「自業自得だ」
アルドは勇者の顔を見た。
先程までと同じ無表情で、中庭の戦闘を観察している。
そう、その眼差しは「観察」だ。それ以上の人間的な感情は、アルドには見出せなかった。そう言い放った声さえ、ぞっとするほどに平坦だ。
アルドは己の表情が歪むのを悟った。
同時に、それをどうこう言う義理など微塵もないと気付く。
これが盗賊仲間の誰かなら、頭の一つも引っ叩いて説教をするところだが、こいつは行き掛り上の他人だ。それに子供は苦手だ。どうも調子が狂う。仲間内はみんな知っている。それで特別情をかけるわけでもないのだが----。
どちらに対してか、アルドは呆れに鼻先で笑った。
「冷てえな。あいつはあんたの窮地に駆け付けたってのに。
とんだ勇者もいたもんだぜ」
「--------それもあったな」
常に何事か考えていそうな勇者の眉が微かに寄って、どこか忌々しげに呟いた。ほんの数瞬、アルドが訝しくその横顔を眺めていると、唐突にこちらを向く。冴えた瞳を真っ直ぐに向けられ、アルドはちょっとぎくりとする。
「あそこに行くにはどうすればいい」
「はあ?」
思い掛けない言葉に、脳天から声が抜けていた。
「……ここを出て右手にある階段を下りれば直ぐだが。
それか、こっから飛び下りるのが一番手っ取り早いぜ」
一瞬前までは「見捨てて当然」みたいなことを言っていたくせに、今はあの場へ行くつもりなのか。なんだかんだで、やっぱり仲間だからか。結局助けに行くのならば、何故あの分かれ道で突き放すような事を言って独りで行かせたのか。始めからそうすれば良いものを。
頭の中で疑問をぐるぐるさせながらも、アルドは返答を口にする。
こいつにくっついて歩いている、あの魔法使いの苦労が知れるというものだ。
まるで未知の生物と相対しているかのような気分だった。
何を考えているのか、さっぱり分からない。
そんな勇者に、アルドは困惑しながらも呆れ返ってしまう。そして当の勇者は、
「承知した」
と、言うが早いか、もう歩き出している。
「いやいや待て待て待て!
オレは行かねえからな!」
扉へ一直線に向かう勇者に追いすがって、アルドは宣言した。別に「一緒に来い」と言われたわけではなかったが、口に出して表明しておかなければ、流れのままに巻き込まれてしまいそうだったのだ。そういう妙な引力がコイツにはあった。
そんな懸念などどこ吹く風。
勇者は肩越しに振り返って、
「かまわぬ」
の一言だけ。その表情のさっぱりしたこと!
そしてまた向き直り、さっさと行ってしまう。
残されたアルドは、ゆっくり閉まる扉を見つめて、呆然と立ち尽くした。
まるで表情が読めない……。
本当に、わけが分からなかった。
▽ ▽ ▽
剣戟の音が響く。
ひらりひらりと紙一重で魔物の攻撃をかわすミリリアには、焦りが滲み始めていた。逃れるだけで精一杯。なかなか踏み込んだ攻めに討って出られないからだ。
一方の魔物の兵士も、三人掛かりだというのに人間の----それも小さな娘たった一人を捉えることができず、些細とはいえ味方の手傷ばかり増えて、こちらは目に見えて苛立っていた。
絶えず動き回って息の乱れたミリリアを、横薙ぎに振るわれた太い材木が襲う。この木は既に二本目だ。一本目は先程、三ツ目の大鬼が大上段から地面に叩き付けて、半ばから折ってしまった。
風を殴る唸りを伴うそれを、ミリリアは地に伏せるように身を低くしてやり過ごす。
宙に残った三つ編みさえ庇ってそのまま前へ転がると、娘が元いた場所に火の玉が命中して、芝を焦がし火の粉を散らした。人間の頭ほどの大きさの火の玉は、カエル顔の兵士が口から吐き出したものだ。
体勢を立て直す間もなく斬り掛かる一本角のオオカミ顔を、ミリリアは片膝を地面に付いたまま凌ぐしかなかった。
一撃目は横に流す。二撃目は支えきれない。
小柄な娘の明確な弱点だ。あの細腕から捻り出される腕力などたかが知れている。力で押し込まれればどうにもならない。それが分かっているから、ミリリアは厳しい姿勢から片足を引きつつ、刃を支点に身をひるがえした。----岩の皮膚を持つカエルが、背後を狙っていたのも察していたように。
小娘の背が消えて正面から向かい合う形になった魔物同士は、カキンと刃の音を一度させて剣を下げた。二人の兵士が一瞬ミリリアを見失う。
その隙に、ミリリアはオオカミ顔の脇を擦り抜けながら剣を走らせ、
その軽やかな動きを捕らえようとした大鬼の腕の下を潜って、膝の裏の筋を叩く。
巨漢が堪らず膝を折っても、娘は止まらなかった。
振り返る。そこを目掛けてカエルが放った火炎を、体を横に倒してなんとか一拍で避け、そのまま無理矢理にも前へ出て、痛みに怯んで動作の遅れたオオカミ顔に迫った。
「やあああっ!」
疾風のように駆け抜けた太刀筋が、一本角のオオカミの全身を細く浅く幾筋にも渡って切り裂いた。鎧がなければ、或いは小娘にもう少し腕力があれば、倍の傷が走り抜けていただろう。
しかし、それで充分だった。
オオカミが地面に崩れる。
そして、大技に大きく呼吸を乱したミリリアは、続いて迫る刃に反応しきれなかった。
カエルの剣が浅く捉える。
暗い庭の芝に、小娘の鮮血が散る。
一度は膝を付いたはずの大鬼も、膝当ての留め具があったせいか、衝撃に膝を折っただけのようで何事もなく立ち上がった。
さらに、
少々蹌踉けながら後ろへ飛び跳ね、距離を取って構え直すミリリアの、
その向こう側に----、
「大丈夫か!」「加勢する!」
中庭に駆け込む、新たな魔物の兵士を二人、見た。
「!」
ミリリアが弾かれたように顔を向けた。
完全に気の逸れた娘を、カエル顔が見逃すはずがなかった。
一息に間を詰め突進する。
その横から、材木を放り出した大鬼が、巨大な両手で掴みにかかる。
慌てて向き直ってももう遅い。
息を呑む。迎え撃とうと気を溜める青い瞳。切っ先を上げ、身構える。
ぎいん!
物陰から突然割り込んだ剣に斬り掛かられたカエルが、続く足蹴りに堪らず弾き飛ばされ、大鬼にぶつかる。その後を追って駆けた刃は、カエルを受け止めながら少しも蹌踉けなかった大鬼の腕にまで及ぶが、しかし踏み込みが甘かったか、それは掠めただけで止まった。
場に、空隙が生じる。
そこに呟きが、ぽつりと落ちる。
「なるほど。硬い」
手に残る感触を払うように剣を振って、我はその切っ先を目の前の兵士二人に向けた。
カエルがぶつかった大鬼に乱雑に放り出されて、よたよたと構え直す。
ミリリアが手こずっていたわけの一端が知れた。
火を吐くカエルの皮膚は、その見た目通り----否、蛙とすれば不自然なのだが、岩のように硬かった。いま斬った箇所も、その皮膚を擦っただけでまるで痛手になっていない。三ツ目の大鬼にしたところで、両腕の傷は浅かった。我を警戒してにじり下がり間合いを計る。
「こいつ、どっからわいた」
「チビ一匹だけのはずがねぇわな」
「助太刀ってわけか」
「増えたところで所詮人間だ」
「侵入者は全て捕らえろとの命令です」
突然の乱入者に足を止めていた新手の二人も会話に加わって、動く素振りを見せる。
我は目の前の二人に真っ直ぐ剣を向けたまま、視線は離れた新手を見据えて牽制する。
「シェロナ様……?」
そこでやっと、背中に至極疑問そうな声を聞いた。
そこにはただただ驚くばかりのミリリアがいる。
我は振り返らず応じる。
「これで借りは返した」
「借り……ですか??」
ミリリアの小さな声は、何の事なのか本気で分かっていない。恐らく、戸惑った顔で頻りに首を傾げてでもいるのだろう。これにとって、あの時の行いはそれだけ当たり前のことで、恩を着せるようなことではないのだ。
分からないのならかまわない。我としても、恩を受けたという意識はない。ただあの時の「負け」を取り返す。そんな心持ちだ。そして今この場でそれを清算するのには、また別の思惑がある。近くに潜んだまま直ぐに助けなかったのは、なにもこの娘が危機に陥るまで待ったからではない。その思惑に関連して、中庭とその周辺を観察していたからだ。
ちなみに。
アルドが言った通り、鉄柵ごと窓を破って下りても良かったのだが----元の体でならば確実にそうしていたが、そしてルートに城を壊すなと釘を刺されていたからでもないが、それには周りの壁も破壊することになり、さすがに難渋しそうだったので断念した。
ともかく。
「うおぉう!」
大鬼が動いた。
再び拾い上げた木材で、我を叩き潰そうと振り下ろす。
小さなミリリアでなくとも、あんなモノをまともに食らったらただでは済まない。
大雑把な動きのそれを、我は地を蹴ってかわした。
遅れてミリリアもまた脇へ跳ねる。
大地を叩く重い音と、木の割れる耳障りな音が反響する。
その一手を合図に、魔物の兵士共が間を詰める。
「増えると面倒だ。
手早く片付ける」
「えっ? えっ?」
状況の変化に置き去りにされ、いたずらに首を左右に振って惑うミリリア。
我はそんな小娘を放って、正面の大鬼に向かい草を鳴らして地を駆けた。




